序章 愛のチャンネル

1/1
前へ
/5ページ
次へ

序章 愛のチャンネル

※トリガー警告 この作品には以下の内容や描写が含まれます。 ・大人から子どもへの性的搾取 ・児童ネグレクト ・差別的言動やマイクロアグレッション ・恋愛関係における搾取 あまり直接的ではないマイルドな描写が多いですが、トリガーの恐れのある方はご注意ください。 ※また、序章の時点では、描かれていることが性的搾取であるということへの十分な言及がなされていません。しかし、大人から未成年に対する作中のような接触は許されないことであることを、ご承知おきください。 ------------------------------ ──はろー、愛ちゃんだよ。 今回もたくさんの質問やメッセージありがとう。なんか、すっかりみんなの質問に答えるトークチャンネルになっちゃったね。最初は僕、メイク動画とかモーニングルーティンとかやろうと思ってたのに! でも、僕的にはみんなと楽しめるんなら何でもいいかなって感じです。 じゃあ今回はこのメッセージからね。 「愛ちゃんは、今までに男の人と付き合ったことがあるんですか? もしあるなら、どんな人とどんな恋をしたか聞いてもいいですか?」 っていう質問を、「愛ちゃんよりちょっと年下のゲイ」さんからいただきました。 あーその話しちゃう? けっこうヤバい話かも。でもまあいいか。実は、動画始めるきっかけでもあるし── キラキラネームなんて言葉がいまだに巷では取り沙汰されてるけど、学校の名簿にふりがなを付ける仕様にはなかなか変わらないらしい。新学期のたびに、大抵僕の名前とジェンダーは読み間違えられる。 その新しい担任も、名簿と僕の顔を見比べて、 「とだ・あいさん?」 と呼んだ。 訂正してもいいんだけど、その度に驚かれることに飽きていた僕は、その日……高校入学初日、ただしれっと 「はーい」 と答えた。だけどすかさず、同じ中学から来たうるさい男子たちが声を上げる。 「先生違いまーす、こいつ〝あいすけ〟でーす」 「女みたいな顔の男でーす」 「え!? ええと……」 失礼なヤジを飛ばされた上に、担任の驚いた顔も結局見ることになってしまう。たぶん20代後半くらいの若い担任は、そのヤジが嘘か本当かも判断がつかず戸惑っているようだった。僕はため息をつきながら立ち上がる。 うちの高校の制服は、男女ともシンプルなブレザーで、ネクタイも同じえんじ色。ズボンかスカートかを各自選べるような対応はまだ取られていない古くさい学校だけど、机に隠れて下半身が見えないと、偶然にも不思議なジェンダーレス感が生まれる。 しかし、立てば僕のズボンが先生の目にも入る。本当はこんな味気ないスラックスで、僕のジェンダーを表現なんてしたくないのだけれど。 「戸田愛維(あいすけ)です。男子です」 自ら名乗る僕の全身を、彼は何度も瞬きしながら見つめた。 「……は、はい。あいすけさん、ですね。わかりました。ありがとうございます」 なんだか気の弱そうな人だな、とその時思った。高一の担任が、こんな感じで務まるのかな、と。 ──のちに彼は、その時の僕の姿が眩しかったと言っていた。 立ち上がった瞬間に、僕がキラキラ輝いて見えたんだって。 最初のきっかけは、9月の球技大会だった。 体育館やグラウンドの複数コートで同時多発的に試合を進めていくこの行事、スポーツ好きの子たちはいくつもの競技を掛け持ち、苦手な人間は無難にすぐ負けそうな一競技だけ参加する。クラス内の役割分担をそれとなく互いに読み合う機会にもなる、ちょっと奇妙なイベントである。 僕はもちろん後者で、バレーで無事一回戦敗退した後は、他の競技の応援にも行かず適当にサボろうとしていた。 校舎を挟んでグラウンドと反対側の中庭に面した渡り廊下は、今日はほとんど人の通らない絶好のサボりスポットだ。渡り廊下のコンクリと地面の段差に座って、紙パックのミルクティーでも飲みながらスマホで動画見よう、なんて考えてたら、先客がいた。 「うわ」 思わず声を上げてしまって、慌てて振り向いた彼が、手の中の焼きそばパンを落としそうになっている。 「と、とだくん」 「先生……クラスの応援行かなくていいの」 彼は少し口をパクパクさせた後に、やっと声を出した。 「さっきまでは行ってたんだ。昼メシ食べる暇がなかったから」 そういえば昼休みの時、先生が教室にいなかったことを思い出す。 「昼休み、何してたんですか」 僕は彼の隣に腰かけた。 「若手教師はいろいろ雑用やらされるんだよ、特に今日みたいな日は。昼休み返上でも若いから大丈夫っていう、謎の理屈が存在してね……」 遠い目をする先生に、僕は思わず笑ってしまう。 「それで、こんなところに隠れてパン食べてるの?」 遠い目のまま僕を見る先生。 「そうだよ。川原先生に見つからないように必死なんだ」 体育主任を名指しして、少しふざけてるような雰囲気。この人のこんな感じは初めてで新鮮だ。その時、ちょっと強めの風が、僕の前髪を巻き上げた。 「いたっ」 右目に走る違和感。 「目にゴミが入った?」 隣で尋ねる先生が、僕の顔を覗き込んだ。 「ちょっと見せて」 男の人の顔がこんなに近づくのは、初めての経験だった。意外とかわいい顔してる。僕の下瞼を指先で引っ張って、先生は上手に僕の目のゴミを取ってくれる。僕は、自分がずっと息を止めていたことに気づく。 「水で洗ってきた方がいいよ」 短く「はい」と答えて立ち上がった。心臓の音が聞こえてしまいそうで、早くその場を立ち去りたかった。 「愛、なんか変」 タロちゃんの、こういう勘の良すぎるところだけは困りものだな、と思う。お隣の飛鳥井(あすかい)さんちの一人息子で小学4年生の太良(たろう)くんは、年の割に頭が良すぎて大人びて見えるけれど、内面は優しい子で、僕とママのお気に入りだ。 タロちゃんの家は、隣り合ううちとは比べ物にならないくらい大きな高級住宅で、お父さんは官僚の偉い人らしい。だけど夫婦喧嘩が絶えなくて、近頃は家で宿題もできないと、よくうちへ避難しに来ていた。以前は図書館まで自転車で行ってたらしいけれど、玄関先でママがつかまえて事情を聞き出し、うちへ招いたのだという。今も有名私立小学校の制服のまま、うちのリビングテーブルに宿題を広げている。僕もママも、タロちゃんが家に居るのはいくらでもOKだけど、彼が家庭でつらい思いをしていることだけは気がかりだった。 「愛ちゃんがヘンって?」 名付け親でありながらもはや自分でも「愛維」とは呼んでいないママの問いに、うーん、とタロちゃんは首をかしげる。 「……浮かれてる」 まったく、鋭い。スポーツ大会から帰ったその夕方、たしかに僕は、浮かれていた。──相手は先生だし、男の人に恋して叶ったことなんか一度もないし、望みは薄いとわかってるのに、昔から僕はこうなのだ。 小2の時の、意地悪だけど駆けっ子が速かったゆうきくんも、中1の時の、クラス委員でメガネ男子だった木下くんも、絶対無理だと思いながら、好きになったその瞬間は、いつもウキウキしていた。 「また推しのKぽアイドルでも見つけた? 最近どんな子が流行ってるか教えて~」 シングルマザーで漫画家のママ麻紀(まき)さんは、僕のセクシュアリティを理解していると同時に、息子の恋愛事情には大して興味がないようだ。今はウェブ連載が決まったティーンズラブ漫画の、相手役キャラの造形のことで頭がいっぱいらしい。そんなやり取りを気にも留めぬ様子で、タロちゃんはもう自分の宿題に集中している。と、思ったら、不意に顔を上げた。 「愛、変な男に引っかかるなよ」 「な……」 僕は思わずタロちゃんの隣の椅子に座った。 「なにそれ生意気~!」 タロちゃんの頭をくしゃくしゃ撫でてやると、うるさそうに手で払われる。はーい、ごめんなさい。 まあ、引っかかるも何も、ハードル高すぎて何も起こりえないんだけど。その時の僕は、そう思った。 ──僕の側からは高すぎるハードルに見えていたものが、先生にとってはそうでもなかったのだろうか。今となってはわからない。たとえばそれは……クラスのグループラインから僕のアカウントを見つけ出すことも、そこから個人的に連絡することも、指先ひとつで、簡単にできてしまうように。 「ごめんね、いつも」 雨が、彼の運転する車のフロントガラスにぴしゃぴしゃ跳ねて、次の瞬間にはワイパーにさらわれていくのを、僕は後部座席から見ていた。 呼び出されるのはいつも、人気のない地下駐車場。そこから「ドライブしよう」と言って、隣の県とか、郊外のカフェとかに連れていってくれる。だけどドライブなのに、僕はいつも後部座席で小さくなって、助手席には座れない。 初めに学校の外で二人で話したいと連絡がきた時は、飛び上がった。話の内容はクラスのこととか、先生同士の人間関係とか、悩みとか愚痴とかそんな感じ。ただ話し相手が欲しかったのかな、と思ったけど、その相手に選ばれたことは嬉しかった。 そのうちいろんな場所に連れ出してくれるようになって、もしかしたら、ただ僕と一緒にいたいと思ってくれてるのかも、と期待するようになった。だけど、話すことはそんなに変わりなくて、後部座席の景色と、先生の打ち明け話と、たまに僕の身の回りの話とか、そんな時間が数週間に一度のループで積み重なっていく。この時間の正体を、僕はいまだに掴めずにいる。 その日の行き先は海だった。県をまたいで、僕たちを知る人どころか、他に人っ子一人いない海岸沿いの国道の小さな展望公園。駐車場が展望台の一部になっていて、本来なら車に乗ったまま景色が見える場所だけれど、その日は雨に煙っていた。せっかくの海なのに、何も見えないねって彼が言った。 それから何かを決意したように、彼は勢いよく車を降りると、後部座席のドアが開いた。「降りる?」と問う僕の声が届くか届かないかのうちに、そのまま後部座席に乗り込んで来る。 「このまま少し、ここで休んでもいいかな」 雨粒に少し濡れた肩や髪もそのままに、座席を倒して、僕の隣で彼は眠った。僕も隣に寝そべりながら、彼の寝顔を見つめていて、しばらくしたら、眠ってしまった。 何時間も眠っていたような気がしたけれど、目を覚ました時まだそんなに辺りは暗くなっていなかった。彼はいつのまにか起きていて、僕を見下ろしていた。 「今何時……」 言いかけた僕の唇に、彼の顔が降りてきて塞いだのは、一瞬のことだった。そして「帰ろうか」と言って、運転席に戻った。 その日はそのまま何も話さず、いつもの地下駐車場で別れたけれど、僕はずっと心臓がドキドキしていた。 そして……次に会う時からはずっと、それが続くことになった。 つまり、人気のない場所に車を停めて、彼が後部座席に来て、キスをすること。回を重ねるごとに深くなるキスを、僕は、愛の深さの表れだと思った。 2年生でクラスも担任も変わって、それでも数週間に一度、彼から呼び出された時だけの逢瀬は続いていた。だけど3年になってからは、だんだんと、模試や予備校で会えない日も多くなった。 やっと大学の合格発表が出た頃には、授業もほぼなくなって、担任への合格報告のために久しぶりに登校した学校は、なんだかがらんとして見えた。まだ寒いけれど良く晴れた日で、職員室の窓から差し込む日が眩しかった。3年の担任だった気さくな若い女性の先生は、僕の合格報告に「おめでとうございます!」と大きな声で応えた。 「実はね、先生も君たちと一緒に卒業することになったのよ」 そう言ってちらりと彼女が視線をやった先に──彼がいた。 「結婚するの」 迷ったけど、彼の希望もあってひとまずは家庭に専念することに……なんて言葉を続ける彼女の前で、僕の意識は窓から差し込む光の中に溶けて、ここがどこかもわからなくなりそうになる。もう一度彼の方を見ようと目をやると、そそくさと職員室を出て行く後ろ姿だけが映った。 どうやって家に帰ってきたかも覚えていない。 「愛ちゃん!」 ママの声にびくりと肩を震わすと、僕の目の前にどん、とホワイトシチューの皿が置かれた。 「温かいものを食べなさい」 僕は何も話さなかったし、ママも何も聞かなかった。だけど何かを感じ取っているのは明らかだった。それは、僕の隣に座って一緒に食卓を囲むタロちゃんも同じだ。タロちゃんは最近、食事もうちですることが増えている。 「泣いてもいいから、食べるのよ」 「泣いてないけど」 そう言い返したけれど、温かいシチューを口に入れた瞬間、停止状態だった感情が急に動き出したみたいに、体の奥から熱いものが上がって、涙になって溢れてきた。 ママは黙って自分の皿の鶏肉を一個、僕の皿に分けてくれた。まったく、作家のくせに実生活での愛情表現はぎこちないんだから。 その仕草に思わず「ふふっ」と笑ったら、笑いとともにまた涙が溢れて、自分でも自分の感情がよくわからなくなる。そしたらタロちゃんまで、僕の皿に自分の肉を分けてくれる。 それから3人、鍋を空にするまで黙々とシチューを食べた。二人はずっと、僕のやりきれなさを代わりに体現してるみたいに、怒ってるような、泣くのをこらえてるような顔をしていた。それは、乗り越えるための儀式みたいな、奇妙な食事だった。 その夜は、熱にうなされた時のような、混沌とした妙にストレスフルな夢を、3本立てくらいで見た気がする。目覚めたらまだ5時過ぎで、日も昇らない暗い中、僕はもこもこのルームシューズを履き、ブランケットをかぶる。それからパソコンを開いて、検索画面に「動画 作り方」と打ち込んだ。 頭にシグナルのように強く浮かんでいた言葉は、「面白くしなきゃ」、だった。僕の人生も僕自身も、もっと面白くてクールで、自分で自分を最高って思えるようなものに。そうしたら、気持ちを弄ぶ人に振り回されたりせず、強くなれるような気がして…… ──まあ、あんまり詳しくは言えないけど、結局ずるい大人の男に引っかけられたんだよね。今僕大学1年で18だけど、高1の時って言ったら、誕生日来る前だと15歳じゃん。絶対騙されてたよね。バカだったー。 ……なんかね。僕もそうだけど、マイノリティの子たちって、焦っちゃうとこあるじゃん。ほんとに自分のこと好きになってくれる人なんて現れるのかな、とかって。質問くれた子も、そういう不安があるんじゃないかと思うんだけど。でもさ、焦って飛びつくと、こっちばっかり振り回されるつらい恋になっちゃうのかなあ……なんて思った。 まあ、今回はそんなところで! まだ始めたばっかりの小っちゃいチャンネルだけど、コメントやメッセージくれる人が増えてきてうれしいよ。この動画が面白いと思ってくれた人は、チャンネル登録、高評価ボタン、コメントよろしくね。以上、愛ちゃんでした──
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加