ファジュルとシャーディヤ

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ファジュルとシャーディヤ

    2  深夜にかかる頃合いながら、外はまだ紫の夜のにぎわいを残していた。  砂漠の夜の空気を吸えば、清水を呑んだようにノドが冷える。  シャーディヤはぶるりと身を震わせると、フードを目深にかぶり直す。  人いきれを縫うようにして、足早に路地裏の安宿へ向かう。  明るくにぎやかな町だ。  この町の盟主は、紫の夜でなくともこの町に明かりを絶やすことを許さない。  砂漠の魔女が、神の与えたもうた灯火を嫌うからだと人はいう。はるか昔から、砂漠の魔女を狩る役目をこの街の盟主が継いできた。  いまだ古い伝説を抱え、のうのうと栄えているのだ。  この町は。あの男は――。  シャーディヤの花弁のような口唇に、きつく噛み痕がつく。  小走りにたどり着いた宿の戸口には、眉間にしわをよせた男がひとり立っていた。  少女の父親というに似合いの年頃だが、シャーディヤにとって彼は肉親ではない。  旅の、道連れだ。  シャーディヤの姿を見ると、男はかぶっていたフードを脱ぎ、呼び掛けた。 「シャーディヤ!」  彼のいら立ちまじりの声はめずらしい。  細身で上背のある男の口元には元の陽気な性格の名残があったが、眉間のしわとやせた輪郭が男を厳めしくみせていた。右頬には無残な刀傷の痕が残る。だが、よくよくみれば整った顔立ちだ。  目元には長旅を経ても目減りしない品の良さがにじむ。これは彼の美点であり、欠点だった。 「ただいま、ファジュル。こんなところでなにを?」  シャーディヤが砂色の外套のフードをとる。  ファジュルと呼ばれた男の目が、ぎゅっと細くなった。 「それは私が言いたい。シャーディヤ、どこにいたんだ。ほうぼう探し回った! 誘拐だって心配した」  少女ののんきなひとことを聞くなり、男はしゃがみ込み彼女の肩に手をかける。  湖水のような薄青の彼の瞳には、いつもひとしずく哀しみが宿っているとシャーディヤは思う。  かつては、きっとそうではなかった。  きっと。 「ごめんなさい。町まで背負ってくれてありがとうね、ファジュル。ファジュルこそ、グウグウ寝ていたでしょう。わたし、静かに待っていたわ。でも、ひまを持て余した子どもは飛び出すものよ。仕方ないじゃない?」  シャーディヤはツンとすましてみせたが、すぐに破顔して男の黒髪を子どもにするようにポンポンと撫でる。  ファジュルは顔をしかめていたが、仕方なしに瞳の険しさを緩めた。  そして、少女がはずし忘れた赤い輝石のついた金の耳飾りを見て奥歯を噛む。  踊りの装束の一部は、彼にとっては苦い記憶の欠片だ。 「わたしね、ちょっと遊びにでかけていたの。ファジュルが疲れているのわかっていたから起こさなかったわ。ファジュルは気にせず好きに過ごしていたらよかったのよ。私はあなたがどこにいても、見つけられるんだもの。魔法みたいにね。はい、これ」  少女は両手に包んでいたズッシリとした革袋を差し出す。 「これは……」 「あしたはすこし上等な食事を買ってくるわ。いいでしょう? 評判の魚料理の店があると聞いたの」 「踊ったのか」  ファジュルが少女の耳元の飾りに手をかけた。  金の飾りがチャラリと鳴る。  ひとときの沈黙を嫌って、シャーディヤは続けた。 「紫の夜は財布の紐もゆるむのね。姉さんの言った通りだった」 「シャーディヤ、危険だ」  ファジュルは、少女の頬に手を押し当てた。 「いまは私がキミの保護者だ、いうことを聞きなさい」 「ファジュル、おこらないで」  シャーディヤは、旅の道連れの首に両腕をまわしぎゅっと抱きつく。 「お金は、どんなときも私たちに必要なもの。そうでしょう?」 「……わかった。シャーディヤ、もう休もう。中に入りなさい」  ファジュルは深くため息をついて少女の背を叩くと、立ちあがり踵を返す。 「……ファジュルも、いつか見てくれる? わたしの舞を」  少女は、離れてゆく広い背中をすぐには追わず、ひとときの保護者に聞こえぬよう、ぽつりとこぼした。 「――あの男を、殺し終わったら」  紫の夜が、静かに更けていった。
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