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夏の始まり
初夏特有の澄んだ空が広がっていたその日、潮は、座った椅子のぐらつきに気を取られていた。
「院試を受けたい? 君が?」
ゼミの教授は怪訝そうに首を傾げる。潮が頷いたその拍子に、椅子がギィと軋んだ。数年前に卒業した学生の試作品らしく、背もたれの意匠は繊細に作り込まれていた。しかし脚がうまくかみ合っていないのか、少し重心を動かしただけで非難がましい音が鳴る。
「家具メーカーの内定が出たんだろう? 弓木さんなら、もうデザイナーとして充分やっていけると思うけど」
俯いた視線の先に、長い黒髪がはらはらと落ちてくる。ヘアゴムで縛っておけばよかったと思いながら、潮は影になった視界のまま黙り込んだ。
教授の研究室は、歴代の学生たちが作った椅子であふれている。学生たちが置いて行った試作品の中で、気に入ったものを収集しているらしい。脚が極端に伸びた椅子や、流木を少し削っただけの椅子など、奇抜な椅子ばかりが転がっている。その中では比較的まともな椅子を選んだはずなのに、今日も失敗だったと潮は内心ため息をついた。
「卒制のモチーフが、全然定まらないんです。私は一体どんな椅子を作りたかったのか、本質的な姿が見えないというか」
「最終面接でも聞かれたんじゃないのか? どう答えたんだ」
潮は、白く細い指で髪を耳にかけた。直射日光から色素の薄い瞳を守るように、長いまつ毛が瞬くたびに揺れ動く。
「他者と時間を共有する場になじむ、空気のような椅子を作りたいとは言いました。でも、卒制について考えるうちに違和感に気づいたんです。本当にそうだったのかって。土台がこんなにぐらついたまま、大学を出て大丈夫なのかという迷いがあります」
「心配はないと思うけど。弓木さんのデザインは洗練されているし、実用的で癖もない。無個性であることが個性だという解釈もできるだろう。君の作家性を問われると、正直僕もすぐには言葉が出てこないけどね」
「……」
「院試について、親御さんに相談はしたのか?」
「いえ、まだ。決めてから話そうかと」
潮が視線を逸らすと、椅子がギィと一際鈍い音を立てた。
「奨学金の説明会は出ておくといい。まだ時間があるから、もう少し考えてみなさい」
席を立とうと潮が腰を浮かせた時、教授は両腕を組んで口を開いた。
「弓木さんは、うちの学生にしてはまとも過ぎると思っていたんだけどね。まあ本当にまともなら、そもそも美大なんて来ないか」
中途半端な立ち上がり方をしたせいで、椅子がひどく軋みながら揺れた。ギィギィと椅子の音が響く中、潮はふっと表情をゆるめた。
「私は、自分がまともだって思ったこと一度もないですよ」
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