贈り物

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贈り物

 6    シャリーファがシャーディヤに与えたちいさな身体は、世を欺くのに都合がよかった。 『君が、シャリーファの妹なんだな』  ファジュルは、シャーディヤの本当の姿を知らない。  シャーディヤが独りいたこと、魔女であることを、どう思っているのかさえ訊ねなかった。  二人の間には共通の目的さえあればよかった。 『わたしは、ゆるさない。姉さんを、死に追いやった者を、決して……』  幸い姉は、シャーディヤの正確な年齢をファジュルに伝えていなかったようだった。快活でいたずら好きだったシャリーファだ。小さな楽しみをそこに見出していたのは想像にかたくない。  シャリーファを葬ったあと、ファジュルは言った。 『私は、水の町へ。そこに彼女を殺した男がいる』  怒りを押し隠した双眸で、震える手を抑え、確信をもって紡がれた言葉を、シャーディヤは信じた。 『お願い、わたしも連れて行って』  魔女を憎み、疎み、大切なシャリーファを殺した男。  アハーリールの砂漠と荒野のはざま、水の町の盟主。  すべてを呪いたい気持ちを殺し、シャーディヤはファジュルと旅を共にした。  無垢な子どもの顔で、哀れな遺児のふりをして。  シャリーファが穴を開け奪っていった、シャーディヤの魔女の力の源は、もう壊れてしまったようだった。  ひとつ小さな力を使うたびに、シャーディヤの力は失われて戻らなかった。無力な子どもになってゆく。  だが、それを打ち明けることもしなかった。  かわいそうなシャリーファを思えば、シャーディヤにはそうすることしかできなかった。  だから、ファジュルが必要だった。  姉を守れなかった男は、姉の言う通りのやさしいひとだった。  瞳に哀しみを宿し、胸に怒りを隠して、シャーディヤを守り、憂い、悩み続ける男だった。  家族だけで暮らしてきたシャーディヤが、初めて知った人だった。  はじめは彼もろとも死ぬことを厭わなかった。  ファジュルを隠れ蓑に旅を終え、シャリーファを殺した男のそばに行くことさえできれば、残った力の総てを注ぎ、人一人殺すことぐらいできるだろう。  無事逃げおおせるまでのことは望まない。  そう思っていた。  だが――。  シャーディヤは宿の窓を開き、あれから四度めの三日月を見あげた。  盟主が祝宴を設ける紫の夜。  いびつな二人が歩んだ旅路は、やがて終わる。 「シャーディヤ、時間だ」  ファジュルの声は確固としていた。  今宵の衣装に身を包んだシャーディヤは、ふりかえると膝を折って頭をたれた。 「ファジュル、ありがとう。ここへ連れてきてくれて」 「まだ早い。首尾通りに進むかもわからない」 「そうだとしても、あのときから、わたしに帰り道はもうないの」 「生きて帰す。そうでなければ、彼女に顔向けできない」  哀しみの消えない彼のオアシスの色の瞳は、これが終われば変わるのだろうか。  シャーディヤはいつもの調子で、ファジュルの腰に飛びついた。  ファジュルもいつも通り、ちいさな身体を抱きしめる。 「最後かもしれないから、ちゃんと、伝える……。ファジュル、わたしは砂漠の魔女。知っていたでしょう」 「ああ」  答える声に戸惑いはなかった。 「幼くみえるからって、あまり心配しないで。いくらか人を惑わすぐらいまだできるの。でももう、この体に残る魔女の力は、かき集めてもわずかなもの。使い果たせば、私に残るものはきっともう何もなくなる。あなたのただのお荷物になる。だから、」  自分を置いて逃げたっていい。  ファジュルはシャーディヤにそう続けさせなかった。 「ほんの少しのおまけが消えて、ただ子どもになるだけだろう?」  少し不思議そうな口ぶりに感じたのは、シャーディヤがそう思いたかったからだろうか。  嫌われ者の魔女かどうかさえ、ほんの些細なことのように――。  シャーディヤは自分がかすかに笑みを浮かべたことに、気づかなかった。  きっとシャリーファも、いつかそんなファジュルの答えを聞いたのだろう。 「わたし、ファジュルの好きなところがあるわ。わたしを子どもだからとあなどらずにいてくれた。なだめなかった、たしなめなかった。この心を、変わらぬ怒りを、ありのまま見てくれたのでしょう」  シャーディヤは目を閉じ、彼の肩越しに礼を告げる。 「シャリーファにはしかられるだろう。だが、君に待っていろ、とは言えない。シャーディヤを守るよ。今度は、必ず」  整えた髪をそっと撫でる仕草は人殺しには向かないやさしさだ。シャーディヤは鼻の奥をツンと刺す痛みを飲み込んだ。さぁ、始めるのだ。  瞳を開く。 「盟主さまのお誕生日。贈り物を、あげましょう」  双眸に研いだ光を宿し、シャーディヤは、言った。 ◇◇◇  盟主の生誕の日は、街を挙げての祝いの日でもあるようだった。  水の町の為政者は、意外にも慕われているらしい。  紫の夜の喧騒は、シャーディヤたちが初めて経験した宵よりも熱気を帯びている。  街を遠く囲む黒い空には、叢雲がかかり、風涼やかなよい晩だった。篝火が燃え、夜を焼いていた。  奉祝のための衣装を身につけたシャーディヤは、それをローブで覆ってファジュルともに盟主の館へ向かった。  望まれた刻限は、思ったよりも遅い時間だ。  館の前に着くと、衛士が彼ら二人を呼び止めた。  シャーディヤとファジュルはヒザをついてかしこまる。 「こよい、水の町の盟主さまに、祝いの舞を捧げるために参りました」  シャーディヤが言うと、衛士はあごをしゃくってファジュルを指した。 「聞いている。お前、この娘の父親か。西の旅装、みすぼらしいなりだな。おい、顔の覆いは外せ。盟主様の前で無礼だ」 「お許しください。私めの顔には醜い傷がございます。めでたき宵にお目にかけるものではございません」  ファジュルは目を伏せたまま、顔の下半分を覆うマスクを外した。縫い跡の残る大きな傷を見せる。  兵はあからさまに顔をしかめた。 「なんだ、傭兵でもしていたのか。ええい、しまえ。確かにめでたき日にも御前にも似つかわしくない」 「はい、ゆえに私めは、娘の参るお部屋の御前にて控えておりとう存じます」  荒い私兵の素振りで頭を垂れると、衛兵は嫌そうに手を振った。 「そうするがよい。娘、抱えているその包みは……おい、剣ではないか」 「舞の道具です。剣舞こそは、邪霊を払う祈りの舞。祝いの場にふさわしいかと……。亡き母の得意の舞でもありました。我が家に伝わる古き舞をお目にかけとうございます」  シャーディヤが彼を見上げ、ゆっくりと瞳を閉じる。衛士はかすかなめまいの心地に思わず目に手を当てた。  遠く思いを馳せるような少女の純な瞳に、偽りを見出すことが、衛兵にはもはやできなかった。 「よかろう。ふん、ついてこい」  豪邸の広い石張りの廊を行きながら、シャーディヤは思っていたよりも静かな邸内を訝しんだ。 「ずいぶん静かですね」 「盟主さまもお年を召された。あまり長くの饗応は好まれぬ」 「では、わたしが参るのは祝宴の場ではないのですね?」  シャーディヤは人知れず微笑みをこぼす。 「ああ、客を招いた大宴はもう終わった。お前のような名もしれぬ舞人が、なだたる賓客の前に立ってよいはずがないだろう。盟主さまは夜の間でお寛ぎだ。むすめ、酒を勧め、お心を和らげる舞を捧げよ」 「はい、心を込めて」  年端もいかない少女のそつのない受け答えを聞いた衛兵はまたフン、と鼻を鳴らした。  中庭に面した夜の間は、ごく私的な部屋だと衛士は言った。  ファジュルが手はず通りに扉脇に控えると、両開きの大きな戸が音を立てて開かれる。  途端、部屋のおごそかな輝きが目を射た。  アーチを描く高い天井からは花模様の幕が垂れ、部屋中に色とりどりのガラスのランプが吊るされている。  白い石張りの床の中央には色を違えた大理石の化粧板で、町の象徴の太陽が描かれていた。  広く四隅を囲う背の高い燭台が、今宵の舞人の舞台を示している。  東の白い焼き物の香炉では上等な薫物が細く煙を立てている。心ときほぐす没薬の薫香が水盤のある中庭から流れ込む冷たい夜気をくるんでなめらかにしていた。  美しい部屋の一番奥。  上等な絨毯を幾重にも敷き、高く作った座所に老人がひとりいた。  やわらかそうな寝椅子にゆったりと身を預け、老いた男が酒杯を傾けている。  彼こそ、この町の盟主だ。  脇に控える楽士は二人。静かな音楽を奏でている。  侍女をひとり供にして、盟主は夜を楽しんでいるらしかった。 「よくぞきた、ずいぶん幼いな。踊りの名手と聞いておる」  低い声は、ほがらかだった。
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