最終章 愛のコミュニティ

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最終章 愛のコミュニティ

「え、まだ返事してないの? もう半年くらい経ったんじゃない!?」 「うん、半年すぎ……」 画面の向こうでふみが、「何やってんの!?」とひっくり返った。 「……だってさー、あのタロちゃんだよ! 僕の中ではずっと子どもだったのに」 「もうハタチになったんでしょ? 20歳と25歳、なんも問題ないじゃん」 「僕、誕生日来たら26だし」 「愛、誕生日12月じゃん!」 ふみが首をかしげて、「いや、26と20でも問題ない」と呟く。 「だって、好きなんでしょ? 昔からいっつもタロちゃんタロちゃんって言ってたじゃない。もうタロちゃんと付き合えばいいのにってずっと思ってたよ」 ふみに言われて、僕は「うー」と唸る。 「……当たり前すぎるんだよ……」 ふみが「ん?」と問い返す。 「僕がタロちゃんを愛してるのなんて、当たり前で、ずっと昔からだしこれからもずっとそうで、それが恋人とか恋愛とかいわれたら、ちょっと自分の中でびっくりしすぎて……」 ふみが人差し指をあごに当てて、「んー」と考える顔をする。こっちは夜だけど、向こうは昼過ぎで、明るい日差しが部屋に差し込んでいるのが見える。今日は久々に丸一日休みが取れたらしい。 「……恋愛と、それ以外の友情とか大切な人への感情って、そんなにきっぱり分かれてるものでもないでしょ。要はタイミングとか立場とかセクシュアリティで、その時々どこの枠に入るか決まるんじゃない」 それは、たしかにわからなくもないと、僕も思う。大切な友達や家族を愛する気持ちは、恋愛より劣ってるわけでも、優れてるわけでもない。 「タロちゃんと愛は、今やっとタイミングが合ったってことでしょ」 それでも僕は、「うーん……」と腕を抱え込んでしまう。 「僕だって愛のこと、テツさんよりずっとラブだし~」 「ちょっと、また喧嘩したの?」 笑って聞き返す僕に、ふみも笑う。 「まあちょっと、帰る時期のことで揉めててね」 ふみの言葉に僕は目を見開いた。 「帰ってくるの!?」 ふみはにやりと笑って「ん」と返す。 「僕は、もうちょっとお母さんたち手伝った方がいいんじゃないって言ってるんだけど、テツさんは僕のために早く帰ろうって言ってて。でも、一年以内には帰ることになると思う」 「そっか~」 思わぬ朗報に喜ぶ僕に、ふみは、 「帰るまでにタロちゃんとくっついてなかったら、けちょんけちょんにけなしてやるから」 と宣言した。 「〝子どもの人権研究会〟?」 「そう、安住さんがゼミ外の有志の研究会として立ち上げて。卒業しても弁護士仲間で続けられる会にするつもりだってさ」 太良が毎週末うちに来て、一緒にご飯を作って食べるのが、すっかり習慣化している。今日も太良が「半熟オムライス覚えたから作る」と言って、僕はサラダを盛り付けた。僕の料理は最低限の家事って感じだけど、器用な太良は結構料理好きみたいで、いろんなレシピを覚えて作ってくれる。 「興味はあるんだけど、俺まだ2年だし、ほかの人たちは院生とか現職の弁護士もいるみたいだし。ついていけんのかなって」 「安住さんは何て?」 「たまに見学に来る感じでもいいって。迷惑じゃないですかって聞いたら、俺の勉強の妨げにならないなら問題ないって言ってたけど」 話しつつ太良は、できあがったオムライスの皿を座卓に「ほい」とか言いながら置く。最近さらに背が伸びたようで、Tシャツの背中が広くて、何度見てもちょっと驚いてしまう。 「安住さんがそう言うなら大丈夫じゃない?」 直接会ったことはないけれど、ロースクールの先輩だという安住叶恵さんは、僕にとってもすっかり信頼の対象となっている。 「タロちゃんはやっぱり、子どものことに関心があるんだ?」 2人座ったところで、僕が訊くと、太良はちょっと考える顔で頷いた。 「1年の時、愛があのメッセージ送ってきた子を助けるのを手伝わせてくれたのも、考えるきっかけになったけど……やっぱり、俺自身のこともある」 自分と関わろうとしない親や、学校の激しい成績競争に傷つき続けていた子ども時代の太良を思うと、今大学で、信頼できる人たちと興味のある勉強に取り組んでいる姿が、なんだかとても眩しく思える。 「あー、僕はタロちゃんが誇らしいよ。さすが僕の推し……」 目を細める僕に、太良が吹き出す。 「それ最近よく言ってるけど、何なんだよ? 推しって」 「そう? 前から僕とママの推しだよ、タロちゃんは」 でもたしかに、さすがに太良が子どもの頃は、本人の前では言わなかったか。気持ち悪いもんな。今もわからないけど。 「推しより別のもんになりたいんだけどな、俺は……」 ぼやくように言う太良に、僕は「うっ」と言葉を詰まらせる。 「そのことなんだけど……食べ終わってから、ちょっと話しましょうか……」 僕が言うと、太良は「ふうん」なんて言って眉を上げてみせた。   「聞いておきたいことがあります……」 食器をとりあえず流しに片づけて、改めて座卓を挟んで向き合うと、僕は切り出した。 「タロちゃんのセクシュアリティって、自分でどう思ってる? もし付き合うとしたら、正直そこ確認しておくの大事じゃない?」 太良は「ああ」と呟いてから、うんうん……と、何度か頷いた。 「それに関しては、俺自身、いろいろ調べてみた」 「調べてみた」のか……と僕は心の中で呟く。太良はスマホで何かを表示して、僕に差し出した。 「たぶんこれ。デミセクシュアル・デミロマンティックっていうのが一番合ってると思う」 「……えーっと、ちょっと待って、どういうんだっけそれ……」 「精神的なつながりがある相手にだけ……っていうやつ」 差し出されたサイトをスクロールして、説明書きを読む。強い絆や信頼関係のある相手にだけ、まれに性的欲求を抱くのがデミセクシュアル。同じ条件でまれに恋愛感情を抱くのがデミロマンティック。太良はその両方だと言う。 ……知らなかった。こんなに近くにいて、ましてや僕はジェンダー分野の学科にいたのに、今までこういう相談を聞いてこなかったのはなんだか情けない。 「俺、ずっと恋愛とかわかんなくて。クラスの奴らが見せてくる雑誌のグラビアも何がエロいのかわかんないし、だからって男の体見ても何も思わないし……」 太良は顔をしかめて言うけれど、悩んでいるというより、いぶかしげな表情という感じだった。 「でも、正直そんな気にしてなかったんだよな。家庭環境があんなだから結婚したいとも思ってなかったし、俺には愛と麻紀さんがいれば十分だと思ってた」 思春期の太良の世界に最初に浮かぶのが僕とママであったことは、やっぱりくすぐったく、うれしい気持ちになる。 「でもさー……愛の前の男、いただろ。この部屋に住んでから付き合ってた人」 う、と僕は顔をひくつかせる。やっぱり気付かれてたか。タロちゃんが来るときには、痕跡を消すようにしてたつもりだったんだけど。 「あの時、初めて嫉妬した。それまでは、愛が誰かと付き合ってるっぽくても、心配はしても、妬くことはなかったのに」 ──実は、僕も思い浮かぶことがある。 太良から初めて安住さんの名前を聞いた時。安住さんとそういう感じじゃないのは何となく話を聞いててわかったけど、太良にはもう僕とママ以外の世界があるんだと、その時急に実感した。いつか恋人を紹介される日が来るのかも、なんて想像してしまって、ちょっと胸がチクチクした。 「タイミング」と、ふみが言っていたのを思い出す。僕と太良のタイミングは、たしかにちょうど、重なったのかもしれない。 「自分が嫉妬してるって気付いたら、一気にいろいろわかり始めて……恋愛の好きってこれか、とか、触れたいってこういうことかって……」 僕はごくりと唾を呑む。 「タロちゃん……僕に触れたいとか思うの?」 太良は真顔で答える。 「思う。この部屋でもいつも、鉄の意志で我慢してる」 「推せる~!」 思わず太良の腕をぎゅっと掴むと、「なんで俺が我慢してるのにそっちから触ってくんの」と太良が笑う。 「じゃあ……僕から触っていいですか太良さん?」 いいよと許可がもらえたので、「タロちゃん~」と首に抱きついたら、太良も安心したように僕の髪を撫でた。首筋に埋めた顔を上げれば、すぐそばに太良の顔。 「キスしていい?」 そう聞いたのは太良で、僕はただ頷く。めちゃくちゃ心臓がばくばくいってる。唇を啄み合うたびに、心の中で「ぎゃーかわいいー!」と叫んでしまう。だって、かわいすぎる、太良のことが。 「やばい、超かわいい太良」 「かわいいって言うなよ」 口をふさぐようにまたキスされて、そのまま床に倒されてしまう。 ──そう、僕たちはちょっと、浮かれすぎてしまって、テンション上がりすぎてしまって。そのままその日のうちに、しちゃうなんて。結局全部終わったベッドの上で、僕らはやっと、「お付き合いしましょう」と約束したのだった。 それから、ちょっとした問題が起こって……というのも、僕ら、ハマりすぎてしまって…… 翌日は月曜日だったので、太良は大学に行って、僕は動画の編集作業があったけど、いまいち集中できずに一日過ごして。太良からは「やっぱ今日も家行く」ってラインが入って、夕方帰ってきた太良を玄関先で出迎えたら、海外ドラマで見るみたいに壁に押し付けてキスされて。 「今日一日、ずっとこうしたかった」と言う太良に、僕も興奮して飛ぶように抱きつくと、そのまま太良が僕を抱き上げて、太良の腰に足を絡めたままベッドへ運ばれて。 僕も太良も、積み重ねた互いへの愛情があまりにも巨大で、それは今までただ胸の奥にあるだけのものだったのに、セックスという形で具体的に示せることを経験してしまったら、その熱量が暴風雨のように吹き荒れるのを止められなかった。 その日は夕飯も食べずにずっとして、そのまま絡まるように眠って、目が覚めた早朝に、またして。時間ギリギリでシャワーを浴びて出て行く太良を見送って、夕方にはまた太良を出迎えて。疲れてお腹がすいてきた頃に、パンツだけ穿いて二人でカップラーメン食べて、また再開して、ちょっと寝て、またして。 次の日も同じ感じで、また夕方から夜まで夢中で抱き合っていたんだけど。太良の胸に頭を預けてうっとりしていた時に、はっと急に我に返った。 「タロちゃん……大学の課題とか大丈夫なの……!?」 太良はゆっくりと目を見開いた。 「……金曜日までのレポート……!」 それから太良は、二日ほど徹夜してレポートを仕上げたそうだ。 ……正直いまだに、ちょっとスイッチ入るとすぐやりたくなっちゃうくらいのテンションではあるんだけど、さすがに僕らもこの調子じゃまずいと気付いて、自制することを覚えた。 ──はろー、愛ちゃんだよ。 今日はこちらのメッセージから。匿名希望さん。 「愛ちゃん、こんにちは。別れた人が忘れられない時って、どうしたらいいんでしょう。別れてからもう一年以上経つのに、ずっと立ち直れません。あの人のことばかり考えて、すぐ涙が出てきてしまいます。友達は新しい恋をした方がいいと言うけれど、そんな気持ちにもなれません。愛ちゃんは、こんな経験ありますか? どうしたら乗り越えられますか?」 ということなんですけど……えっと、まず最初に言わなきゃいけないのは、もしかしてね、病院が必要なパターンかも。原因が何にせよ、すぐ涙が出てきちゃうっていうのは、脳がSOS出してる可能性あるよ。メンタルクリニックは、どんな人の人生にも必要になることはあると思うし、気軽に行ってみたらいいと思うよ。 それで、僕の場合なんだけど……失恋でずっと忘れられないっていうのは今までそんなにないけど、パパがいなくなった時は、けっこう怒りとか、悲しい気持ちを引きずったな。 僕、小学2年生の時、初めてクラスの男子を好きになったのね。その時僕、なぜか家でそれを普通に話しちゃったんだよね。そしたらパパはすごく動揺して「男の子は男の子を好きにならないんだよ」って言ったんだ。それで、ママがものすごく怒って。それからなのかわからないけど、パパとママが、夜僕がベッドに入ってから、言い合いしてるのがよく聞こえてくるようになった。ママは、ママの仕事のこととかで意見が対立したんだって言ってたけど、僕にとっては、パパが僕のセクシュアリティを否定したまま去ったのも、事実なんだよね。 養育費は払ってくれてたらしいから、最悪のサイテーじゃないけど、それでも僕に会おうとはしないんだなっていうのは、ちょっとこたえたな。 パパとママが離婚して、ママと二人で引っ越したのが小学5年生の時だったけど、やっぱり一年くらいは、わーって怒りが押し寄せてきたり、急に悲しくなったりした。でもね、だんだん新しく大切な人も増えてきて……それはほとんど、恋人じゃなくて、友達とか、新しいコミュニティとかなんだけど。そういう大切な人たちと、助けられたり、助けたりしてたら、なんか、忘れたんだよね。今もうあんまり思い出せないんだ、パパのこと恨んでた気持ち。 まあ、それは僕の場合で、同じように忘れられるかはわからないけど……やっぱ人間って優先順位がどうしてもできるものだからさ。過去の人はだんだん、優先順位が下になってくとは思うよ。ちょっとそれは淋しいけど、新しいつながりも、ずっとつながり続けられる人も、きっといるから── かみゆが所属するアーティスト集団の展示会場に来て、僕と鹿田は迫力に飲まれていた。かみゆが担当した箇所はすぐわかった。無数のガラス玉に細かく描かれた絵が、全体で見ると、大きな波のような、うねりのようなものになって、襲いかかかってくるようだった。 「愛ちゃん、鹿田氏」 振り向くと、普段無表情なかみゆが珍しくニコニコしている。今回は、よっぽど会心の展示となったのだろう。 「すごいね。めっちゃ感動した」 鹿田が言うと、かみゆはニコニコしたまま無言で鹿田の腕を押す。どうやら興奮でちょっとテンションがおかしくなっているようだ。 「いやほんとすごいよ。なんか伝わってくるもん、気配っていうか、生きてる人のエネルギーっていうか……」 僕の言葉に、鹿田がさらに重ねる。 「もうかみゆはすっかり、立派なアーティストになったんだねえ」 するとかみゆは、少し苦笑いになった。 「まあ……これで食っていければ最高なんですけどね」 かみゆは卒業後、アート活動のほかに、ネイルの個人依頼を受けたり、動画の収益だったりで、なんとか生計を立てていると言っていた。 「愛ちゃんはどうなの?」 帰り道、鹿田が聞いた。「やってけてんの?」と問う鹿田に、僕は「まあまあね」と返す。 「今のところは動画の収入が一番大きいんだけどさ、いつまでこれが続くかわかんないし、コラムの仕事が今後いろいろつながればいいなって思ってるけど」 「そっかー……みんないろいろ世知辛いね」 鹿田は芸人として、だいぶ良い波に乗ってきてるように見えるけど、やっぱりまだ厳しいのだろうか。 その時、僕の携帯が鳴った。太良からの通話。鹿田に「ちょっとごめん」と断ってボタンを押す。 「……すぐそっち行く」 それは、太良の父親が、倒れたという連絡だった。 病院のロビーの椅子に、太良と遥香さんが座っていた。 「タロちゃん」 声をかけると、遥香さんの方が先に口を開いた。 「いま検査中で、どのみち入院することになると思うんだけど……」 僕が来たことにはそんなに驚いてないようだけど、この非常事態で気が動転してるからかもしれない。 検査結果を伝えるために二人が呼ばれて、僕はしばらく一人、ロビーで待っていた。戻ってきた太良は一言、 「大腸がんだって」 と言った。おそらく兆候はあったはずだけれど、無視して働き続けたんじゃないかと。ステージⅣで、5年生存率は18パーセントくらいだと。 そのまま入院することになった病室を訪ねると、お父さんはベッドにいながら、シャキッと背筋を伸ばして座っていた。そして一声、 「おい、なぜ彼がいる」 ──もちろん、僕のことである。遥香さんが慌てて 「太良くんのこと心配して来てくれたんですよ」 と言うのに目もくれず、病床のその人は、太良を指差す。 「お前はまだ、隣のおかしな連中と付き合ってるのか」 すご、僕がいる目の前で……と妙に感心してしまった。だけど太良はそれ以上の怒りを抱いたようだ。眉間に深い皺が表れる。 「おかしな連中ってなんだよ……おかしいのはうちだろ」 「なんだと!?」と怒鳴る彼の隣で、遥香さんは凍りついている。この人にとってももう、夫は恐怖の対象なのかもしれない。それでも太良は続けた。 「……あんたが育児放棄して、民生委員にまで介入してもらわなきゃならなかったこと忘れたのか? 近所の人たちはみんなあんたがやばい親だって知ってる」 お父さんはまた怒鳴ろうとして、でも声を上げられずに、お腹を押さえた。太良も、戸惑いの表情になる。 「……ごめん。俺は来ない方が良かったみたいだ」 太良は僕の手を取り、病室を出た。僕は黙ってついていく。廊下を少し歩いたところで、「太良くん」と、後ろから呼び止める声に振り向くと、遥香さんだった。 「……ちょっと、話せませんか」 「あの家に来てすぐの頃に、実は麻紀さんと話したことがあるの」 病院のカフェテリアで、僕と太良の向かいに座った遥香さんが言った。 「私も太良くんの新しいお母さんにならなきゃって必死で、いろいろ知りたくて」 いつかの3人でのディズニーが叶ったのは、遥香さんを通じてだったのかもしれないな、と僕は聞きながら思う。 ママに聞いた話を、遥香さんは最初、すべては信じられなかったそうだ。だけど遥香さん自身も、いくつかおかしいと思うことはあって、確信したのは太良の弟が生まれた時だったという。 「あの人は、子どもに指一本触れないのね。下の子たちも、抱いたこともないし、手すらつながない。それで……あの家に太良くんがお父さんと二人だった時の状況がやっと想像できて、ぞっとしたのよ」 僕は太良の顔をそっと見る。太良は無表情だった。 「私、全然わかってなかったって……ずっと太良くんに申し訳ないと思ってたの。わかってたって、何ができたわけじゃないかもしれないけど……」 太良は少し下を向くと、もう一度顔を上げて、口を開いた。 「俺、今でもすごく覚えてるんだけど……遥香さんがうちに来てすぐの頃、制服のボタンが取れかけてて、〝直してあげるから貸して〟って言われて、俺びっくりして」 遥香さんは目を見開いて、思い出した風に何度か頷いた。 「麻紀さんや愛ならともかく、家の人にそんなこと言われたことなかったから」 遥香さんは、もう一度深く頷くと「覚えてる」と言った。 「あの時太良くん、〝遥香さんいい人ですね〟って言ったのよ。ボタン直しただけで、大人にそんなこと言う子いる? って、私も驚いた」 遥香さんがあの家に来てから、太良の家庭環境がちょっと良くなっているのは、なんとなく感じていた。父親との関係もあって太良は複雑な思いだっただろうけれど、遥香さんに対してはずっと悪い気持ちを抱いていなかった。 だけど、遥香さんが追いかけてきたのは、その後の言葉を太良に言うためだった。 「お父さんを許してあげてほしいの」 そう彼女は言った。 「もう長くないかもしれないから」、と。 「許すって言っても、親父自身が謝ってもいないんだから、許す隙すらないじゃんね」 ママの同居人の詩生(しお)さんは、パンチのある物言いだけど情にあつい人だ。女子校時代は別の名前で呼ばれてたって本人が言ってたけど、その頃の名前は知らない。ベリーショートの髪が若々しくて、パッと見年齢不詳な感じは、ママと共通している。 「しかし子どもと一緒に暮らしてて、指一本触れないなんてこと、できるもんなのね……」 ママは呆れてるのか感心してるのかわからないような口調だ。 僕と太良は、久々に実家の夕飯を囲んでいる。今夜は詩生さん特製のキムチチゲを作ってくれた。お父さんの目がなくなったら早速うちに来るというのもどうかと思ったけど、今の太良には必要な支えだったから、ママと詩生さんの申し出を受け入れた。 「本当はあの人、カウンセリングとか受けた方がいいんだろうなって、最近は思うようになったけど……」 太良は自分の取り皿に豆腐を掬い入れながら言った。 「でも……そういう風に突き放して見れる時と、そうじゃない時がある。たまに、異常に怒りが蘇ってくることもある」 ママと一緒の時の太良は、僕と二人の時より少し幼く見える気がする。 「こういう感情、ずっと抱えてかなきゃいけないのかな……」 「ああ、それちょっとわかる」 詩生さんが言う。 「うちの親もけっこう酷かったから。ずっと前に亡くなってるけど、今もたまに、怒りがぶり返す時はあるな」 太良は眉を寄せてため息をつく。 「やっぱり、ずっとあるもんですか」 「でも、頻度はすごく減る。月一くらいだったのが数ヶ月に一度になって、数年に一度になって、たぶんこれからの人生で、もうあと数回かなって気がする」 太良は実感わかないような、でも少し安心したような顔で、ゆっくり何度か頷いていた。 「ところで、今日妙に二人、間空いてない? いつもべったりなくせに」 ママに指摘されて、僕と太良はギクっと顔を見合わせた。そうなのだ。僕らはまだママに、言っていないのだ。 「麻紀さん」 太良が唐突に、テーブルに両手をつく。 「……愛さんとお付き合いさせてもらってます」 仰々しく頭を下げる太良に、詩生さんは吹き出し、ママは「あらなんだか見覚えがある光景」とか言っている。顔を上げた太良まで、「セルフパロディ」なんてのたまう。 「待ってママ、驚かないの?」 戸惑う僕に、ママは 「だってずっと仲良しじゃない。別に不思議じゃないわよ」 と返す。太良も、 「俺も麻紀さんは驚かないだろうなと思った」 なんて余裕そうに笑っている。 「ちょっとー! 僕は自分でめちゃめちゃ驚いたのに! ずっとタロちゃんは子どもだったから……」 「やだ」 とママが笑う。 「私からしたら、二人ともずっと子どもよ!」 ──それから一年半、太良はよく父親の病室に通った。 勉強も忙しい中で、週に一度は顔を出していたと思う。遥香さんは、自分の頼みを聞いてくれたと思っていたようだけれど、太良が言うには、「こうした方が〝ぶり返し〟が少なくなる気がしたから」だそうだ。 お父さんが亡くなったのは、太良が大学4年生になった春。意外なことに、自分の死期が近いことを悟った時、お父さんはしきりに「太良の卒業式が見たかった」と言っていたそうだ。 お葬式の手伝いをさせてほしいと申し出たのは、太良のそばにいてあげたかったからだ。喪主の遥香さんは、快諾してくれた。 お父さんの仕事柄、告別式にはかなり多くの人が参列した。弔辞を読んだ同僚は、彼がとても優秀な官僚で、ハンサムで、皆の憧れだったと語っていた。太良はずっと、心ここにあらずというような、遠くを見るような目をしていた。 出棺を見送った後、ロビーで 「飛鳥井くん」 と声をかけてきた人がいた。丸顔に眼鏡をかけた優しそうな女性だけれど、一目見て切れ者だとわかる雰囲気も携えている。もしかして、と僕は思う。 「今は気持ちの整理がつかないと思うけど、何を感じたとしても間違いじゃないからね。悲しくても、悲しくなくても、あなたの気持ちは間違いじゃない」 太良は少し戸惑いの表情を浮かべてから、深く頷いた。彼女が僕の方へ顔を向ける。 「……愛さんですね」 「安住さん、ですよね」 人と挨拶する時に握手なんて、今まであまりしたことがないのに、なぜかその時は自然と互いに手を取り合って、握手を交わしていた。 火葬にも立ち会う人数がけっこう多くて、霊柩車に乗る遥香さん以外は、マイクロバスで移動する。太良とバスに乗り込もうとする直前、もう一人声をかけてきた人がいた。 「飛鳥井」 太良と同年代くらいのその男子に、太良は「本田」と返した。 「大丈夫か。また、改めて会おうな」 後から聞いたら、本田くんは、あの実家の窓から飛び降りた同級生だった。僕がかつて「会ってみたい」と言った子。地元の県立高校に編入し、大学も群馬に通っているので直接会える機会は少ないけれど、その後もずっと連絡を取り合い続けて、太良を「大親友」と呼んでいるそうだ。 しばらくは、いろんな手続きや遺品整理で太良は大変そうだった。僕やママも、ちょくちょく手伝いに行って、お父さんの生前は上がることのなかった太良の家で、遥香さんや下の子たちと会う機会も増えた。 だいぶ落ち着いた頃に、太良の22歳の誕生日が来て、久しぶりに僕の部屋で二人で過ごした。お祝いのディナーとケーキを食べて、エッチをたくさんした。 「遥香さんが財産分与のこともきっちり明確にしてくれて、下の二人の分はそれぞれの名義の口座にとってあるけど、俺の分はもう成人してるし、自分で管理したらいいって」 ベッドでくっつき合って寝そべりながら、いろいろ話す。元々太良のお父さんと職場で出会ったという遥香さんは、かなり実務のできる人で、手続き関係は彼女の働きがとても大きかったという。 「まだ学費が必要かもしれないし、なんて言われたよ。俺がロースクール行こうかと考えてるのも、わかってたみたいだ」 「やっぱり、弁護士目指すんだね?」 僕が聞くと、太良は目で頷く。 「助けが必要な子どもに関わるのにも、法律の道でやるなら、とりあえず弁護士資格はあった方がいいみたいだ」 その辺のことは、「子どもの人権研究会」で出会った先輩たちがアドバイスをくれたそうだ。広がっていく太良の世界。僕は告別式で会った安住さんや本田くんのことも思い出す。 「ねえ、なんか不思議だね。最初は僕とママと太良の3人のコミュニティだけだったけど、いろんなことが変わって、新しい人とも出会って……一度は、3人のコミュニティがなくなっちゃったように思えたけど、またつながって、今は詩生さんや遥香さんもそばにいて……」 天井に手のひらを向けて、自分の指を数えながら話す。太良がその手に、自分の手を重ねてきて、微笑み合う。 「いつかさ、みーんなで会いたいよね。安住さんも、本田くんも、ママも詩生さんも、遥香さんと子どもたちも、ふみとテツさんも、鹿田も、かみゆも……」 そしたら太良が、吹き出すように言う。 「それって……なんか俺たちの結婚式みたいじゃん」 「え、結婚式!?」 赤くなる僕に、「なんで今さらそこで照れるんだよ」と笑いながら、太良は僕のおでこに押し付けるようにキスをくれた。 了
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