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「……いちばん下ね?」
クロスでグラスを磨きながら、視線を合わせずマスターが呟いた。
「まじ?ラッキー」
役得だ。作戦変更。どうせやるなら楽しまないと。
「今夜開始?」
今日のマスターは口数が少ない。相変わらず手を動かしながら、一言だけを発した。
「俺も仕事は早い方だから」
「そう」
マスターのことは、よく分からない。ユキも知らないと言っていた。ただ、ここは上司に指定された店なので、関係者ではあるのだろう。詳しく訊かない方が良いかな。そもそも安曇は、仕事を振ってくる上司の顔すら知らないのだ。
「じゃ、また来ます」
「ありがとうございまーす」
会計を済ませ、ドアに手をかける。今夜は他の客が居ない。
「マスターって、何者?」
答えを期待せず、口にした。
「……君たちの味方?」
やっぱりな。その程度のことしか分からない。
後ろ手に閉めたドアの金属製のプレートには、『invisible』と店名が刻んである。営業日は木金の週2日だ。マスター1人でやっている小さな店で、カウンターで長居をする常連のような客も居ない。普通に考えて、こんな地価の高そうな場所で成り立つ商売じゃない。
安曇はユキと仕事の話をする日以外にも『invisible』を訪れる。1対1の場合、マスターは朗らかでよくしゃべる。話題の幅が広く、人を笑わせることも上手いので、他人とのコミュニケーションに飢えたら、ここのカウンターが浮かぶのだった。
素性を明かさず深いコミュニケーションを取れるなんてすごい才能だ。本能的に安曇は、このマスターには何をやっても勝てないだろうと理解していた。
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