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砂漠の舞姫
8
「ファジュル……」
シャーディヤの声がわずかに震えた。
花びらを握りしめる、か細い指先が凍えるほど冷たくなっていく。
苦々しげな盟主の視線が、刹那シャーディヤを射る。彼女の心中を知る由もなく、盟主は懸命にファジュルに語りかけた。
「我が息子。穢れた魔女の誘惑も、いまやほどけたろう。すべてはこの父の愛だ。よくぞ戻った。さあ、これなる魔女を討て」
シャーディヤはかすかに後ずさる。
ファジュルの歩みは確かだった。動けないシャーディヤのかたわらに立つ。
長身の男が膝をつき、動けない老人の首元に剣を当てる。
「ぐう、いまも魔女の縛の中にいるのか、ファジュル。息子よ」
「シャリーファを殺めたのは、父だ。シャーディヤ」
「ファジュルっ! お前は、騙されたのだ!」
ファジュルは父親には言葉をかけなかった。
だが、このひとときがシャーディヤには恐ろしいものに思えてならなかった。
少女の胸を刺す痛みは「疑い」だった。
色をなくしたファジュルの横顔からは、瞳の熱も測れない。
「私は正気だ。父とは呼ばぬ。あなたはけっして変わらない。シャリーファの悲しみも、シャーディヤの痛みも、私のうちにあった望みも! 決して、理解することはない! ならば、彼女の……シャリーファの死、同じ死をもってつぐなえっ」
盟主の喉元に突きつけたシャムシールの刃先が食い込む。
薄く裂けた肌から、老人の胸元に血が伝い落ちていく。刃がとどまる。
死を喉元に感じながら目を閉じぬ父親を前に、ファジュルの剣は、震えていた。
シャーディヤは、強く奥歯を噛んだ。
「まだ私を憎むのか、ファジュル。だが、お前に父は殺せまい! 刃先がおびえている。父を殺すことが恐ろしいのだろう。そのやさしさゆえに人の心なき魔女に魅入られたのだ。父の目を見続けられるか! ああ、哀しい目をしている。お前はやさしい息子だ。父の声を聞け! 帰ってこい、ファジュル。魔女を討てぇッ!」
「黙れえっ!」
一喝して歯を食いしばる横顔を、それ以上を、シャーディヤは待たなかった。
一歩。シャン、と涼やかな音が鳴った。
ファジュルが盟主に突きつける三日月刀の刃にシャーディヤの指先がふれる。
ファジュルが剣に込めていた力は、途端、するりと抜け落ちた。
シャーディヤに残る力はあとひとしずくだ。
「ファジュル、ここでこの刃をふるったら、もう二度と、あなたの瞳の哀しみが、薄れる日はこないのね」
シャーディヤはファジュルの困惑の声を、聞かなかった。
彼の顔も、見なかった。
「ファジュル。わたしね、あなたの手、人殺しに向かないと思っていたの。こんなことをするためじゃないやさしい手よ。きっと姉さんは、あなたのそんなところも好きだった。わたしも、そうよ。……だから、わたしを、恨んでいいわ」
少女は苦しげに目を細め、手の中に包んでいたジャスミンの花弁に、ふうっと息を吹き込め、口づける。
最後の、力を込めて。
「贈り物は、わたしがあげる」
シャーディヤは、口角に泡をつけたまま言葉を失っている盟主の前に、立ちふさがった。
「お前にルシュディーを。神なんかがいるのなら」
純白の花びらを、シャーディヤは、華奢な指先で盟主の唇に押し当てた。
砂漠の魔女が、ほほえむ。
盛りの花を思わせる、かぐわしい香りがたった。
「ぅぐ、あ、ぐあああああっ!」
途端、盟主は苦悶の叫びをあげた。
男の目が、恐怖に血走る。目玉がぎょろりとシャーディヤを捉える。
「ぐ、ううう、魔女、お前っ、なにをっ」
「わたしの最後のまじないよ。さよなら、シャリーファを殺したひと」
シャーディヤが与えた見えない縛りさえ引きちぎり、盟主のふるえる手が空を掻く。
緩慢な毒に侵されたように、男はすぐには絶命しなかった。
男はうめき、頭をかきむしってもがいた。ガクガクと震える首が息をさまたげる。老人の枯れた細い脚がバタバタ醜く動き回る。いつ終わるとも知れぬ死の舞だった。
のたうち目を剥き出して苦悶する男を前に、ほほえみの中にいたシャーディヤの瞳が、ゆらいだ。
「魔女、魔女っ!! ああ、ファジュルよ!」
盟主が呪いを叫ぶ。転げまわり、のどを両手で覆う男が、カッと血を吐いた。
死にゆく体に苦しみをほどこされながら、睨みつけるふたつの目玉だけが生きていた。
苦鳴をあげる老人の視線が、シャーディヤの中にぬるりと入り込む。
盟主は獣のように這い、震える手をシャーディヤに伸ばそうとした。
言葉を失ってなお、それは内側をかき乱す憎悪に満ちていた。死の間際の、恨み怒り苦しみ、全てを束ねた怨嗟が、剣となって少女の胸になまなましく突き刺さった。
少女の喉に「ヒッ」っと息が張り付く。
ひとときも揺らぐことのなかったシャーディヤのかたい覚悟さえも突き破り、血が噴き出すように胸に沸いたのは――。
その瞬間、恐怖だった。
背筋がそそけだった。逃げ出したい。なのに、足も視線も、その場に縫い止められて動かすこともできない。
目の前の死にゆく老人から、何千本もの黒い手が、もがきながらシャーディヤに襲いかかろうとしていた。幻覚だ。言い聞かせる声も心のうちには届かない。
あとずさることもできぬまま、少女が悲鳴をあげかけたときだった。
「すまない、シャーディヤ」
すくみあがるシャーディヤの目を、あたたかなものが覆った。
力を取り戻したファジュルの手のひらが、少女の目をふさいでいた。
暗闇の向こうで、三日月刀が一閃する。
ファジュルが掻き切った父親の首から、血飛沫がシャーディヤの黒衣にそそいだ。
小さな悲鳴のあと、どさりと重たいものが倒れ伏す音がした。
明るく戻ったシャーディヤの世界には、老人が一人静かに事切れていた。
血染めのシャムシールをふるったファジュルの横顔を、シャーディヤは色をなくした瞳で見上げた。
「シャーディヤ、長居できない」
迷いのない目は、シャーディヤの知るファジュルだった。
ガタガタとふるえ、白磁の肌を月の光のように青白くした少女をファジュルは軽々とだきあげた。
「行こう。もうこの町へは、もどらない」
振り返ることは、しなかった。
◇◇◇
屋敷の中庭の角の古井戸が、泊まっていた安宿の裏庭に通じていると教えたのはファジュルだった。
すでに荷物をつけ準備していた丈夫なラクダに乗り、二人は水の町を逃げだした。
全ては計画通りだ。
シャーディヤがほどこしたまじないがほどけてしまえば、時をおかずして、街の中は騒ぎになるだろう。
「本当はあの井戸を使って侵入を考えていた。あの家の者しか知らない隠し通路なんだ。それだけで、簡単な出入りになるわけではないが、経路としては上等だと考えていた。だが、向こうからの招待を取り付けるのだから、本当にシャーディヤには驚かされたよ」
「…………」
「……情けないところを見せたな。すまなかった。私はああいう人間だ。甘さをシャリーファに咎められたこともあったよ」
らしくないファジュルの饒舌さにシャーディヤが言葉を返せたのは、砂漠を駆け続け、しばらくたってからのことだった。
「ファジュル、無理してしゃべらなくていいわ」
「シャーディヤ」
「……仇を、討ったのね。私たち」
「ああ」
答える声は、凪いだ海のように静かだった。
町を南に遠く離れ、疲れきったラクダを降り、砂の斜面にずるずるとシャーディヤは座り込んだ。
乾きかけた返り血をぬぐい、シャーディヤはうつむく。
そばに座り込んだ男は、少女が唇を次にほどくまで沈黙の中にいることを選んだ。
砂の上を、朝を呼ぶ風がゆるりと走り始める。
月が傾き、白み始めた空の下。
かたわらのファジュルを見上げ、シャーディヤは顔をくしゃくしゃにした。
彼は、ずっと、シャーディヤを見ていた。
ファジュルのひとしずく哀しみを宿す青い瞳は、なにも変わらなかった。
「あなたの、お父さま、だったのね」
「ああ」
「首謀者は<水の町の盟主>とだけ聞いていた」
「そうだ。それで十分だ」
「あの男が姉さんを殺したように、今度はわたしがあなたのお父さんを殺してしまった」
「シャーディヤ」
「やさしいファジュルの前で、そうした」
「私がとどめを刺した。私の意思だ」
シャーディヤは首を振った。
「力が足りずに、無用な苦しみを与えたわ。でも、わたしは苦痛にのたうつあの男が、もっと苦しめばいいと思った! この世のすべての痛みを一身に受けて死ねばいいと。あなたのお父さんなのに。ファジュルみたいに、殺してあげるやさしさも持っていなかった。わたしはきっと、昔話みたいに血も涙もない魔女なのよ……」
「シャーディヤ、そうじゃない。君は――」
「それなのにっ、わたしが選んだことなのにっ、あのとき、怖くて、恐ろしくて、苦しかった。私は、弱かった」
「…………」
「無様よね。ファジュルが目を覆ってくれなかったなら、ふるえてあの男に泣き顔をさらしたでしょう。それに、ファジュルはきっと……」
シャーディヤは言葉を切り、息を呑み、かぼそく言葉を絞り出した。
「わたしを、恨むわ」
「いいや、恨むはずがない。私は、あの場所を、シャーディヤと目指した。答えは、それだけしかない。だから、戸惑わずに、剣をふるえなかった私の弱さを責めてくれていい。君を苦しめた、情けない相棒だ。詫びる言葉もない」
「なにも詫びる必要なんてない。わたしは、なにがあったって、姉さんの首を切ることはできない。……私があの場で、見たものが、いま得たものが、あなたの真心よ」
シャーディヤは静かに保護者を見つめかえした。
ふたたび沈黙が降りる。砂漠の向こうに残る夜の青が淡くなってゆく。
シャーディヤが立ち上がると、それに倣ってファジュルも腰をあげた。向かい合う。
少女の背丈は、血を浴びた夜を越え少し高くなったようだった。
「シャーディヤ、私が彼女を――」
愛さなかったなら。
繋がるはずの言葉を聞かずに、シャーディヤは背伸びをして指先でファジュルの唇を押さえた。
なんのまじないももたないか細く小さな手は、これまでファジュルがつないでいた手よりも、ひとまわり大きかった。
「姉さんと同じように、運命を、恨まない。父親を殺せるほどに、姉さんを愛してくれた。それは、わたしがファジュルを愛する理由になるわ。その愛がどんなものか、うまくあらわせないけれど」
シャーディヤの瞳にチラ、と光が戻る。
やがて明けゆく砂漠の夜の色だった。
「わたしたち、今度は共犯者になってしまったのね」
シャーディヤは、無理に口元に笑みを浮かべた。
「さあ、あまりここにいてもいけないわよね。お日様に日干しにされないうちに、逃げなくちゃ。ねえ、ファジュル、見て。わたし、ちょっと大きくなったみたい。姉さんのかけたまじないが、少しほどけたんだわ。服もきつい。どこかの街に寄って、着替えを手に入れなくちゃ。裁縫を習った方がいいわね。前はそんなことしなくてもよかったの。指先ひとつで、なんでもできたのよ」
少女は、すこしきつそうに見える衣服の端を少しつまみ、ファジュルの前でくるりと回った。
「でも、もうすっかりわたしの魔女の力は空っぽ。姉さんに力を取られてしまったのに、とても無理をしたの。これからは普通の人のように生きなくてはね。ひとりで、生きなくては。ひとりで。……ああ、やっと終わったのね」
口を挟めないほどに矢継ぎ早に言葉をつなぐシャーディヤは、ファジュルにもう一度、ほほえみを見せようとした。
ファジュルは、一歩分あいた距離をつめる。
すこし背丈の伸びた少女の頬に、漂泊暮らしで荒れた手をのばした。
「どうしてひとりで?」
「だって、わたしは――」
「私がいる……。だから、泣かなくていい」
気づかず頬を伝っていた滂沱の涙を、ファジュルが指先で拭う。
シャーディヤは顔をくしゃくしゃにして、砂漠の真ん中で、迷子のように泣いた。
声を上げ、苦しみを内から掻き出すように――。
泣き止むまで抱きしめてくれていたファジュルの腕に、シャーディヤはそっと手を添えた。
背の高い保護者と視線を合わせる。
かたいつぼみがほころぶように、苦しさのないほほえみが浮かんだ。
「ありがとう、ファジュル。ひとりじゃないって、素敵なことね。きっと姉さんもそう思っていたでしょう。……ねえ、ファジュル。わたし、本当は十六歳の女の子なの」
うなずくファジュルのいつもどこか哀しげなオアシス色の瞳には、いままでよりも、あたたかな色がにじんでいるようにシャーディヤには思えた。
「わたしね、どこへ行くか決めていないのなら、砂漠の向こうを見てみたい。いつか、わたしにかかったまじないは解けるかしら。ねえ、ファジュル――」
ファジュルをふりほどき、少女は背を向け、砂漠へ数歩踏み出す。
名を呼ばれ、振り返ったシャーディヤは、血染めの黒衣を次々に脱ぎ捨てると、驚く保護者をおきざりに、一糸纏わぬ姿で砂漠の丘陵へ駆け出した。
沈みかけた月を背に、しなやかな裸体が、美しい稜線の上で、女神のごとく輝きながら敬虔な祈りを舞った。
夜の向こうから白い朝の光が、静かに砂漠を照らし始めていた。
おわり
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