シャーディヤは忘れない

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シャーディヤは忘れない

  5  忘れない。  シャーディヤは忘れない。  大好きな姉を失った日のことを。  二人の泊まる宿には、ほどなくして盟主の館から贈り物が届けられた。  祝宴のための衣装だという。  純白の素晴らしいひと揃いだった。  舞い人のための丈の短い上着はなめらかな絹で、胸元には翅を広げた白い蝶が大きく刺繍されていた。下衣とヴェールは透ける平織りで、こちらも極上の絹だ。  上等の服を胸に押し当てながら、シャーディヤは言った。 「ほら、私を連れてきてよかったでしょう?」  彼が苦い顔をするのをシャーディヤはわかってそうした。 「ファジュル一人では正面から飛び込んで、今頃は縛り首になっていたかもしれないわ」  自分の首尾のよさを大いに誇ったシャーディヤは、コツンとおとされた軽いげんこつを幸せな心地で受けた。 「もう少しね、ファジュル――」  そう言ったときの、彼の苦悩の面持ちが、シャーディヤは好きだ。シャーディヤを巻き込むことをそんなにも苦しむ必要はないのに、ファジュルは迷いの消えない目を、いつもしている。  シャーディヤは美しい贈り物をそれからすぐに染め替えた。  祝いの紫の夜に、シャーディヤがよりふさわしいと思う色に――。  祝祭まであと数日。  手仕事に没頭する時間はありがたかった。  服の色ひとつ変えるのも、いまのシャーディヤにはままならない。  かつてのシャーディヤには容易いことでも、今となってはひとつひとつ染色の手順を踏む必要があった。  シャーディヤは染料に染まる自分の指先をじっと見つめた。  シャリーファと暮らしていたころ、姉がいつも手間のかかる手仕事を楽しんでいるのが不思議でならなかったが、自分の望むもののために手を動かす喜びは、確かにシャーディヤの中にもあるようだった。  シャーディヤは忘れない。  大好きな姉、やさしいシャリーファが失われた日のことを。  シャーディヤが力を失くし、代わりに童女の姿を得た日のことを。   砂漠の魔女は、かつて人と諍い人に憎まれた。  だがそれは遙か遠く、昔のできごとだ。  少なくとも魔女たちの間ではそう伝えられてきた。  時の始め強大な力を恣にしたころから、代を重ねるごとに彼女たちは衰え、かつて指先で国を滅ぼすとまで言われた力はどこにも残ってはいなかった。  彼らはいまや人の目の届かぬ砂漠のすみの廃墟で、絶えかけた血筋の末のひと家族が、衰えたまじないの力と暮らすだけの、いつか消えゆく存在だった。  小さな水辺の廃墟で、静かに暮らすふたり姉妹。  シャリーファとシャーディヤが、最後の砂漠の魔女だった。 「ああかつて、我らの舞は空を裂き海をも割ったと古人はいうのに」  早くに死んだ祖母の繰り言を、笑みまじりによくシャリーファは語ってくれた。  シャリーファは産まれながら魔女の才にはめぐまれず、舞と花を愛し、踊り子として生きることを望んだ娘だった。  シャーディヤはそんな姉とはうらはらに、近ごろにしては豊かな魔女の力を幼い頃から自在に操る娘だった。  六つ上の姉娘だったシャリーファは、妹のシャーディヤを目に入れても痛くないほど可愛がった。  古きまじないの才に恵まれた妹を妬むこともなく、幸福な小鳥のように寄り添って姉妹は成長した。 「上手ね、シャーディヤ。そう、そこの足踏みは――」  シャーディヤが歩くことを覚えたころには、鈴を振り、手を鳴らし、シャリーファが踊りを教えてくれた。  閉じられた家族だけの生活のなか、ふたりで踊る時間はなにものにも替えがたい喜びだったのだ。  穏やかで、だが決して観客の顔ぶれの変わることのない生活。  美しく成長したシャリーファが、さらなる活躍の場を求めたのは自然なことだった。  生前彼らの父母はそれを許さなかったが、相次いで両親が死ぬと、妹のシャーディヤは姉の望みを後押しした。  そして自分が最後の魔女として生家を守ると誓った。 「姉さん、この場所は私が守る。いつか姉さんが、もう街なんてこりごりって言った時のためにね。一人じゃないもの。イヌもネコもトリも、ここには友だちがいるから私はさみしくない。それに、私は砂漠の魔女だもの。魔法の残りカスを使えば、一人でちゃんと生きていけるわ。さぁ、いまから姉さんは、砂漠の舞姫になるのよ」  指先に火を灯す妹を、シャリーファは目を細めて抱きしめた。  出自を隠し、近くの町に働き口を求めたシャリーファは踊りの才を見込まれてすぐに王都に招かれた。 「遠くに行くのは寂しいけれど、おたよりするわね、シャーディヤ。私なんてなんの力もないのだもの。魔女だなんてわかるはずがないわ。もうきっと人は、砂漠の魔女の存在なんて忘れたでしょう」  王都でも、シャリーファはまたたくまに評判の舞姫になった。  遣いに出す伝書鳩が姉の便りを持ち帰った。  シャリーファの手紙にはいつも幸せばかりが綴られていた。  踊りを褒められたこと、新しく美しい家に移ったこと、後援者からたくさんの贈り物をされたこと。 〈父様も母様も、人をひどくおそれていたけれど、ちっとも恐ろしいことはなかったわ。みんなとてもやさしいのよ、シャーディヤ。いつかこちらへ遊びにきてね〉  三年後、恋人を得たという報せには、彼女の心をそのまま映した楽しげな文字が踊っていた。  王都での結婚を決めたという報告を、シャーディヤはどんなによろこんだだろう。  婚約者は水の町で生まれた人。  とても素敵な色の瞳をしていて、背が高くて明るくて、だいぶ年上だけれど、どこか純な素敵な人。  姉が言葉を尽くして語る恋人は、手紙で読む限りひとつの欠点もみあたらず、いつもシャーディヤの笑みを誘った。  古来魔女を狩る役割を担ってきた、砂漠の番人、水の町。  その事実が、シャーディヤの胸をチクリと刺したが、シャリーファの幸せを思えばなにをいうこともはばかられた。 〈シャーディヤ、私の婚約者は素敵な人よ。私が魔女の末裔でもかまわないとそういうの。打ち明けることがとても怖かった。だけど、いまそれ以上に幸せよ。ただ、彼の家の人には黙っておくつもり。水の町の人たちを、怖がらせたくはないから。私との結婚を、とても喜んでくれていると聞いたから――〉  手紙に挟まれていた押し花は、恋人から贈られた花だという。  くすんだ白の花はジャスミン。  枯れてなおかぐわしい残り香を、シャーディヤもまた幸せなほほえみで楽しんだ。  それからしばらくして、〈婚約者と会ってほしい〉と書いて寄越した姉の望みをシャーディヤは喜んだ。  自分たちは、廃墟のすみで朽ちてゆくだけの存在のはずだった。  でも、シャリーファは、幸せを外の世界で得たのだ。 「どんな人なのかしらね。シャリーファが愛したひとって」  あのとき、十六歳のシャーディヤは――、最愛の姉の連れてくる、やさしい年上の義兄に逢う日を、指折り数えていた。  心を引き裂かれる日が訪れることを知らずにいた。  聞いていた日より一週間も早く、シャリーファはひとりでシャーディヤの待つ家に帰って来た。  こめかみから血を流し、頬には青黒いあざがあった。  シャーディヤが悲鳴を上げる前に、シャリーファは妹を抱きしめた。 「ねえさん、ねえさんっ。どうして」 「シャーディヤ、どうか静かに。ごめんね……。魔女(わたし)は、恋なんて、してはいけなかったの。あの人を、苦しめてしまった」  腫れた目から涙をこぼし、シャリーファがつぶやいた。 「姉さん、どういう――」 「水の町に調べられたのよ。暴かれてしまった。魔女だと、その末裔だと――。私の言うことなど、なにも聞いてもらえなかった。人は私を、魔女をっ、まだ憎んでいる。この場所も知られてしまった。やがて追手がくるわ。ああ、私のせいよ。あなたを逃がす時間もない。あの人もっ、間に合わない――」  絶望した姉の声に顔色を変え、シャーディヤは必死にかぶりをふった。 「姉さんは魔女じゃない! 魔女というのなら、私が」  抱きしめる腕の力が強くなる。 「愛してるわ、シャーディヤ」  強く。強く。  たおやかなシャリーファのふるまいとも思えぬ、息もできないほどの抱擁だった。 「たった一度でいい。お願い、どうかいまだけ私に力をっ――!」  シャリーファの狂おしい悲鳴だった。  まばゆい光輪が、シャーディヤを包みはじめる。  シャーディヤの四肢がきしむ。ついでシャリーファと同じぐらいあったシャーディヤの背丈が、瞬く間に縮んでいく。  シャーディヤの身体から、力が流れでる。  まるで命を吸われるかのような錯覚が少女の体を貫いた。  身体中を掻き回されるような不快さが消えるころ。幼い姿になり変わったシャーディヤの腰には、古いまじないの印に似たタトゥが浮かび上がっていた。  抱擁がほどかれ、シャーディヤはガクリと膝をつく。  妹の肩に手をかけ、シャリーファは傷ついた顔で力なく微笑んだ。 「ああ、私にもこんなことができたのね。ちいさなシャーディヤ、よく聞いて。いま、私こそが砂漠の魔女になったのよ。決して物音を立ててはダメよ。死ぬのは私だけで十分。ここでじっとしていて。かわいい妹、愛しているわ。目覚めたとき、ひどいものを見ても、どうか忘れて生きて。それと……もしも、あの人がここを訪ねてきたら伝えて。『愛している、と。運命を、恨まない、と』お願いよ、あの人に――」 「ダメ、いや……、ねえ、さ、ん……」  呪縛に抗えずにシャーディヤが意識を失うと、シャリーファは古い床石を外し、こどもひとり入れるほどの空間にシャーディヤを下ろし、元どおりに直し封をした。  ひとしずくの魔法も使えなかったシャリーファが、シャーディヤがどうやってもほどくことのできないまじないをかけたのだった。  夜更け。暗闇の中、聞き知らぬ声でシャーディヤは目覚めた。  指先をかざしても、もう炎は灯らなかった。  昨日まで身のうちに満ちていた魔女の力は、ほんの少しのかけらを残して、シャリーファが全部持って行ってしまったからだ。  封の解けた床石をちいさな体で押しあげ、目の前にした光景をシャーディヤは生涯忘れることはない。  なつっこかった動物たちは黒焦げの小さな骸になり果てていた。  月明かりの下には、女の亡骸を抱いて慟哭する男がいた。  頬から血を流す男が、何者なのかは、すぐにわかった。 『オアシスの色した瞳なの』  その男、ファジュルの助けは、あの日シャリーファには届かなかった。  シャリーファは、穢され殺された。  ファジュルは、言った。 「かならず、仇を。必ず――」  あのときから、ファジュルとシャーディヤは復讐者になった。
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