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美味しい料理を食べて、会話の出来る相手が居る。そのことに安堵し、僕は出張の疲れで重たい身体を横にして、綺麗に掃除されたカーペットに頬擦りする。
「お恥ずかしい話、妻が亡くなってから、何度か料理を試したことがあるんです。彼女は毎日作っていたから、きっと簡単に出来るだろうって……でも、僕には、難しかった。時間をかけて丁寧に作れば出来たけれど、あんなの、毎日は無理です」
空になった食器を片付けるテクノロ爺のまっすぐな背を眺めながら、僕はぽつりぽつりと話を続ける。
妻が居なくなってから、誰にも話せなかった弱音が、満たされた腹の奥から浮かぶようだった。
「料理をしながら、お腹が空いたと泣くキイナを見て、今やってるだろうと怒鳴りたくなりました。それなのに、せっかく完成したものを食べ溢したり残したりするキイナを見て、腹を立てました。時間をかけて作ったものを一瞬で食べ終えて、そのあとすぐに片付けをして、そうするとあっという間に次の食事の時間なんです……その間で他の家事をしようとしても、キイナが予想外の動きをすると、もう何も出来ない」
隣の部屋で健やかに眠るキイナの顔を思い浮かべると、自然と涙が滲んだ。
カナデが居なくなった時、僕があの子を守ると誓ったはずなのに。僕一人でもやっていけると思ったはずなのに、蓋を開けてみれば余裕もなく、苛立ち、追い立てられるような日々だった。
「妻……カナデは生まれつき身体も弱いのに、家で出来る仕事をして、家事も育児もこなしていたんです」
「素晴らしい奥様だったのですね」
「はい……でも、当時は彼女に出来るなら僕にだって……と、思っていました。きっと簡単なものだと」
かつて妻に対して吐いた言葉の数々が、自分に返ってくる気がした。
「でも……現実はこの様です。不甲斐ない……カナデにも、キイナにも、申し訳ない……」
「何でも一人でこなそうとしても、無理な話でございます。人間は機械と違って、無理して壊れたとして修理することも出来ないのですから」
「本当に、その通りです……きっと無理が祟って、カナデは……」
洗い物を終えたテクノロ爺は、背を向けたままシンクや排水口の掃除を始める。そんなところを片付けたのは、やってやるぞと意気込んだ最初の一回だけだ。
「ダイゴ様やカナデ様のご両親には、頼られなかったのですか? 保育園には行かれていないようですし、せめてキイナ様の面倒くらいは……」
「保育園は、僕が要らないって言ったんです……家に居るならカナデが面倒見るだろう、って……押し付けて、こんなに大変だなんて思わなかった……」
何もかも遅いのに、こんな風に後悔ばかりが押し寄せる。
「僕には、頼れる親は居ません。父は物心ついた頃には居なくて、母は毎日飲んだくれて、家は荒れ放題で……あんな風になりたくないと思っていたのに、イゾウさんが来るまで足の踏み場もなかった」
「そうでしたか……」
理想と現実の落差に、頭を抱える。酒を飲んでいないのに、ふわふわとしながら、酔ったように言葉が溢れて止まらなかった。
「カナデのご両親も……大事な一人娘と、何処の馬の骨とも知れず学も貯金もない僕との結婚は反対されていたようなので、結局顔を合わせたこともなくて……カナデがキイナを身籠って、駆け落ち同然で二人でこの町に……。そんなだから、カナデの葬儀でも、合わせる顔がなくて……つい、遠目に見掛けて、逃げてしまいました……」
「おや、お会いしたことはないのに、遠目で見てもわかったんですね」
「はい……カナデに良く似たご婦人が棺に縋り泣いているのを見て……きっと彼女がお義母さんで、その傍で宥めるようにしていたのが、お義父さんかなと」
「ご両親を見掛けた時、どう思われましたか?」
「……申し訳ない気持ちと、それよりも、怖いと感じました……きっと、僕を恨んでいるに違いないと。僕はキイナが生まれて、ようやく娘を持つ親の気持ちを知ったんです」
彼女の両親に決して見つかるまいと逃げたあの時の気持ちを、今でも鮮明に思い出せる。
まるで殺人鬼が警察から逃げるような、冷たい手で心臓を掴まれるような感覚だ。
「……火葬場に着いたら、今度こそ殴られてでも謝ろうと思ったんです……大事な娘さんを連れ出したこと、挙げ句無理をさせて死なせてしまったこと。……でも、足がすくんで……怖くてたまらなくなった」
あの時、母親を探すキイナを火葬場の職員に預けて、僕は逃げ出した。親としても、夫としても最悪だ。
「結局トイレに籠って、腹が痛いと言い張って、妻の骨上げすらしなかった。……すべて終わったと聞かされた時にはもう、ご両親の姿は見えなくて……」
「さようでございましたか……あなたは、家事育児だけではなく、都合の悪いこと全てから逃げる人間なのですね」
「え……?」
きゅ、っと蛇口を捻る音がして、水の流れが止まる。思わず顔を上げると、テクノロ爺の背が見えた。
そして、不意に思い出す。あの時遠目に見た、喪服に包まれた後ろ姿。棺の前に佇むあの白髪と、まっすぐ伸びた背筋。
「では、その逃避願望、叶えて差し上げましょう」
「あ……あの……?」
「何も心配要りません。あなたが親としても夫としても失格なのは、存じております」
「まさか……あなたは……」
「ご安心ください。大事な孫娘は、私の妻が引き取りますので」
床に突っ伏したまま、身体が動かない。あれだけ饒舌に話せていたのに、声も出なくなってきた。
「……さて、次は生ゴミの片付けを致しましょう」
「待……っ!?」
包丁を片手に振り返った彼が僕を見下ろすその視線は、本物の機械なんかよりも、ひどく暗く冷たかった。
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