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水の町の朝
3
砂漠の果てに朝日が顔をのぞかせたころ。
ファジュルは独り、安宿の中庭で三日月刀をふるっていた。ファジュルは武人ではないが、日々の鍛錬は子どもの頃にしみついてしまった日課だ。
二十数年ぶりに訪れた町は、ファジュルが暮らしていた幼いころよりもにぎやかさをましたように思えた。
今やこの街で暮らした歳月よりも王都で生きた日々のほうが長い。
そして、ファジュルにこの町への愛着はもうない。
ここには、「彼女」を殺した男がいる。
「ハッ…!」
息を込め、振り下ろす剣が風を切り、舞う。荒々しさのない流麗な所作だ。
三日月刀は、十五でこの水の町を出た時にファジュルの父親に持たされた。
柄に不透明な翠玉が嵌め込まれている以外、余計な装飾はないシャムシール。文官として王宮に仕えたファジュルには飾りでしかなく、血に染まったことさえろくにない。
だが今となっては、かつて与えられた剣技の手ほどきはありがたかったと言えた。
こうして、人を殺める手順を、繰り返し、辿り直すことができるのだから――。
『水の町にとどまるよりも、役人として身を立てる方がお前のためだ。わかるな、ファジュル』
昔、聞かされたことばが胸をよぎった。
生家を出て、王都に官吏として出仕した。と、言えば聞こえは良いが、妾の子が家の都合で追い出されたというのが本当のところだ。
厄介払いを気楽ととらえるには若すぎて、自暴自棄と諦観がかつてのファジュルに染みついていた。
見栄えと人当たりの良さを使い、浮名を流すばかりで年を重ねたファジュルは、空虚な男だった。
妻も得ぬまま歳を重ね、男女の嘲笑と怨嗟を背に負って笑って生きていたファジュルは――。
あるとき、運命を得た。
希い、もてる愛をすべて捧げて得た美しい恋人。
だが、彼らが祝福されることはついになかった。
罪人と呼ばれ、彼女は死んだ。
もう聞けないあの声が、幻聴となって彼の胸をしたたかに刺す。
『ファジュル』
切っ先が描く軌道が乱れた。
思い出すたび身体を引きちぎられるような痛苦が襲う。
いたぶられ苦しみ、なすすべなく命をたたれた彼女の痛みが、哀しみが、ファジュルの中に生々しく浮き上がる。
その仇がファジュルのよく知るこの町に居るということ、その事実こそあるいは導きなのかも知れなかった。
神か、あるいは彼女のものか――。
ヒュッ、と剣が風を鳴らす。
首をはねる軌跡を三日月刀が描く。
手首を返す。使い込まれた剣が朝日を浴びた。
鍛錬を終えた己の顔が、澄んだ刀身に映る。
この三月で驚くほど面変わりした自分を、ファジュルは自嘲した。
剣をおさめ、天を仰ぐ。
めずらしい名や身なりでもない。もう自分を、かつての水の町のファジュルと気づく者はいないだろう。
では、自分はあれから、はたして何者になったのか――。
物思いに耽っていたファジュルの腰にドン、と重たいものがぶつかった。
「ファジュル! ああ、ほらやっぱり怖い顔してる! 一段と老けて見えてしまうわよ」
視線を落とすと、いつの間にか目覚めていたらしいシャーディヤがいたずらっぽいまなざしで見上げていた。
「シャーディヤ、剣を扱うときに近寄るなと――」
「もう終わったのでしょう? はい、焼きたてのパン! 買ってきたの。はやく食べないと乾いてしまうわ。砂漠でないところなら、いつまでもふかふかのパンが食べられるのかしらね?」
シャーディヤは快活な口調でファジュルの胸元にあたたかい包みを押しつける。
受け取ったファジュルは力ない笑みを浮かべた。
人気のない裏庭で簡単な食事を終えると、シャーディヤはファジュルを町に誘った。
「通りに出てみましょうよ、ファジュル。朝市が立っているから。きっと楽しいわ」
ファジュルはうなずいて、脇によけていた旅装の外套をまとい砂よけのマスクで口元を覆う。フードを目深にかぶってもこの辺りならそう目立つ装いではない。
水の町の大きな通りにでると、布屋根の露店が並んでいた。朝食の屋台も盛況だ。ひよこ豆のファラーフェルや鶏や卵を包み揚げたブリークの香ばしい匂いもただよう。
どうやらシャーディヤは先にいくらかの目星をつけていたらしい。
木箱に並んだ鮮やかな色の果物をみて瞳を輝かせている。
「ほら、たくさんの果物。遠くから運んできたものもあるのですって。ナツメヤシ、ほしいな? 好きなの」
「好きに買うといい。昨日立派に働いたんだ」
ちいさな手に硬貨を握らせると、シャーディヤははしゃいで駆けてゆき、店主にあれこれ注文をつけている。
愛嬌のある美しい少女を相手に、店主もこまりながら笑い声をあげていた。
ファジュルはふと顔を曇らせる。
あんなことがあったとは思えないほどに、その姿は無垢な少女そのものだ。
この町が、あるいは旅の終着になると、ファジュルには覚悟があった。
だが、それを彼女にまで負わせることを、まだファジュルは手放しで是とできずにいる。
彼女にもそうしたい理由が、あったとしてもだ。
惨劇の夜はすでに三度の満月の向こうになった。
二人の胸に等しく刻まれた傷が、それだけの月日で癒やせようはずもない。
アハーリールの広遠な十字路ぞいにいくつかの町を流れながら、ファジュルは一度ならず彼女と道をたがえることを考えた。
孤児院、救貧院……、孤児となったシャーディヤをかかえた独り身の男に、神の名のもと力を貸してくれる場所はいくつかあった。
だが、そのたびにシャーディヤは言った。
「ファジュルといっしょに行く。お願い……、私にも、できることがあるわ。水の町に、連れて行って」
シャーディヤは、この町を目指すファジュルの目的を知っても、彼を遠ざけなかった。
泣くことも責めることも罵ることもなく、ただときに輝く瞳の奥に濃く苦しみを宿し、ファジュルの服のすそをそっと引いた。
伸ばした手の望みもわからずに顔を伏せる彼女を、ファジュルはかがんで抱きしめた。
苦しいほどに背に縋りついた彼女の指先には、言い表せぬ苦渋が満ちていた。
そして、シャーディヤの見上げる瞳には幼い少女とも思えぬ確固たる殺意があった。
ファジュルと、同じように。
だからファジュルは答えた。
「そうだな、行こう」
御し難い情念を隠すように、彼女は旅の最中ひどく子どもっぽくふるまった。遠慮会釈なくはしゃぎ、不満に口をとがらせ、他愛ないわがままを言ってみせた。そうすることで、ファジュルを試していたのかもしれなかった。
彼女の遺言を口にするときだけ、シャーディヤは少し大人びた。
「だって私は、伝えなくてはいけないの。あなたに――。『愛している』っていうことと『恨まない』って、ただそのふたつを」
暗がりに惑わぬよう、黒い想いで心を充たさぬよう。
それは時に彼女自身に必死に言い聞かせている言葉であるようにファジュルには思えた。
最愛の者を失っても変わらず訪れる昼と夜を越え、少女を預けるための門を叩くことなく、ファジュルはシャーディヤ――かつての婚約者の妹――をつれ、故郷の水の町にたどりついたのだった。
少女を見つめ、時にふと思う。
彼女が生きて、もしも娘をもうけたのなら……。
きっとそれはシャーディヤに似ていただろう。
シャリーファ。
もう呼びかけることのできない名が、ファジュルの中でいまも生きている。
「ファジュル!」
シャーディヤが、露店の店先から彼に向けて手を振った。
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