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彼岸を出発して例年そこそこの長旅になるところが今年はあっという間に此岸に着いた。今年はいつもと違うものが迎えに来たからだった。
不思議に思って家の中を探索していると、きゅうりに割り箸を刺して作るはずの精霊馬が今年は馬でなく自動車になっていた。
きゅうり数本を使っているうえに、フロントガラスの部分をくりぬいたりして、なかなかの完成度だ。さながら精霊車といったところか。
盆になると、先祖の霊が彼岸――いわゆる死者たちがいる場所――から早く帰ってこられるようにきゅうりで馬を象った精霊馬を作り、彼岸に戻るときには此岸――いわゆる生者たちがいる場所――に少しでも長くいられるようになすびで牛を象った精霊牛を作るのが、俺が住んでいる地域の慣習だった。
それはここ何年か、我が家では息子の涼真の仕事のようだった。
涼真は昔から手先が器用だった。
幼稚園に通っていたころから砂場で城を作らせれば俺よりうまく作ったし、すぐに崩してしまう俺と違ってトンネルだって貫通させることができた。
「今年もうまいこと作ってくれたなー。パパこっち来るとき楽だったぞー」
俺は涼真に向かって言った。
「今日の晩御飯ってなに?」
「今日はハンバーグにしたわよ」
「やったー!」
俺の言葉なんて聞こえてないみたいに、涼真と妻の加奈は楽しそうに話していた。
それもそのはずだ、俺はすでに三年前に死んでしまい、こうして此岸にやってくることができるのは盆の短い間だけなのだから(ちなみに今年は精霊車に乗って思いのほか早く着いたので、正確にはまだ盆前だ)。
妻と息子は向かい合って美味しそうにハンバーグを口に運んでいた。
もちろん俺の席は用意されていないので、俺はそばに立ってその姿を見るだけだったが、不満なんてなかった。二人の姿がまた見られるだけで俺は満足だった。
風呂は一年ぶりに家族三人で入った。加奈が風呂に入っているのを覗いているみたいで気が引けたけど、俺たちは夫婦だったんだ。そのくらいは見逃してもらおう。
風呂場では加奈と涼真が流行りのJ-POPらしい曲を歌っていた。
「最近はこんな曲が流行ってるのか?」
「涼真も歌が上手になったなー」
「俺、サビの部分覚えちゃったよ」
俺の言葉は風呂場に空しく響くだけだったが、それでもよかった。俺は少し泣いていて、俺の姿が妻と息子に見られていなくて本当に良かったと強がってみたりもした。
夜が更けると俺と加奈と涼真は三人で川の字になって眠った。
こんな日があと何日残されているだろうか。俺は彼岸に帰るまでの日数を数えて胸が締め付けられるような気持ちになった。
あっという間にその日はやってきた。正確に言えば、盆が終わる日の朝方には、俺は此岸を発たねばならなかった。
涼真がなすびで作っておいてくれたのは、精霊牛ではなくさらに動きの遅い精霊かたつむりだった。
此岸でどのような誤解があったかは分からないが、期日までに彼岸に戻れなければ此岸と彼岸の間に取り残されてしまうので、できれば帰りも速い乗り物が用意されていたほうがありがたかったりするのだが、彼岸の住人にそれを伝えるすべを持ったものはいなかった。
俺はかたつむりにまたがると、たっぷり時間をかけて彼岸へと戻った。
その年、俺に乗り物は用意されなかった。
それ自体は別に構わない。地域によっては精霊馬や精霊牛の慣習がないところも多いようだ。
ただ、去年までは精霊リニアモーターカーなどを作ってくれていた涼真が今年はなにも作ってくれなかったのかと思うと少し拍子抜けしてしまった。
それも仕方がないことなのだろう。涼真ももう中学三年生だ。反抗期なのかもしれないし、受験だってある。いつまでも死んだ父親のために工作をするような年齢でもあるまい。
そして、ひょっとすると“あのこと”も関係しているのかもしれない。
「ただいまー」
誰にも届かないことは分かっていたが、家の敷居をまたぐ前に俺は中に向けてそっと声をかけた。
居間に入ると、去年と同じように、加奈と名前も知らない男が夕飯を食べているところだった。二人とも表情が暗く、口数は少ない。ひょっとすると涼真が原因なのかもしれなかった。
涼真の部屋を覗くと、涼真は部屋の中で、去年と同じように一人で夕飯を食べていた。
「一人で飯を食うなんて寂しいやつだなー」
俺は笑いながら部屋に入った。
「しかもなんか四角いやつで動画まで見てるじゃないか。行儀の悪いやつだ」
俺は涼真の背中に手を置いた。もちろん俺は涼真に触れることはできないが、その温かさを少し感じることができた気がした。
「母ちゃんを知らないやつに取られて悲しいのか? それとも母ちゃんが父ちゃんのことを忘れてしまったみたいで悔しいのか?」
涼真は無言で動画を見ていた。
「そのどっちかだったらいいなー。なぜなら俺がそうだから」
俺は涼真の部屋でまた泣いていた。俺はこの家に帰ってくるたびに泣いている。
そもそも俺が帰る場所はここで合っているのだろうか。俺は加奈と涼真の幸せを願っているし、加奈の再婚にだって賛成だ。だが、やはり寂しくないかといえばそんなことはなかった。
「お前は気持ち悪いと思うかもしれないけど、今日だけはここで寝かせてくれ」
俺は涼真のベッドの隅で膝を抱えるようにして眠った。
朝起きると、まだ子供のような涼真の寝顔をしばらく見つめてから、まだ盆が終わっていないにも関わらず俺はとぼとぼと彼岸への道を歩き始めた。
涼真が成人して家を出ると、俺はますます加奈と新しい夫が暮らす家に入ってよいのか分からなくなった。
「涼真のやつ、盆くらい実家に顔を出せばいいのになー」
そんなことをぶつくさ言いながら、俺は縁側に腰かけて時間を潰した。
家から加奈が出てくるたびに、俺はなぜかどきりとして、柱の陰に隠れたりした。
「これじゃあまるでストーカーじゃないか……」
俺は加奈の顔さえ見られればそれでよかったのだが、その発想がストーカーらしいといえばらしかった。
俺はそのまま庭で小石を投げたり飛び回る雀を眺めたりして、しばらくするとまた彼岸への道を歩いて帰った。
涼真が結婚して実家の隣に家を建てたときは涙がでるほど嬉しかった。というか俺は泣いた。
美人な奥さんとの新居に足を踏み入れることには抵抗があったが、なんと家の中には小さな赤ん坊がいたので、俺はこそこそと家に入ると飽きるまで赤ん坊を眺めた。
赤ん坊には俺のことが見えているのか、俺と目が合うと必ずにんまりと笑った。
笑った目元が誰かに似ていると思ったが、それは涼真であり加奈であり俺だった。戸籍上はどういう扱いになるか知らないが、それは紛れもなく俺の孫だった。
孫は名前を蒼太というようだった。
「そうたくーん、じいじですよー、ばあー」
俺は新しくできた孫が可愛くて仕方がなかった。
「やったな、涼真。お前もついにパパになったんだな」
慣れない様子で赤ん坊を抱く涼真の背中を叩こうとして、俺はすんでのところで思いとどまる。涼真が驚いて赤ん坊を落としでもしたら大変だ。
そこで俺は自分が涼真に触れないことを思い出し、また泣いてしまった。
ただそれは悲しみの涙ではなかった。死んでなおこのような光景に出会うことができた、喜びの涙だった。
「かわいいお子さんですね」
俺は初めて見る涼真のお嫁さんにも声をかけた。お嫁さんは優しそうで、涼真も笑っていて、三人はとても幸せそうだった。
「…………皆、元気でな」
やはり俺はここにいるべきじゃないのかもしれない、ふとそんな気がした。俺は新居をあとにすると、赤ん坊の笑った顔を何度も思い出しながら彼岸への道を歩いた。
しばらく此岸には帰っていなかったのだが、ある年、急に馬が迎えに来てくれたから驚いた。おっかなびっくり馬に跨ると、俺は此岸への道を進み始めた。
涼真の家には精霊馬が飾られていた。
精霊馬の出来はあまり良いものとはいえなかったが、それは可愛い孫が俺のために一生懸命作ったものではないかと思われた。
「ありがとうなー、蒼太くん」
俺は家に入るとすぐに小さな男の子に声をかけた。
「あと、お前もな、涼真」
精霊馬の隣には、どうやって作ったのか、なすびでナマケモノを象った、さながら精霊ナマケモノが飾られていた。手先の器用な涼真が作ったものに違いなかった。
「俺、まだ、ここに帰ってきてもいいのかな」
俺の声に返事をするものはいなかった。ただ、俺を見つめるナマケモノの間の抜けた顔がその答えのような気がした。
「俺のこと、忘れないでくれよな……」
気づけば俺はまた泣いていた。それは悲しみの涙であり、喜びの涙だった。
帰り道、ナマケモノは一歩も歩いてくれなかった。俺は仕方なくナマケモノを背負うと、彼岸までの道をまた歩いた。それは不思議と心地よい重さだった。
それからも、此岸へ帰るべきか迷うときもあったが、盆にはなるべく、涼真や加奈、そして孫たちの顔を見るために帰ることにした。
だが、長い年月の末に加奈や涼真が死ぬと、ついに俺と面識のあるやつは此岸にいなくなってしまった。
俺が建てた家は空き家になって長らく誰も住んでいなかった。俺は俺が知る景色が変わっていくのを寂しく感じた。ただ、なにより寂しいのは、俺のことを知る人がいなくなったことだった。
もう五十を過ぎていると思うが、蒼太くんはどことなく俺に似ている気がした。だが、その息子や最近生まれた孫たちに、俺の面影を探すのは難しかった。
俺は此岸に来ていいのだろうか、加奈も涼真もこの世からいなくなってしまったいま、本当に俺がここにいる意味があるんだろうか。
俺は中学校の同窓会に行ったけど誰からも話しかけられずに泣きながら帰ったあの日のことを思い出した。もう何十年前のことだろうか。あの頃から俺はずっと泣き虫だった。
気づけば俺はまた泣いていた。かつて俺が建てた、今では空き家になってしまった家の前で恥も外聞もなくわんわんと泣いた。
「あ、お父さん、やっぱりこっちにいたんだ」
聞き覚えのある声とともに、俺の肩に手を置くものがあった。
顔を上げると、そこにいたのは涼真だった。最後に見たときは八十前後だったはずだが、その姿は俺とそう変わらない三十歳前後に見えた。
「お前、どうして……?」
俺が服の袖で涙を拭いながら問いかけると、
「どうしてって、俺の初盆だから帰ってきたんだよ」といって涼真ははにかんだ。よく見ると、涼真の目にも涙が溜まっていた。
俺は混乱したが、どうやらこれは夢ではないようだった。
俺たちは泣きながらしっかりと抱き合った。涼真が泣いた顔は不細工で俺にそっくりだった。
「ごめんな不細工で」俺は涼真の背中をさすりながらそんな訳の分からないことを言った。「ごめんな、ごめんな、不細工で。ごめんな、俺、早くに死んじゃって」
俺たちはしばらくそうしていたけど、涼真がなにかを思い出したように、「あ、せっかくだから一緒に行こう」と言って歩き出したので、俺はその背中を追って進んだ。
「そういえばさ、母さんもどこかにいるのかな?」
俺は涼真の隣に並ぶと、気になっていたことを口にした。涼真は俺よりも少し背が高いようだった。
「母さんもこっちに顔出しに来てるよ。でも、父さんと会うのはちょっと時間がほしいっていつか言ってた気がする」
「そうか、そうだよな」俺は加奈の死んだ元夫という難しい立場だった。すぐに会ってもらえなくても仕方がないのかもしれなかった。
「それにしても、どうして家にいたの?」
「どうしてって、他に行く場所もないし」
俺が答えると、涼真はきょとんとした顔をした。
「え、じゃあ毎年お盆になると家の方に帰ってたの?」
「そうだけど」
俺が答えると、涼真は噴き出した。俺が不思議そうな顔をしていると、
「ごめん、笑っちゃって。でも、俺が死んだとき、神様みたいな人から、『生きている人たちにもプライバシーがあるから、あんまり家とかには入らないようにお達しを出してる』って言われたよ」
「えー、俺、その人の話、あんまり聞いてなかったよ。俺、昔、お前と加奈が入ってるときに一緒にお風呂とか入ってたよ」
「ほんとに? それってバレたら絶対に怒られるやつだよ」そう言って涼真は笑い、俺も同じように笑った。
涼真が言うには、早く着いたからといって盆前に此岸に入るのもダメなのだそうだ。
「じゃあ、彼岸の皆はこっちに来たらどこに行くんだ?」
俺は俺のことを知る人がいなくて入りづらかったあの家を思い出した。
「ほら、もうすぐ着くよ」
そこにあったのは霊園だった。
「そうだ、ここにご先祖さまのお墓があって、毎年盆になるとお参りに来てたっけな――」
俺はまだ俺が小さいころの記憶を思い出した。
あの頃、俺はまだ健在だった両親に手を引かれ、顔も知らないご先祖さまに手を合わせに来たはずだ。
それは夕方で、ヒグラシが鳴いていた。線香の匂いが漂っていて、俺はどこか心細いような気持ちになって、母さんの手を強く握ったんだ。俺が成人してすぐに両親も死んでしまったが、仕事が忙しくてなかなか墓参りには来られなかった。そうこうするうちに俺も墓に入ってしまった。
「どうして忘れていたんだろう」
『ご先祖さまがいるおかげで、あんたがここにいるんだから、しっかり拝んどきな。命を繋いでくれてありがとう。どうか遠くから見守っていてください、ってね』
母さんはその日、そんなことを言っていた。その言葉は時間を超えて今の俺にかけられているような気がした。こっちにもちゃんと居場所があるんだから、一年に一回は帰ってきて、子孫たちの元気な姿を見てあげな、って言ってくれていたように思えた。
「おじいちゃんもおばあちゃんも先に来てあっちにいるよ。皆でお酒飲みながら騒いでる」
「親父とお袋が? 俺が急に行って、びっくりしないかな」
「なに言ってんの、嬉しいに決まってるじゃん。むしろこれまで来なかったことを怒られるよ」
涼真は俺の背中を押した。
俺は少し恥ずかしくて、ぽりぽりと頭を掻きながら、涙と鼻水で濡れた不細工な顔のまま皆の前に進み出た。
帰り道、俺はたくさんの人と話をしながら彼岸への道を進んだ。
そこには俺に似ている人や全然似ていない人、たくさんの知っている人や知らない人たちがいた。かつて愛した人もいた。俺は牛に乗っていた。牛はのんびりと会話しながら進むのにちょうどよいスピードで歩いた。盆になすびで牛を作るというのは、どうやら間違いではないようだった。
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