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ほんとうの魔女
4
「見て、ファジュル! こんなにたくさんもらっちゃった」
たっぷりおまけしてもらった干しナツメの包みを抱え、シャーディヤは満足げだ。
露店の並びも終わりにさしかかると、大きな屋敷が道向こうに燦然と輝く。
水の町をその名たらしめる湖、その対岸。
そびえ立つのは近隣の町を束ねる盟主の館だ。
ときには王都の名士たちも立ち寄る邸宅は、水の町の盟主の自慢だった。
眉間にしわを作るファジュルの意識を反らすように、少し前を歩いていたシャーディヤが振り返る。
「あっ、また怖い顔してる」
ちいさな足で華麗に踊りの足踏みをしておどけてみせる。
そのまま無防備に生成り色の外套を翻したシャーディヤは、
「あんたっ、お嬢ちゃん!」
とつぜんの野太い声に驚き、ファジュルの左腕に飛びついた。
シャーディヤを指差す男は、口を開け興奮した面持ちだ。
水の町の住人らしく頭には白布を巻き、口髭をたくわえている。近くの露店の店主のようだ。
「どうも、娘がなにか」
左腕にぶら下がる少女をかばいながら、ファジュルが尋ねる。
シャーディヤは人見知りの振りをしてきゅっと大きな手を握り、保護者の影に隠れた。
「いやいや、すまん! おどろかせたな。あんたの娘さんかね! 嬢ちゃん、きのうアズハルの店で踊ったろう。いやぁ思い出したよ。あの舞姫シャリーファを――」
ファジュルがグッと眉を寄せる。
シャーディヤもはじかれたように彼を見た。
愛想の良い髭の男は満面の笑みのままシャーディヤのそばにかがみこむ。
「知ってるか? シャリーファはなぁ、すばらしい踊り手だったんだよ。一度見たことがある。王都一番の劇場にさえ、人をあふれるほど呼べる舞姫さ。魔女だなんてうちの盟主さまが言い出さなきゃ、きっと今だって……」
言いかけた男は、ハッとして口元を覆い左右に視線を走らせる。
だが、近くの耳ざとい露天商たちはちいさな騒ぎを放っては置かないようだった。
「おぅい、なんだなんだ。ああ! 昨日のちいさな舞姫ちゃんか! そっちは親父さんか? そのなり、旅の者だろう。あんたら、水の町は初めてか」
取り囲まれる。
ファジュルの焦りをシャーディヤは悟り、表情をあかるく作り替えて前に進み出た。
「あの……ええ、初めてなの。わたし、母さんを亡くしてしまったから、父さんの産まれた隣の国まで行くの」
「そぉかい。そりゃ難儀だ。しかし、母ちゃんもいい踊り子だったんだろうなぁ。それにたいそうな別嬪さんだ。この水の町の盟主さまは、踊りが好きなんだ。披露する機会があるといいが。お嬢ちゃんなら、たんまり褒美をもらえるだろうよ」
「ああ、もうすぐ盟主さまの生誕祭だしな! 大きな宴だ。呼ばれることがあるといいが」
すっかり同情した様子の男たちが口々にいう。
昨夜のシャーディヤの舞は、ファジュルが思う以上に鮮烈な印象を市井の人々に残していたようだった。
シャーディヤはほこらしげに後ろに控えるファジュルに視線を流してから前に向き直ると、ことさら愛らしく言った。
「ありがとう。そうなりますように。おじさまにルシュディーを」
シャーディヤはすこしひざを曲げ、かれんな仕草で礼を示す。
次に口を挟んだ白ひげの男は、孫を見るようにまなじりをさげた。
「いい娘さんだぁな。おい、無口な父ちゃん。宝だよぉ、この子は。大事にしなきゃなんねぇよ。オラぁ、お屋敷の使用人には顔が利くんだ。嬢ちゃん、アンタのことを話しといてやるからな」
シャーディヤは、それを聞くとパッと顔を輝かせた。
「おじさま、ほんとう? お願いね。わたしたち、薄暮通りにいるの。〈黒い鳥〉という宿よ。盟主さまのおうちの方に、きっと伝えて。しばらくはこの町にいるつもり。ぜひ踊りをお目にかけたいわ」
「ああ、もちろんさ。あんたら親子にルシュディーを。隣国までの旅も大変だろうが、がんばれよ」
はじめに声をかけた男も、顔見知りの白ひげの男に肩を打ち当てて同意を示す。
「いまじゃ砂漠の魔女もいなくなったから、旅も気楽さ。まさか、あの踊り子シャリーファが、邪悪な砂漠の魔女だったなんてなぁ。まぁ、でも魔女じゃあ、殺されても文句は言えねぇけどな」
シャーディヤがあどけなく口を挟んだ。
「そう、魔女は死んでしまったのね。わたしも怖い昔話を知っているわ。でも……、じゃあ、もう人は魔女を恐れなくていいのね。よかったわ、ねえ、父さん」
見上げるシャーディヤに頷くこともなく、ファジュルは取り囲む水の町の人々に静かに頭を下げた。
露天商たちに別れを告げ、誰もいない湖畔を歩く。
満々と水をたたえる湖を背に足を止め、しばらくの沈黙を嫌って無理に口を開いたのはシャーディヤだった。
「……ねえ、この町で、ファジュルは生まれたのでしょう」
「そうだよ」
「だれにも、会わなくて、いいの?」
「会えるはずがない」
「っ……ごめんなさい」
失言を悟り、シャーディヤは口をつぐむ。
「いや、母は早くに亡くなった。父も、……私にはもういない。ふたりとも、やさしい人だったよ。少なくとも子どもだった私にとっては。腹違いの兄弟とも、縁はないんだ」
穏やかな声色が翳りを帯びる。
シャーディヤを見つめる瞳は、いつもと同じ、少しさみしげな水色だった。
「そう……、わたしといっしょね。ひとりぼっち?」
「ああ。でもいまは、シャーディヤの父親だな」
ちょっとした軽口に、シャーディヤはひどく傷ついた顔をした。
少女は湖の奥に見える白亜の館を見つめ、ポツリと言った。
「お父さんじゃ、ないわ」
「どうした? いや、……すまない。つまらないことを言ったな」
「ううん。ファジュル、わたしたちって、なんだと思う?」
シャーディヤはファジュルの外套をそっと引く。
「シャーディヤ……。私たちは――、ッ?」
言い淀むファジュルの続きを、少女は待たなかった。
今までのやりとりなどなかったかのように、長身の男の腰元にシャーディヤがいきおいよく抱きつく。
よろめき、腹のあたりにぐりぐりと頭を擦り付ける少女にファジュルは戸惑いの声を上げた。
「シャーディヤ」
「いいの、聞かない。ごめんね、ファジュル! 名前をつける必要なんか、ない」
見上げる瞳はかがやき、声色もいつもの明るさだ。
幾度となくファジュルを助けた、少女らしい慰めだった。
ファジュルはマスクの中で苦笑し、膝を折ると少女を抱きしめ背を軽く叩いた。丸い額がファジュルの肩にあずけられる。
「わたしたちは、復讐する。それだけよ」
肩口に顔を埋め少女は、くぐもった声で言い、ひとときだけの保護者に甘えて額をすりつけた。
安宿に身なりのいい男たちが訪れたのは、それから三日後のことだ。
「アズハルの店で踊った娘とはお前か」
「次の紫の夜、盟主さまの御前に参るように。祝いの舞を献上せよ」
使者を迎えたシャーディヤは、それを美しいお辞儀で受諾した。
ファジュルは押し黙ったまま部屋の奥で、しずかにヒザをついて礼を示す。
怒りに震える顔をそうして隠した。
シャーディヤは隠さなかった。
珊瑚色のくちびるに、蠱惑的な笑みを浮かべた。
ほんとうの砂漠の魔女が、その日、しずかに微笑んだ。
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