第三章 ヘルプミー

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第三章 ヘルプミー

「ロンドン!?」 ふみとココ・シャネル展を見に行ってその後入ったカフェで、思わず僕は大きめの声を上げてしまう。 「そう……もちろんテツさんも一緒なんだけど」 清純ぶりっ子じゃなくて、本気でちょっと切ない笑みを浮かべるふみは珍しい。 「テツさんのご両親が、向こうで日本食レストランやってて」 ふみが語るには、テツさんは元々、大学を卒業したら両親の店を手伝うつもりで経営学科に入ったのだそうだ。けれどそれは、親から求められていたわけでもないし、テツさん自身そこまで強い決意でもなかった。だから、ふみに出会ってあっさり方向転換し、「パートナーができたから渡英はしない」と両親にも伝えていたらしい。 「でも、ご両親が雇ってた経理のスタッフが、店のお金、持ち逃げしちゃったらしくて……」 僕は「ええっ」と目を丸くする。テツさんは今、新卒で入った商社の営業の仕事の傍ら、両親とも頻繁に連絡を取ってリモートで対応を手伝っているという。 「あんまり忙しくて大変そうだったから、僕の方から言ったの。だったらもう二人でイギリス行っちゃおうよって」 僕はため息交じりに「そうかー……」と溢す。 「ふみもテツさんのご両親の店、手伝うの?」 「うん。調理に入らせてくれるって」 ふみはゲイをカミングアウトしてから田舎の両親とは縁が切れているらしいから、理解あるテツさんの家族にあたたかく迎え入れられて、本当に良かったと思う。けど…… 「あーでもやっぱ淋しいな~! ふみに会えなくなるの」 「そうなのー! 僕も愛に会えなくなるのが一番淋しい!」 二人して「うえーん」と抱き合ってしまう。 「でも、永住するつもりでもないから。前に、いつか二丁目にレストランとバーの融合みたいなのお店持ちたいって言ったじゃない。食事もできて、オールジェンダーだけどマイノリティのための場所で、友達作ったり踊って遊んだりもできるところ……」 かつてのふみは、それを、ちょっと非現実的な夢として語っていた。 「調べたら、ロンドンのソーホーってゲイタウンでは、そういう店はもうすでにありふれてるらしいんだよね。向こうにいる間にそれも勉強してこようかなって」 「へええ……」 僕も思わず目を輝かせる。 「……でもさ、いいの? 向こうは同性婚も実現してるし、たぶんゲイカップルにとっては日本より住みやすいかもよ?」 僕の問いに、ふみは「うーん」と唸る。 「向こうにいても、どっちかが国籍変えなきゃできないからねえ、同性婚……」 そんな話をしていたのが11月。3ヶ月後、ふみは本当に、テツさんと一緒にイギリスに行ってしまった。 ──はろー、愛ちゃんだよ。 ご報告です! 愛ちゃん無事、大学卒業しました~! 卒論の応援コメントくれた人、ほんとありがとねえ……。 卒業式はね、僕はブラックのスーツ着たよ。意外? じゃあ写真も見せちゃおうかな…… じゃーん! これです! スカートにしちゃいました! 僕、スカートってめちゃめちゃかっこいい形の服だと思ってるんだよね。ジェンダー関係なく着たい人みんな着たらいいのになあ。このアシンメの斜めラインと、大きめのプリーツがお気に入りなんだよね。 あとこの薔薇のコサージュね! これ自分で作ったの。顔くらいでっかいやつどうしても着けたくて、作り方ネットで調べて、日暮里でめちゃめちゃ生地探したー。当日はいろんな人に一緒に写真撮ろうって囲まれてすごかったんだよ。えへ、自慢。 それと、けっこうたくさん質問もらったんだけど、僕の卒業後の進路についてね。実は、動画の収益がけっこう上がってきてて、しばらくはこの道でやってみようかと思ってます。就活もちょこっとだけやったんだけどさ、見た目とかでもう相手にされないとこが多くて。じゃあもう就活良くない? って思っちゃった。ママは心配してたけどね。でも自分も似たような商売だからなー、とかなんとか言ってたけど。 まあそんなわけで、これからますます動画がんばるから、応援してね。近々、ちょっといい報告もできるかも── と、浮かれてついつい口走ってしまったんだけど、こういう仕事って終わってみて実際世に出るまでどうなるかわかんないよなあ。案内された控室の雑然とした様子を見て、僕は急激に自信を失っていた。 ファッション誌『パルファム』の特集「モテる女子がみんな見てる動画」という企画に声をかけられたのは、卒論の口述試験が終わってすぐのことだった。控室には、ほとんど美容系かファッション系の動画配信者と見られる女の子たちが溢れかえって、みんな入念にメイクを直している。ああ、これってもしや、取材されても必ず載るとは限らないやつだったりする? と不安にかられていたところで、僕の後ろの扉ががちゃりと開いた。入ってきた男性スタッフらしき人が、コピー用紙を束ねたような資料を手に言った。 「愛ちゃんさん、かみゆさん、鹿田(しかだ)さん、来てもらえますか」 慌てて「はい!」と振り返ると、名前を呼んだスタッフが、意外と近くにいた僕に照れ笑いみたいな表情を浮かべた。若手の編集部員だろうか、人の良さそうな目じりの下がる笑顔に、ちょっと安心した。 僕以外の呼ばれた二人も立ち上がってこちらへ来る。と思ったら、小さな声が聞こえた。 「ああ、特殊なタイプの人たち……」 「武器があってうらやましいよね」 特殊なタイプ……ってその言葉遣いやばいんじゃないの? とツッコミ入れてやろうかと思ったけど、ふと気づくと、僕の隣に立つ人の手が震えていた。 「かみゆ」は、トランスジェンダー女性であることをオープンにしている美大生で、ものすごく緻密で細かいネイルアートの動画で話題になった子だ。美容意識の高そうな女子たちの中で、眼鏡をかけてシンプルな服とメイクの彼女は、僕と違う意味で目立っていた。 僕はその肩をつんと指で突く。 「行こ」 彼女は、ちょっと驚いたような顔で頷く。 「ちょっと私もまぜてよ~」 二人の肩に、勢いよく体重がかかる。お笑い芸人の「鹿田」は、ネタの動画や大きな体を思いきり揺らして踊るダンス動画も人気だけれど、実は美容専門学校出身で、最近は「K-POPメイク」「インド映画メイク」など、世界各国のエンタメのメイクを研究し再現する動画が話題になっている。たしかに、他の人たちとはちょっと毛色の違う3人だけが呼ばれたようだ。 写真撮影した後すぐ隣のブースでインタビューと、流れ作業のような取材が行われているスタジオの、別の一角に僕ら3人は連れてこられた。 「みなさんは写真よりも記事のボリュームを多めに取りたいので、こちらで先にインタビューさせていただきます」 さっきの人の良さそうなスタッフが説明する。「はーい」と返事して、小さな丸テーブルの周りに置かれた椅子に、適当に3人座った。「記者がもうすぐ来るので」と言って、そのスタッフは行ってしまう。 「はじめまして~鹿田です、二人とも動画見てるよ」 すぐにそう切り出した鹿田さんは、たしか20代後半で、一番年上だし芸人さんだし、いかにもコミュ力高そうな感じだ。 「僕もお二人の動画見てますよ。メイクもネイルも、すごいなーって」 そう返して二人の顔を交互に見たら、なぜかかみゆさんは、青い顔をして気まずそうにこちらを見ている。 「……すいません、私ほかの人の動画、あまり詳しくなくて……」 おっ正直、と思ってにんまりしてしまったら、鹿田さんも隣で似たような顔をしていた。 「いいよいいよ、僕は〝愛ちゃん〟って登録名で動画やってます。愛でも愛ちゃんでも好きに呼んで」 「まあ実際、動画配信者ってわりとそんな感じだよね~」 僕は元々高校生の時動画ばっかり見てたから、何かしようと思った時にすぐに思いついたのがこれだったけど、単に表現媒体の一つとして使っているだけで、動画自体にはそんなに興味がない配信者もたくさんいる。でも、そこが面白いところだと思う。この世界でやってくならこれを押さえなきゃ、みたいな道が一つじゃないところ。 「かみゆです。動画では主にネイルアートをやってますが、小さいものに細かい絵を描くことが好きな人間です」 「小さいものって、たとえば?」 鹿田さんが訊ねる。 「あー……これ、大学で制作したものなんですけど」 見せてくれたスマホの画面には、クマやウサギのぬいぐるみを一体一体撮影した写真が並んでいる。しかしなんだか顔がおかしい。それぞれを拡大して見ると、ぬいぐるみの目に、カラフルな細かい絵が描き込まれている。アラベスク模様のようなものもあれば、極小の風景画が描かれているもの、アメーバの集合体みたいなグロいのもある。 「うわ、これちょっとアバンギャルドだね」 「あとこれとか……」 リモコンのボタン、画鋲、シャーペンについてるミニ消しゴム。小さいところに細かな絵が詰め込まれているモノたちが、所狭しと並ぶ図。 「ネイルだけじゃないんだ……すごい、面白い」 「ネイルはこういう制作物の応用なんです」 それからお互いのやってることを自己紹介し合ったりしていたけれど、記者はなかなか現れない。 「すみませんっ……ちょっとトラブルあって対応できる記者が出払っちゃって、もうちょっとだけ待っててもらえますか?」 さっきのスタッフが駆けこんで来た。「あ、はーい」とか「おかまいなく」とか返事して、3人顔を見合わせる。 「……なんか大変そうだね」 僕の言葉に、 「まあ、終わり時間読めないって聞いてたんで、私は大丈夫ですけど」 とかみゆさんが言って、2人とも頷く。 「ところでさ、この間見た愛ちゃんの動画面白かったー、不倫しちゃってる子の相談のやつ」 不意に鹿田さんが言ってきて、「えー見てくれたんですか」と驚く。 「〝不倫してる男、たぶんほぼ全員このセリフ言ってるよ〟ってところで爆笑しちゃったわ。あれ実体験なんでしょ」 「まあ僕の場合は不倫じゃなくて、彼女いる人だったんだけど」 「まあメンタリティ的には不倫男よね」 かみゆさんが「どういうセリフですか?」と興味を持ってきて、僕は忘れもしない「うまく説明できない」「君の思っているような関係じゃない」「どうにかするつもりだ」を教えてあげる。今となっては笑い話にできるから不思議だ。 「わー、うわー」 かみゆさんが、いつかのお好み焼き屋でのふみのリアクションを思い出すような声を出す。過去の話だから、あの時よりはライトだけど。 「でもその後あれあれ、オープンな関係? とかの話も出てきたのが、愛ちゃんってやっぱちょっと他の人と違うなって思って」 「へえ、興味あります」 かみゆさんも性的マイノリティ当事者だし、この辺の話題には敏感なのかもしれない。 「オープンリレーションシップの夫婦とか、ポリアモリーの関係性を築いてる人たちもいるよって。はたから見たら不倫に見えても、本人たちにとっては全員オーケーな関係ってことはあるよっていう話」 「そうですよね……」 とかみゆさんは頷くけれど、 「でもなんか私の中では、不倫男クズ、みたいな感情もあって……同性カップルでオープンリレーションシップと聞いたら全然普通じゃんって思えるのに、自分でも偏見だと思うんですけど」 「やっぱそれはさあ、男の方がずるいやつ多いからじゃない? 愛ちゃんのこと騙したやつみたいに」 鹿田さんの言葉に吹き出しながら、「待って待って、僕も男」と自分を指差す。 「あそっか、ごめん! 女子だと思ってるわけじゃないけど、なんか愛ちゃんってこっち側の味方な気がしちゃって」 「まあ、フェミニストですから、正しい意味の方の」 そこでかみゆさんが「へえ~」と感心したような声を上げた。 「いいですね、私も愛ちゃんさんの動画見てみたいです」 僕は思わずにやりと笑う。 「愛ちゃんとか、愛でいいって。〝愛ちゃんさん〟は変だもん」 「あ、私も鹿田で、呼び捨てでいいよ。呼び捨て含めて芸名みたいなもんだから」 「あ、私もかみゆで……その方が呼ばれ慣れてるので」 謎の呼び方確認の流れになったところで、 「いいね~、面白いね君たちの会話」 さっきのスタッフさんと連れ立って、首にパスを提げた40代くらいの男がやってきた。 「お待たせしてすみません、うちの記者の名取です」 と紹介される。 「いっそのこと、この3人のクロストークって形にしない? 絶対その方が面白いって」 「え、それは編集長に聞いてみないと……」 うろたえているスタッフに、名取というその記者は、 「それを聞いてくるのが田所(たどころ)ちゃんの仕事じゃん。はい行ってきてー、オッケー以外の返事はいらないから」 と背中を押した。 「で、結局愛ちゃんは、不倫は容認派? 否定派?」 一部始終をぽかんと見ていた僕たちに向き直って、名取が問う。「えっと……」と僕は戸惑いつつ答える。 「不倫かそうじゃないかより、ずっとずるいことや勝手なことしてる人がいて、ずっと我慢してる人や踏んづけられてる人がいるような関係性は、何にせよ良くないなって思います」 「なるほど不倫容認かー」 話聞いてたんか、と思いつつ、二人を見たら、同じことを思ったような顔をしていた。 結局3人でクロストークして、写真もその様子を取るような形になった。ソロ写真も一応ほかのみんなと同じように撮ったけど、使われるかどうかはわからない。3人で話すのはすごく楽しかったから良かったけど、田所さんが一人で走り回って四苦八苦しているのは、ちょっと不憫に映った。 帰り際、ビルのロビーの自販機でお茶を買ってたら、奥のベンチに、顔が全然見えないくらいがっくり頭を垂れて疲れ切った様子の田所さんが見えた。僕は咄嗟に、自分のお茶以外にもう一本ホットの缶コーヒーを買う。 「おつかれさまです」 目の前に立って言うと、ゆっくりと彼は顔を上げた。 「ああっ、おつかれさまです」 「かしこまらなくていいですよ、これ、もしコーヒー嫌いじゃなかったら」 差し出すと、彼は「えっ……」と言ってしばし固まる。 「いや、そんな、悪いです、こちらが飲み物お出しした方がいいくらいなのに……」 ぶんぶん手を振る彼に、にやりと僕は笑う。 「いや、今日ちょっとかわいそうだったから、ねぎらってあげたくなって。でもいらないならいいけど……」 引っ込めようとしたその手を、彼がぱしっと掴む。 「あ、ご、ごめんなさい。でも、その」 「はい、どーぞ」 渡してあげると、「ありがとう」とはにかんだ。 「……へえ、ああやって編集部に取り入るんだ?」 明らかに、聞こえよがしに投げかけられた声に振り向く。数人の女の子たちがぱっと顔を背けた。さっき控室で見た子たちだ。そのまま彼女たちは、足早に去っていく。 「わ、なんかごめん、俺のせいで……」 田所さんが言うけれど、僕は妙に感心していた。 「すごいね……動画やってる人って、あんまり本気っぽく見せない人が多いから……他人を敵視するくらい、のし上がってやろう的な気持ちあるんだ。なんか今日ちょっと学んだかも……」 彼はぽかんとした顔で僕を見て、それからなぜか「ふふっ」と笑った。 午後から始まって出版社のビルを出たのは夕方6時頃だった。帰りの電車で、雑誌の取材ってなんか変な感じだったな、と思い返す。仲良くなれそうな人たちにも出会えたけど、好意もあれば悪意もあって、人を使う人と、使われる人がいて。ちょっと非現実的で、ごちゃごちゃして、判断力が鈍りそうな空間。 ラインの通知音が鳴って、見たら太良からだった。 〈愛、今どこにいる?〉 すぐに返信を打ち込む。 〈電車に乗ってるけど、もうあと15分くらいで最寄り駅に着くよ〉 すぐ既読がついて、返信が来るまでしばらく待った。 〈じゃあ駅で会いたい〉 駅前で、太良はパーカーのポケットに手をつっこんで立っていた。こうして街中にいると、もう少年よりは、青年という言葉がふさわしく見えるかもしれない。春休みが終われば、高校2年生になる。 「見舞いに行ってきたんだ」 とりあえず入った、駅に隣接する小さなカフェで2人分のコーヒーを買い、窓際のカウンター席に並んで座った時、太良はそう切り出した。「お見舞い? 誰の?」 「学校で一人、仲良いやついるって言ってたじゃん」 「ああ」と僕は思い出す。太良がよく話している子。一緒に高等科に上がって、今はなんとかやっていると聞いていたけれど。 「あいつ、休み中に実家の窓から飛び降りた」 僕は目を見開く。思わず太良の手を握った。 「2階だったし、庭の木に引っかかって骨折れたりはしなかったんだけど、打撲と、体中に木の枝の引っかき傷作って痛そうだった」 ひとまず安心なようだけれど、衝撃的な事態に言葉もない。 「あいつ、学校やめたがってたんだ。もう限界だって」 普段は寮で暮らすその友達は、春休み中に埼玉の実家に帰っていたという。そこで彼は、いよいよ両親に学校をやめたいと話した。しかし両親は、「もうちょっと頑張ってみないか」と彼を説得したそうだ。成績競争の苛烈さに擦り減らされる学校の実情を知らない親からしたら、せっかく入ったエリート校を中退するなんて、突拍子もない話に思えたのだろう。 けれどそれは、彼にとっては頼みの綱を断ち切られたようなものだった。結果彼は、パニックになって自室の窓から飛び出した。 「見舞いに行ったら、あいつ晴れ晴れした顔してたよ。これでやっと、親に学校やめること認めてもらえたって」 そう言って窓の外に目をやる太良は、痛々しい友人の姿を思っているようでもあり、少し淋しそうでもあった。 「……友達いなくなっちゃうと、タロちゃん淋しくなるね」 と言ったら、 「あいつにとってはいいことだから……」 と、少しだけこちらに顔を傾けて、呟くように言う。どうしてこの子は、こんなに大人びた我慢ばかり覚えていくのだろう。 一人暮らしをしようと思う、とママに切り出したのは、その夜のことだった。 大学生くらいから僕も外で食べてくることが増えて、太良が来なくなってからは、食事もそれぞれ作って食べるスタイルになってきたけど、代わりに時間が合えば夜のお茶会をするようになった。お茶も各自好きなものを勝手に淹れて飲む。今夜は僕はルイボスティー、ママはコーヒー。 「まあいつかは、とは思ってたけど、ずいぶん早くない?」 大学の卒業式も終わって間もないし、就職もせず動画の収入でやっていこうとしているのだから、ママがそう言うのも無理はない。 「タロちゃんのことなんだ」 ママは、注意深い表情に変わった。僕は、今日太良と会って話したことをママに伝える。 「うちに来れなくなって、タロちゃんのセーフスペースがなくなっちゃったように思うんだ。その上学校の友達もいなくなっちゃったら、本当にキツいんじゃないかって」 「そうね……遥香さんも、今は赤ちゃんのことで手いっぱいみたいだし。しかも、ここだけの話、二人目生まれるみたい」 僕は「そうなの?」と目を丸くする。太良のお父さんと結婚した「新しいお母さん」遥香さんは、一年半ほど前、太良の弟が生まれたくらいからママとよく玄関先で話すようになったらしい。子育てが大変で、誰かと話したい気持ちが強くなったんじゃないかとママは言っている。 それでだいぶ彼女との関係は良くなったけど、父親は相変わらずうちに来るのを太良に禁止していて、それに立ち向かえるほどの力は、遥香さんにはないようだ。 「タロちゃんの学校と家の間の、定期券で来れる辺りに僕がアパート借りて、せめて辛い時の逃げ場になればって。タロちゃんにだったら鍵渡しといてもいいし」 ママは「うーん……」と丸めた手を口元に当てた。僕も、ママがこの家に一人になってしまうことは、気がかりだった。だけどママが言ったのは、もっと意外なことだった。 「そういうことなら……実は最近SNSで再会した高校の友達と、愛ちゃんが一人立ちしたら一緒に住もうかって話してたのよ」 「えっ!?」 思わず素っ頓狂な声を出してしまう。 「その人も離婚して、子どもはいなくてシングルでね。でももっと老後の話かと思ってたんだけど……」 「女子校時代の仲良かった人?」 僕の問いに、ママは少し目を上げて「あー、うん」と返す。 「でも今の自認は、ノンバイナリーなんだって」 ──はろー、愛ちゃんだよ。 最近は、雑誌とかウェブとか、僕のほかのお仕事の感想送ってくれる人もたくさんいてうれしいです! ありがとう。今回はその中で質問が来てるので答えまーす。「もへもへ」さんから。 「『イン』のウェブ連載コラム読みました。その中で、〝恋愛の中の搾取もあるけど、もはや恋愛とは呼べない、純然たる搾取もある〟と書いてましたね。これってどういうものなのか、もっと詳しく聞きたいです」 というご質問、ありがとー。これ、いい機会だから話しておこうと思うんだけど……このチャンネルを始めてすぐくらいに、僕が15歳の頃、大人の男の人と付き合ってたって話した動画があるんだ。その話した時の僕もまだ18歳で、〝騙されてたよね、バカだった〟って感じで話したの。 でもね、今24歳の僕が思うのは……あれは性的虐待でした。されたのはキスだけだったし、僕も恋愛だと思って望んでしていたけれど、大人が子どもにああいうことをするのは、恋愛って言わない。僕は被害に遭ってたんだって、自分が大人になってやっとわかった。 それ以降の恋愛でも、相手に尊重されてないな、とか、都合よく扱われてるなって思うことはあったけど、15歳の時のあれだけは、恋愛とは呼べない、ただの搾取だったって……今は思ってます。── 「怒んないで、笑って、笑って」 と彼はいつも言う。 「もう、うざい」 と僕は頬を膨らませるけど、彼に頬をツンツンされて、そのうち笑ってしまう。 かみゆと鹿田とのクロストークに思った以上の反響があって、その後連載化することになり、雑誌『パルファム』編集部とは、意外に長い付き合いとなった。担当編集者になった田所さんとは、連載が始まってしばらくした頃に告白され内緒の恋人同士になって、2年になる。 「次、土曜休みなんだけど」 僕の部屋で、僕が洗った食器を拭きながら、彼が言う。 「あ、だめ土曜はタロちゃん来るから」 彼はあー、と天井を見る。 「また〝タロちゃん〟に負けたー」 彼と2年も続いてるのは、なんだかんだ言って、太良がここに来ることも理解してくれてるからだと思う。 「高校生だっけ?」 問われて、「今年大学1年生」と答えたら、「え!?」と思ったより大きい声が返ってきた。 「それはもう子どもじゃないんじゃない?」 僕は「何言ってんの」と横目で見る。 「いやー、心配にもなるよ」 彼は僕の肩にあごを乗せる。 「こんなにかわいい奥さんなんだもん」 途端、僕は真顔になる。 「あのさ……前にも言ったよね。〝奥さん〟って言わないでって。そういうのミスジェンダリングっていって、ホントにだめだって」 彼は、「ごめんよ~ゆるして~」とすぐ謝ってくる。あと何回僕はこの人に、同じことを怒らなきゃいけないのかなあ。 「愛ちゃんは俺よりずっと賢いね。俺、愛ちゃんに叱られるの好きだよ」 謙虚でかわいい態度にも思えるけど、叱るのも負担なんだよって、ちょっと言いたくなる。 こういうこと愚痴る相手といったらやっぱりふみなんだけど、時差があるし、向こうもまだまだレストランの経営は大変そうで、そうしょっちゅうはリモートでも話せない。人生で恋人がいない時期があっても別に淋しくなかったけど、友達がそばにいない方が淋しいなって、最近よく思う。 「今日は皆さんに残念なお知らせをしなければならないんですが……」 10月号から12月号までのクロストーク録りを終わった編集部で、かみゆと鹿田と僕が並んで座っている前に、仕事モードの田所さんが来て頭を下げた。 「……連載は、今回の収録分で打ち切りになります」 僕たちは顔を見合わせる。 「ほお……」 「ふーん……」 「ですか……」 3人の微妙な反応に、田所さんは「あれっ」と顔を上げた。 「……そんな感じですか?」 「いや、そもそもこれが2年半も続くと思ってなかったし」 鹿田の言葉に、かみゆもうんうんと頷く。 「むしろ奇跡ですよね。こんな偶発的な企画が」 鹿田は以前よりテレビ出演が増えてきた。かみゆは今年大学卒業で、卒業制作の真っ最中だ。 「まあでも、田所さんにとっては初の担当編集がこの仕事だもんね」 僕が言うと、鹿田とかみゆも「そっかあ」と声をそろえた。 「大丈夫? これ無くなったら路頭に迷う?」 鹿田に聞かれて、田所さんは笑いながら「迷いません」と答える。 「僕もおかげさまで、今は他にもやらせてもらってるんで……でもすべて、皆さんとのお仕事があってのことです」 そう言われると感慨深くなって、3人で「おつかれさま~」と言いながら拍手する。 「あと、愛ちゃんさんには、もう一つお話がありまして」 僕はこの雑誌で、連載の他にも数回、ファッション関連のページにスタイルを載せたり、ファッションアドバイザーみたいな役回りで登場したことがあった。正直そっちの仕事の方が、クロストークよりずっとしんどい。僕は基本的にファッションにNGはないと思ってるけど、編集部側は、僕みたいなキャラには「ダメ出し」をさせたがって、そこでいつも戦うことになる。 「あー、どんな感じですか……」 ファッションチェックみたいなのだったら、今度は断ろうかなと思いつつ田所さんの顔を見ると、なぜか満面の笑みだった。 「なんと……編集部を通じて、愛ちゃんにテレビ出演のオファーが来ました!」 僕は目をぱちくりさせてしまう。テレビ? 「『パルファム』誌上での愛ちゃんのキャラクターに興味を持ったTNSのプロデューサーから、深夜バラエティ『ガチトーク』に出演してほしいと連絡がありまして」 「えー、ガチトークすげえじゃん。私だって出たいよ」 鹿田の方が僕より早く反応する。 「しかし、〝愛ちゃんのキャラ〟って何ですかね。テレビの人に、この人が理解できますかね」 かみゆが首をかしげながらツッコむと、田所さんは「あ、えーと……」と言葉を詰まらせた。 「そこなんですけど……実はプロデューサーから指定されてる条件がありまして……」 嫌な予感がする。直感的に、そう思った。 「出演時は、女性の言葉……いわゆる〝オネエ言葉〟で話してほしいと……」 鹿田とかみゆが「はあ!?」と同時に声を上げる。けれど、僕が無言で立ち上がったのを見て沈黙した。 「あなたは……僕のことわかってるのに、なんで……」 震える指先を彼に向けると、彼はおろおろと「違うんだ」とか「そういうつもりじゃなくて」とか言い訳する。なんだか急にふっと、この場から気持ちが遠のくような感覚がした。 「お断りします」 ひとこと言い置き、僕は編集部を後にした。 ふみに電話したかった。だけどスマホの世界時計を見たら、向こうは午前5時だった。最近、ふみが恋しくなることが増えたのはたぶん、ふみに助けてほしかったからだ。田所さんとの関係の中で、僕はずっと誰かの助けを求めていたのかもしれない。 「愛ちゃん!」 会社のロビーを出たところで、背後から僕を呼んだのは、かみゆの聞いたことないような大きな声だった。振り向くと二人がいた。 「愛~」 鹿田も僕を呼んで、駆け寄ってくる。 「知ってたよ……二人が付き合ってること」 第一声、鹿田がそう言うので僕は「ええっ」と目を剥いてしまう。 「気付くってー。だから遠慮せずに全部話せ」 隣でかみゆも、うんうん、と頷いていた。 「いや田所あいつマジねえわ」 焼肉の煙に包まれながら、鹿田が毒づく。 「鹿田氏それ何回目ですか」 かみゆが横からツッコむけれど、止まらない鹿田は、 「もー、やっぱり男なんかより友情だー! すみませんビールおかわり」 「……もしかして、鹿田も男となんかあったん?」 僕も思わずツッコんだ。途端に鹿田は「うっ」と自分の胸を押さえる。 「……まあ、私は単に振られただけなんだけどね……いいよ今日は愛の話聞く日でしょ」 「いや聞きたい聞きたい、僕の話はもう十分聞いてもらったし」 「奥さん」って呼ぶのやめてくれないとか、怒ってる時に「笑って」って言ってくるとか、抱えていたモヤモヤを、もうひと通り話したところだ。 「いやそれがさー……私最近テレビとかちょっと出れるようになってきたでしょ。そしたら友達に〝お前の嫁あんなデブか〟ってバカにされたから別れようってよー……」 「ハア? 何ですかそれ」 「友達に言われたら何でも聞くのか」 かみゆと僕は口々に罵る。 「ていうか嫁って言葉ムカつきません? 奥さんもそうですけど」 かみゆの言葉に思わず僕は「それなー!」と叫ぶ。 「今まで彼にミスジェンダリングだからやめてって言ってたけど、それだけじゃないよね。結婚してる女の人が言われてても嫌だもん」 そこで鹿田が、「そっかー」と鹿田がため息交じりに溢した。 「私それ、普通のことと思っちゃってたかも。でも彼氏の友達とかが、私のこと〝お前の嫁〟って言う時の私って、なんかすげー私っぽくないんだよね……」 「わかります。自分が〝誰々の嫁〟とか〝誰々の奥さん〟って感じ、もし結婚してパートナーが出来たとしても、たぶん一生しないです」 なんだか新鮮だ。この二人が共感し合える人だってことは、出会った時からわかっていたのに。 「なんかさ、今までクロストークで過去の恋愛話はしてきたけど、現在進行形の話はしてこなかったよね」 僕が言うと、鹿田がロングトーンで「まーーーーーね」と返した。 「雑誌に載っちゃうところで、あんまり今の話できないもんねえ」 「愛ちゃんが田所さんと付き合ってるのなんて、一番触れにくかったですし」 かみゆに言われて僕はがくっと首を垂れる。そうだね、僕の要因もだいぶあったな。 「ま、でも連載なくなるなら関係ねえし、これからは普通にこうやって会って、焼き肉とかしようよ」 連絡先は前から交換していたけど、3人でのグループラインを作ったのは、その日が初めてだった。 〈愛ちゃん、こんにちは。初めてお便りします。この間の動画で、15歳の時に大人の男の人と付き合ってた話してましたよね。それを聞いて、今の私と同じだと思いました。彼は、真剣な交際だから問題ないよって言います。日本の法律では13歳からエッチしていいとも言ってました。それでもこれっていけないことですか? 愛ちゃんの動画を見てから、ずっと気になってます サチ〉 それは、匿名のメッセージボックスに届いていた、僕のチャンネル宛てのお便りだった。 どうするべきか悩んだ末、僕は、太良に相談することにした。太良は今年から、大学の法学部に通っている。 「俺もまだ一年だから自分だけじゃわからないことも多くて、教授とか先輩に聞いてみた」 僕の部屋で、座卓を90度に挟んで座る太良が、かばんから小さなノートを取り出して、書き込みのいっぱいあるページを開く。「ありがとう」と言う僕に、太良は「気にするな」と言うように、あごをくいっと上げる。太良なら、真剣に取り合ってくれるだろうと思ってた。 「性交同意年齢が、最近13歳以上から16歳以上に引き上げられたのは、愛も知ってるよな」 僕は頷く。フェミニスト文学専攻だった僕にとっても、あれは注目のニュースだった。 「その子が15歳なら、まだ同意を判断できない年齢とみなされて、不同意性交罪が成立する。相手の男がニュースを知らないのか、知ってて黙ってるのかわからないけど」 僕はなんとなく後者な気がするな、と思いつつ、ふと首をかしげる。 「もしさ……この子が誕生日が来て16歳になったら、その瞬間からもうこの相手は捕まえられなくなるのかな」 太良は「いや」と言って、一瞬ノートに目を落とした。 「……元々ほとんどの自治体には青少年保護育成条例があって、18歳未満へのわいせつ行為は禁止されてる。不同意性交罪よりは取り締まりも罰則もゆるくなるとは思うけど」 「やっぱり、そうだよね? 未成年に手出して捕まるって、よく聞くのにって思った」 太良は頷いて続ける。 「一応、真剣な交際なら淫行に当たらない場合もあるけど、両親ともに性関係も含めてOKしてるとかじゃない限り、子ども側の同意があってもほぼ全部アウトだよ。ただ……」 太良がそこで少し表情を曇らせる。 「警察も児童相談所も、基本地域で管轄が区切られてるから、この子がどこにいるか全然わからないのはちょっと痛い。今のところ通報できるとしたら警視庁サイバー課ってところしかないんだけど、これだけの情報で動いてくれるかどうか……」 「うーん……」 僕は自分のほっぺたにこぶしを当てて煩悶する。 「そりゃ相手の男は捕まればいいって思うけど、この子が被害に遭ってるのを止められることが一番なんだよね。でも保護するにも、どこの誰だかわからないし……」 そこで太良は、何やら慎重な眼差しでこちらをじっと見た。僕は首をかしげて視線を返す。 「……いろいろ教えてくれた院の先輩が言ってたけど、愛のえらいところは、すぐにこの子とやりとりしなかったところだって」 「そうなの?」 「助けが必要な相手とのメッセージのやりとりは、共依存になりやすいし、法的手段が必要な事態だとすぐに判断できたのもえらいってさ」 しかし……そう言われて考えてみると、こういう判断をどこで身に着けたのかといえば、子ども時代の太良に、ママと一緒に関わってきた経験からではないかと思えた。 太良は単に助けが必要な子ってだけじゃなくて、僕たちの大切な小さな友人だったから、ちょっとおせっかいなくらい関わりすぎた面もあったと思うけど、無責任な関わり方をしてしまったんじゃないかと自省することは幾度もあった。 その太良が今、こうして僕を助けてくれるのだから、不思議な感じだ。 「……って、言ったことと矛盾するようなんだけど」 続ける太良に、僕は目を上げた。 「本人の居場所を特定するためには、愛がその子としばらくメッセージのやりとりをするしかないかもしれない。ただ、危険は伴う。警戒されて連絡絶たれるかもしれないし、相手に感情移入して、愛自身も振り回される可能性もある」 そこで太良は、ノートの間から一枚の名刺を取り出して、僕の前に置いた。大学名と、「安住叶恵(あずみかなえ)」という名前が書いてある。 「この人がその、相談に乗ってくれた先輩なんだけど、もし愛がその子とメッセージのやりとりするつもりなら、その内容を全部転送してくれないかって言ってる。もちろん俺も転送してほしい」 それは、メッセージ内容から法的なアドバイスができるという意味もあるけれど、何より僕と相手の子が一対一にならないための対策だった。 「太良の信頼してる人なんだよね」 僕の問いに、太良は静かに頷く。 「……なら僕も、その人を信じてやってみる」 そう言いながら僕は、もう太良は、僕とママ以外に頼れる人やコミュニティを見つけてるんだなあ、なんて思った。 〈サチさん、メッセージありがとう。動画で答えるにはちょっとデリケートな内容だったので、ここで返信します。 お便りを最初に読んだ時、ちょっと不思議な感じがしました。サチさんは僕に、大人の男の人との交際を、ダメと言ってほしいのか、いいよと言ってほしいのか、わからなかったからです。 それはもしかしたら、サチさん自身もわからないことなのかもな、と思います。自分で自分の気持ちがわからないことは、大人でもよくあることです。恥ずかしいことじゃありません。だけど同時に、自分の気持ちを知ろうとすることは、大事なことです。 僕は、いいかダメかを僕が決めてしまうんじゃなく、サチさん自身に、自分がこれからどうしたいのか答えを出してほしいなと思います。もしよければ、その答えを見つけるためのお手伝いを、僕にさせてくれませんか? 気が向いたら、またぜひメッセージ送ってください。思いつくこと、何でも書いてくれていいです。〉 「別れよ」 テーブルの向こうの彼に、僕はそう伝えた。彼は反射のように「待ってよ」と返す。 「この間のことでしょ? あれは俺が悪かったって認める。でもあれだけで、全部終わらせることないじゃないか」 会って話したいと連絡しても、彼は悪い予感を察したのか、忙しいと言ってなかなか会ってくれなかった。もはや強硬手段と、会社へ行って「田所さんとランチミーティングの約束してるんですけど」と受付に伝えて、無理やり近くのファミレスに連れ出した。 「……今までもずっと、僕がやめてって言うこと、言ってもやめてくれなかったじゃん。今回は、もうさすがに、無理だった」 彼は「はあ?」と理解できない表情で僕を見る。 「そんなに嫌ならもっとはっきり言ってくれればいいのに。ちょっと拗ねてるだけかと思うでしょ」 僕は彼の顔をじっと見つめ返した。 「……〝すごく嫌〟じゃなくて、〝ちょっと嫌〟くらいのことなら、相手が嫌がってても、やっていいと思うの?」 彼は困ったような顔をして、「そんなこと言ってないじゃん……」とぼやく。僕は、深く息を吸い込んだ。 「ごめん、もう、本当にあなたを好きでいられなくなっちゃった」 彼が一人ファミレスを去った後も、僕はドリンクバーの薄いコーヒーを飲んでた。涙は出なかった。ただ頭がぼんやりした。 手遊びみたいにスマホのいろんなアプリを開いて通知をチェックしてたら、メッセージボックスに、新着が一通来ていた。 〈サチです。愛ちゃん、今、出版社の近くのファミレスにいますか?〉 慌てて周りを見回す。僕が座る席の、すぐそばの窓の向こうに、その子はいた。ざっくり切ったショートボブくらいの黒い髪に、ブレザーの制服。普通の子どもだ、と思った。 店に入ってきた彼女に、「もしかして、僕に会えるかと思ってこの辺うろうろしてた?」と聞いたら、黙って頷いた。向かいの席に促して、とりあえずドリンクバーをもう一人分注文する。 学校のこととか、部活のこととか、親のこととか、悩み、愚痴、好きな音楽。そんなたわいもない話をした後に、彼女は自分から、「彼氏」の話をし始めた。どこで出会ったのか、どんな人なのか、ホテルに行ってるとかいうことまで。 ひと通り話し終わって、彼女は下を向く。僕は、その様子を窺いながら、ゆっくりと話し出す。 交際相手を、僕は、通報しなければならない、と。怒り出すかと思ったけれど、彼女は小さく「あっそ」と言って、少しの沈黙の後、立ち去った。 「タロちゃんちょっと! スピード速くない?」 「愛なんか軽くなった?」 「タロちゃんがデカくなったんだってば!」 叫び合いながら、いつかも来たあの土手に到着した。太良が「自転車ドライブするから家まで来て」と言ってきたのは驚いたけど、うれしかった。こういうさりげない言葉や行動が、いつも僕のためなんだって知ってる。 「……あれで良かったのかなって、今でもよくわからない」 警察署には、太良も一緒に来てくれた。メールで連絡し合っていた安住さんに、とにかく記録だけはしっかり取っておくようにと言われていたので、ファミレスでの会話もスマホで録音していて、証拠として提出できた。 「個人的に関わりすぎたんじゃないかって思う時もあるし、通報なんてしないで僕個人が説得すれば、事情聴取されたりとか、あの子が傷つくこと減らせたんじゃないかって思う時もある。何回も思い出して、あーでもないこーでもないって考えてる……」 隣に座る太良は、僕の背中をぽんと叩いてから言った。 「……俺はさ、あの子やっぱり、心のどこかで、誰かに止めてほしかったんじゃないかと思う」 秋の夜風に晒された太良の横顔は、もう精悍な大人の顔といえるけれど、今は子ども時代の面影が重なる気がした。 「〝誰か〟って思った時に、誰もいないって子もたくさんいる中で、あの子には愛がいたんだ。……俺はあの子に、愛がいてくれてよかったって思ってるよ」 〝誰か〟に助けを求めていた子どもは、きっと太良自身でもある。僕とママは、時々はその〝誰か〟になり得ていたとは思う。だけど、常にそばにいられたわけじゃない。家庭で、学校で、太良の心が叫んでいる時、そばにいてあげられなかった無数の瞬間が、今になってしきりに切なかった。 「あのさー……愛に、言っておきたいことがあるんだ」 向こう岸の街灯を映す川面を見つめながら、太良が言った。 「俺は愛のこと、すごく愛してるよ」 僕はぽかんと、こちらを向かない太良の横顔を眺める。 「……えーなに急に改まって! 僕だってタロちゃんのことめちゃくちゃ愛してるよ。当たり前じゃん!」 「だからさ、愛の恋人が俺でもいいんじゃないか」 「は……」 頭の中が、宇宙になる。待ってよだって、僕がタロちゃんを愛してるのは、太良が太良だからで、当たり前で…… 「いいよ、今答えなくても。考えといて」 やっとこちらを向いた太良は、ちょっと照れ隠しのように顔をしかめた。
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