白い芳花

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白い芳花

  7 「シャーディヤと申します。お招きありがとう存じます。盟主さま」  愛らしくあいさつすると、シャーディヤは胸に抱いてきた三日月刀をそばにいた侍女へ預け、剣舞の時に渡してくれるよう伝えた。 「さあ、こちらへ、幼い舞姫」  老いた男は、シャーディヤを近くに呼び寄せると少女に盃を差し出した。 「これから砂漠を渡るとか」  近くの注ぎ口のある酒瓶を手にとり、シャーディヤは玻璃の杯に琥珀色の露を注ぐ。 「はい、母を亡くしました。縁者を頼り、父の生家へ」  幼い子どもの口ぶりでシャーディヤは言った。 「ねぇ、盟主さま。わたしはお礼を言わなくてはいけないのです」 「お礼?」 「魔女を、退治してくれたのでしょう?」 「おお、そうか。お前たちのような小さき者の耳にも届いたか」 「はい。だから砂漠の夜を渡っても、わたしはもう何も怖くないの」 「ハッハ、そうだ。恐れることはない。それに、もはや、彼奴らはおおかたの力を失っていたようだ。生きていたとて大した害もなせぬであろうよ」 「なのに殺してしまったの?」 「ああ、穢れた魔女だからだ。世にあることを許してはならぬ。我が役目、彼奴等の定めだ。さあ、もうその話はよい。舞え、むすめ。これをやろう」  少女の笑みに目を細め、盟主は、近くの花瓶から真っ白な八重のジャスミンを抜き取って少女の髪に飾った。 「この館にしか咲かぬ八重の花じゃ。さあ小さき花よ。ワシは舞を好いておる。楽しませてくれ。楽士よ、音を」  シャーディヤはかしこまって瞳を伏せた。  チリチリとカーヌーンの弦が弾かれ、踊り手を演舞の場へ誘う甘やかな音色が奏でられる。  無粋な厚ぼったいローブを着たままシャーディヤは冷たい床を裸足で踏み、床石で描かれた太陽のモザイクの中心へ。  舞台へ。  シャランシャランと足音を立て、美しい少女が老人に向かい合う。  舞の衣装を隠すローブの飾り紐をほどく。外套をするりと落とし、床をすべらせた。  盟主が息をのむ音が聞こえた気がした。  伏せられていた瞳が真っ直ぐに男を射る。  白い床の上に、少女が黒衣で立っていた。  纏う色は闇。贈られた天女と見まごう白い衣装を、シャーディヤは、黒く、夜を飲む漆黒に染め上げていた。  腰元には幾重にも金の鎖と飾りが連なっている。  上等の額飾りが少女をいつもより大人びた容姿にみせた。  くびれた腰に、複雑な模様のタトゥ。  中指にはめた金環には、縁を金糸でかがった黒のベールが繋がれていた。  少女がくるりとその場で回ると、金属の触れ合う涼やかな音が場を締めた。  素足を踏み鳴らす。足の甲を飾る金鎖が、シャンとふるえる。  ひざまづいたシャーディヤが、腕を交差させ、肩に指先を当て、静止した。  それを合図に、楽士が「ハッ」と息をつく。  タンタンタン、と跳ねる太鼓の音に身をゆだね、シャーディヤは艶かしい仕草で腕を開いた。  ベールが隠していた小さな体躯があらわになる。  かかげた腕に連なった金の腕輪がランプの明かりを弾いて輝いた。  シャーディヤはすました猫の足どりで盟主に背を向けると、楽士に音を促し、しなやかに片腕を伸ばし横顔を向け構える。  音楽の調子が明るく変わる。  胴に細やかな木彫を施されたカーヌーンの弦が、楽士の指先でかろやかに弾かれた。  シャーディヤが両腕を水鳥のように持ち上げると、指につながるベールが上弦の月のような弧線を描いた。  黒い月がのぼる。  少女の舞は自在だった。  青空駆ける翼あるもののように自由で、ときには地に萌える草花のように可憐だった――。  そらす首は優雅な白鳥(しらとり)のしなやかさをもち、振るう腕の猛禽を思わせる野蛮ささえ、見るものの目を釘付けにした。  笑みは雨季に咲く白い花めいて清廉、少女の身体中がこの場で舞う喜びをあふれさせていた。  音楽はまるでシャーディヤの指先や視線に操られているかのようだった。楽士の指先からかつてなく音が踊り、狂おしく胸をしめる響きが限りなく高められていく。  彼らは自分たちが忘我の中に放られたことにさえ、気づかずにいた。  弦楽と太鼓に彩られ、舞台を満たすのは、美酒のような舞だった。  ひと目見た誰もの視線が取られ、息もできなくなっていく。縛られていく。  盟主が酩酊した頭をうち振るう。  乾いた皮膚に汗が伝っていた。老人がつぶやく。 「なんだ、これは……」  なまめかしく躍動する少女の背が、目を離すなと命じていた。  振り向いた少女の瞳の強さにあてられ、思わず震えたことにさえ、盟主は気づかぬまま魅入られていた。  幻惑の中に、少女の姿がゆらぎ、生い育った美しい娘の舞姿が浮かび上がる。  見るものの背をゾッとするような冷たさが這う。  ベールをうち捨てたシャーディヤは、音楽の区切りに両膝をつき、両手をするりと差し出した。  まるで今は見えぬ夜空に祈りを捧げるかのようだった。  光景に縛られていた侍女がハッとして、少女の手に抜き身の三日月刀(シャムシール)を乗せにゆく。  それを合図に山羊皮のトンバクが鳴った。  雨だれのように、戦いのように。  アハーリールでは誰もが知る剣舞の音色であるのに、少女が踊るのは誰も知らぬ力強い舞だった。  太鼓の音色だけをまとって踊る、原初の舞だ。  剣は水平を静かに凪ぎ、満月のような弧を描く。  巧みな手捌きが色とりどりのランプの光をとらえ、無尽に輝く星のきらめきを放った。  シャムシールの光が矢のように胸を刺す。  少女の舞は、ますます研ぎ澄まされていく。  足踏みが大地を讃え、指先が豊穣を祈り、剣が正道を妨げる邪をことごとく切り裂いてゆく。  剣を手に祈りを捧げ踊る姿は、敬虔な巫女のようだった。 「ぐ、馬鹿な!!! お前はっ」  激昂した盟主は立ち上がろうとしたがままならず、すでに自分の自由が奪われていたことを悟る。  そして、美しい娘は、微笑んだ。  シャーディヤが剣を天に突き上げ指を鳴らすと、音楽は唐突に途絶えた。  侍女や楽士は、その場でそろってぐったりと倒れふす。  シャーディヤの胸に、一瞬苦しいような痛みが走る。残されたわずかな魔女の力が、末期の叫びを上げているかのようだった。  無音の部屋で、意識を保った者は、ほかにひとりだった。  老いた盟主の顔面は蒼白だ。  踊り終えたシャーディヤは、じっと男を見据えたまま、ひたりひたりと歩みを進めた。  左手には、三日月刀を提げていた。  先ほどまで舞っていた若い娘ではなかった。  そこにいたのは確かに、稚い少女だった。  先ほどの幻が嘘のように幼い足取りが、確かに獲物を捉えようとしていた。 「この舞を、おぼえていた?」  輝く瞳に暗い色が灯る。  砂漠の夜の色をした瞳は、深く赤く燃えていた。 「わたし、知っているのよ。姉さんが死ぬ前に踊らせたでしょう?」  盟主は顔色を変えた。  姉の亡骸に触れて得た記憶は、確かに目の前の男の中に生きていたようだった。 「お前、砂漠の魔女。まだ仲間が生きていたのか! 古より我が家は、アハーリールの砂漠の守り手、邪悪なる者どもがこれ以上砂漠を穢すことは許さぬ!」  唾を飛ばした盟主は、傍らの剣に手を伸ばそうとしたが、体はすでに少女の術に縛されて届かない。  わなわなと腕を震わせ悔しげな顔に、シャーディヤは何の感慨も持たなかった。 「もう一度聞かせて。どうしてあなたは、姉さんを殺したの」 「魔女だというだけで十分な理由だっ!」 「虫一匹殺せないひとだった」 「ひとだと? 笑わせる。魔女め、私は私の務めを果たす、それだけだ。誰か! これへ――。うぐっ」  シャーディヤの小さな手が、見えぬ糸に縛されて動けない男の顔を掴んだ。 「姉さんは言っていた。恨まない、と」  シャーディヤは言い、老人の顔を美しく染めた紫の爪で掻き毟った。  三本の掻き傷から血がにじむ。 「ぐううう」 「でも、わたしはそうじゃない」  シャーディヤは、髪にかざられたジャスミンをむしり取る。白い花をギリ、と握りしめる。  ふるえるシャーディヤの手から白い花びらがこぼれ、掌に一枚、冷たい花びらだけが残る。 「姉さんは魔女なんかじゃなかった。ただ踊ることが好きなやさしいひとだった」 「ぐうう、あの女、自分が最後の魔女だなどとでまかせを。であええ! 曲者だ。砂漠の魔女だっ」  その瞬間シャーディヤは、左手のシャムシールを振り向かぬまま後方へ投げ捨てた。  くるくると弧を描き、風を斬りさきながら剣は、床石の継ぎ目にガツと音を立てて突き刺さる。  それが合図だった。  扉が開く。  脇に控えていたはずの水の町の衛士は、すでに倒れ伏していた。  静かに歩いてきた男は、ファジュルだ。  慌てるそぶりはない。すでに打ち合わせ通り、周辺のあらかたの掃除を済ませてきたようだった。  夜の屋敷を荒立てず、静かに、ファジュルは床に突き刺さっていた愛刀を手にした。  気を失った楽士たちと動けずにいる盟主の姿を見ても、ファジュルのマスクに隠された表情は動かなかった。  シャーディヤの胸に昏く喜びが満ちる。  願いが叶う。ああいまから、ふたりで盟主(この男)を屠るのだ。  ファジュルを、シャーディヤは待ち侘びた。  あと少し、もう少し……。  歩み寄る男が何者であるのか、悟った盟主の引きつった顔に、その瞬間希望が宿った。 「ファジュル、おお、ファジュルよっ! 神の救いか」  シャーディヤは瞠目した。 「帰ってきたのか。面変わりしたな、だがその瞳、父はお前を見間違えぬぞ。父を助けにきたのだろう。そうだな? ああ、目が覚めたのだな、我が息子。お前の愚かな選択も、すべてを許そう。見よ、魔女が復讐に来たのだ! おぞましく、穢らわしい、神の恩寵からこぼれし者たちだ」  盟主の絶叫を聴きながら、シャーディヤは青ざめていった。
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