16人が本棚に入れています
本棚に追加
三話 思い出を映す
1
「この世界は、まるで箱庭のように思えてならなかった」
稽古着姿の生徒たちが集まる多目的教室で、玲は壇上でたった一人、見せ場となる長台詞を朗々と語り上げていた。
「新たに植え付けられた『僕』の記憶が、本来は自分のものではないと、一体どうして信じられるだろう。記憶を抹消する前の自分が、何故他人として生きることを選んだのか、実験を遂行する研究者たちは誰も教えてくれなかった……」
「そこまで! 早川さん、いい感じよ。間の取り方が素晴らしいわ」
顔を上げると、顧問の女性教師が満足げに頷いていた。周囲で自分の番を待つ他の部員たちも、玲をうっとりとした表情で見つめ、小声で会話を交わしている。
「素敵よね、早川先輩にぴったりの役だし」
「今年の大会はうちで決まりだね」
玲は壇上から降り、台本を持って顧問に立ち位置の確認をする。前後の流れなどの打ち合わせを一通り済ませた後、昼休みを挟むことになった。
休憩中も、玲の周囲には入れ替わり立ち替わり部員が現れる。大道具係の同期とデザイン案の相談をし、衣装班のサイズ計測に付き合い、一緒に舞台に立つ後輩にアドバイスをし、とにかく休む暇がなかった。
「私、購買で飲み物買ってくるね」
他の部員たちに引き止められそうになる中、玲は多目的教室をさっと抜け出した。演劇部の活動場所は西校舎の二階で、購買は東校舎の一階にある。階段を軽やかにかけ降りながら、玲は今日から始まった夏休みのことを考えていた。
去年、演劇部の部長となった玲は、演劇部を率いて全国大会まで駒を進めていた。全国大会は来月、東京で開催される。玲の志望校は、演劇界隈では有名な名門私立大学で、全国大会の結果とともに推薦入試を狙う計画だった。
進路がかかった大事な夏休みなので、今年は晴れて翠玉館に残れることになった。去年と一昨年も申請したものの、「部活がある」という理由だけでは許可が出なかったのだ。稽古に制約がないことはもちろん、夏休みを翠玉館で過ごせるということが、玲は何よりも嬉しかった。
(本当に、潮と咲月も残ったんだ)
てっきり自分一人だと思っていたので、他にも許可が降りた翠玉生がいると聞いて、正直最初はがっかりした。自分以外の翠玉生がいるなら、その分みどりを独り占めできなくなってしまう。だが、潮と咲月ならまた話は変わってくる。中途入学生の潮は、校内で玲と同じくらい注目を集めている有名人で、玲も潮に一目置いていた。咲月は控えめな優等生で、玲の周囲を騒ぎ立てるような後輩ではない。二人とも、一緒に生活する上で害のないタイプで、潮とはむしろこれを機に仲良くなりたいと思っていた。
西校舎を出た玲は、グラウンドを突っ切って東校舎に向かう。その途中で東校舎を見上げると、美術室の窓際に潮の姿があった。遠くからでも潮は目を引く美しさで、潮が入学したばかりの頃、玲は演劇部にスカウトしようと密かに試みていた。いくら話しかけても全然打ち解けられず、結局早々に諦めたのだが、玲と潮が二人でいると周囲が盛り上がるようになった。それ以来、玲は潮を見かけるたび、必ず声をかけている。
(今夜、潮たちをお茶会に誘ってみよう)
購買に着いた玲は、冷蔵ケースに並ぶラムネソーダの瓶を見ながら、いい案だと頷いた。他にも色々買っていこうと、玲は四人分のジュースやお菓子を選び始めた。
「今年の台本は思い切って、SF作品を選んだんです。新しい演目に挑戦してみたくて」
玲は、植野の存在が鬱陶しいと思いながら、宣教師館で夕食を食べていた。
「早川さんはどんな役を演じるんですか? いつも素敵な男性役をされていますが」
「実は、今回は女性役をやるんです! と言っても、男装の令嬢って設定なので、結局男役みたいなものなんですけど」
夏休みは寮監の教師たちがいないので、代わりに植野が監督役になったらしい。朝食と夕食は必ず宣教師館で、と言われた時から嫌な感じがしていたが、こうして根掘り葉掘り尋ねられると、行動を逐一監視されている気分になる。
植野の前では、潮たちと踏み込んだ会話ができないし、みどりだって一緒にいられない。これでは、普段の学期中と何も変わらないと思った。
「夏休みの食事なんですけど、私、翠玉館で自炊してみたいと思ってるんです」
夕食が終わる頃合いを見計らって、玲は用意していた台詞を口にした。
「翠玉館は自治寮の精神を掲げているのに、最近特に、学校のお世話になりすぎている気がするんです。昔の翠玉生は、一階の調理室で自炊していたって話を聞いたことがあって。食堂が閉まるって聞いた時、てっきり私たちもそうなるんだと思っていたんです。これも自立を学ぶいい機会だろうって」
大人にとって耳障りのいい言葉を並べ、あくまで熱心な生徒を装う。植野に対して切々と訴えかける間、玲は早くも手応えを感じていた。そもそも、玲は教師受けがとてもいい生徒で、玲自身それを大いに自覚していた。
「朝の礼拝には参加していただきたいので、日曜日の朝食は一緒に食べましょう。それ以外は、皆さんの自治の精神を尊重しますよ」
植野の返事は、玲にとってまずまずの結果だった。宣教師館からの帰り道、玲は首尾よく話が運んで満足していた。日曜日の朝食は避けられなかったが、多少は様子を知らせておいた方が、余計な詮索をされずに済むだろう。
「玲、どうしてあんなこと言い出したの?」
振り返ると、潮は怪訝な表情だった。
「嫌だった? 潮って、料理嫌いなタイプだっけ」
「別に嫌いじゃないけど、作ってもらえるならその方が楽でしょ」
「だって、宣教師館だとみどりが一緒に食べられないじゃん」
玲としては当然の返事で、潮もそれ以上何も言わなかった。潮も納得したのだろうと思いながら、玲は二人をお茶会に誘った。エントランスで一旦解散し、玲はそのまま一階の廊下を歩いて行く。
奥の部屋を「ただいま」と覗くと、みどりが嬉しそうに顔を上げた。丸みを帯びたショートボブの毛先が、かけ寄って来た拍子に軽やかに跳ねる。
「遅くなってごめんね。すぐ着替えてくるから、昼に話したお茶会やろ」
みどりに声をかけた後、玲は部屋に戻って制服を脱いだ。Tシャツと短パンに着替えながら、机に置いてあるカメラと三脚に目を留める。夏休み直前に、演劇部の部室で見つけた一眼レフだ。特に使われている様子もなかったので、夏休みの思い出を撮ろうと思って借りてきた。スマートフォンでは特別感が足りない気がしたのだ。
カメラと三脚を持って、玲は再び一階に降りた。談話室でみどりとお茶会の準備をしながら、玲は今日あった出来事を話していた。
「あの顧問、いい感じしか言わないんだよね。次は全国大会なんだから、もっとちゃんと指導してほしいっていうか」
「玲に文句ないってことでしょ? 自信持てばいいんだよ、玲は才能があるんだから」
そうかな、と首を傾げつつ、玲は自然と微笑んだ。玲も他の翠玉生たちと同様に、日常的にみどりに悩みを打ち明けていた。みどりに話した内容は、外に漏れることは絶対にない。相談相手として誰よりも安心できるので、玲は翠玉館に入ってから、みどり以外には自分の本心を話さなくなった。
みどりについて、もっともらしく考察する翠玉生もいた。過去の翠玉生の残留思念だとか、イマジナリーフレンドだとか、その時流行る説は様々だった。だが、玲はそんなことを考えるのは無意味だと嫌っていた。みどりが何者であるかは瑣末な問題で、みどりが翠玉館に住んでいるという幸運を、素直に享受すればいいと思っていた。
「すみません! 遅くなって……」
急いで入って来た咲月は、玲を前にぼうっと立ち尽くした。みどりに声をかけられて我に返ったのか、視線を逸らして椅子に座る。すっかり緊張しているのが見て取れて、玲は可愛いなと思った。
「いつも通り過ごすだけじゃ、もったいない気がするんだよね。せっかく翠玉館に残れたんだから、特別な夏休みにしたいっていうか」
カメラの準備をしながら、玲は咲月に話しかける。
「特別な、夏休み……?」
「そう、私たち四人だけの」
演出が過ぎたか、と思ったものの、咲月にはわかりやすく効いたようだった。中途入学生の咲月とは今まで接点がなかったが、この分では他の生徒と大差ないだろう。
しばらくして潮もやって来て、四人のお茶会が始まった。潮はいつも通り言葉数が少なく、淡々とラムネソーダを飲んでいる。乗り気な感じはしないが、完全に拒絶されている様子でもない。お茶会に参加したということは、多少なりとも親交を深めようと思っているのだろうか。
「ねえ、この動画いつまで回すの?」
「ずっとだよ。夏休みが終わるまで」
カメラに言及した潮に、玲はそれ以上話す隙を与えることなく、立て続けに語った。
「潮が来る前、咲月とみどりにも話してたんだ。いつも通り過ごすだけじゃ、絶対もったいないと思ってさ。せっかく翠玉館に残れたんだから、この四人だけで夏休みの思い出を作りたいんだよね。それに、私と潮はもう卒業じゃん? 翠玉館を出た後、あの頃楽しかったなーって見返せるものがあったらよくない?」
潮の表情は変わらず、むしろ面倒そうな気配もあった。玲は慌てて、無理にとは言わないけど、と付け加える。玲はここまで、考えておいた通りに話を進めたが、潮がどんな反応をするかまでは読めなかった。他の生徒や教師が相手なら容易く事が運ぶのに、潮だけはいつもわからない。
少し間が空いた後、潮が「いいよ」と頷く。その返事を待ち望んでいた玲は、思わず声を上げた。
「やった! ありがと潮!」
玲はそのまま、夏休みの計画について三人に説明する。いつになく高揚しているのが自分でもわかった。きっと忘れられない夏になる、と玲はこの時確信していた。
最初のコメントを投稿しよう!