三話 思い出を映す

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 2  「潮ー! 課題どんな感じー?」  グラウンドでの稽古終わり、玲が美術室を見上げると、窓際に座っていた潮は珍しく大きな声で答えてきた。 「あと少しで終わる!」 「わかったー! じゃあ、昇降口で待ってるねー」  小さく手を振る潮に、玲は手を大きく振った。部活が終わってから、潮とスーパーに行く約束をしていた。他の部員がいる前でわざわざ声をかけたのは、この後引き止められないようにするためだった。 「皆お疲れ、明日の稽古は四幕からね。出番がある子は先に発声しておいて」  他の部員たちからの挨拶を背に、玲は着替えに戻った。稽古着のままでもよかったが、制服姿の潮と並んだ時にそれでは絵にならない。稽古着をカバンに詰め、急いで昇降口に向かう。  潮を待たせていると思っていたが、玲の方が早かった。潮が来たらすぐわかるように、階段が見える場所で待つことにした。下駄箱に寄りかかると、スチールの冷たさが少しずつ背中に伝わっていく。周囲に誰もいないことを確認して、玲はため息をついた。 (手応えが、ないな……)  入部から六年目、やっと掴んだ全国大会出場だった。予選では例年通り、等身大の学園ものを手堅く演じていたが、同じことをしていても勝ち残れないと、思い切って台本を変更した。これをやり遂げれば演劇部として新境地を開拓できるし、推薦入試でも高い評価を得られる。実際、部員の士気は目に見えて高まり、稽古はいつも以上に白熱していた。  だが、玲はいつになっても、自分が演じる役について掴めなかった。頭では理解しているものの、感情が追いつかないのだ。上辺をなぞっている感覚から一向に抜け出せず、本当にこの演技でいいのかわからなかった。  近づいてくる足音に顔を上げると、潮が小走りで現れた。お疲れ、と玲は声をかけ、二人で昇降口を後にした。  学校の外に出るのは、本当に久しぶりだった。最後に正門を超えたのはいつだろう、と玲は思い出そうとして、春の帰省から戻って来て以来、ずっと学校の中にいたと気づく。西校舎の購買が充実しているので、日用品程度であれば事足りてしまうのだ。翠玉館で自炊がしたいと言ったのは完全に建前だったが、植野の監督下に置かれたままだったら、この夏も同じ調子で閉じこもっていただろう。 「やったね、あるならコンビニだと思ったんだ」  スーパーに行くというだけのことが楽しくて、このまま帰るのが惜しかった。しかも、今日は潮も一緒にいるのだ。なんとかこの時間を引き延ばせないかと、玲は潮をコンビニに誘った。ちょうど手持ち花火があったので、棚にあった種類すべてを買い揃えた。 「買い出しに行くって言い出したの、もしかして花火目当て?」 「それもあるけど、ちょっと外に出たくてさ。最近稽古ばっかりだから」  玲が考えた夏休みの計画には、花火も入っている。帰ったらすぐやりたいと思いつつ、いきなりやるのはもったいない気もした。楽しみはもう少し取っておこうか、とあれこれ考えているうちに、気づけば正門まで戻って来ていた。 「なんかさ、ここからが一番長く感じない? この学校広すぎるって」  正門からはけやき並木が続き、その先にうっすらと本校舎が見える。敷地の一番奥にある翠玉館は、ここから見ただけでは影も形もない。  玲はいつからか、実家から帰寮するたびに、正門から先の景色を「箱庭みたいだ」と思うようになった。次に出てくるまでの間、自分の世界はこの箱庭の中で完結する。敷地が広く、日々の生活も不自由なく回ってしまうので、これが世界のすべてだと錯覚しそうになるが、一歩外に出たら単なる箱庭に過ぎない。 「玲もそう思うんだ、意外」 「意外?」 「だって、中学からずっと住んでるから。もう慣れてるのかと思って」  けやき並木を抜け、本校舎が視界いっぱいに映る。潮の返事は何気なかったが、その何気なさに玲は言葉が出なくなった。  この学校にいる生徒は、ほとんどが中学から入学し、高校を卒業するまで顔ぶれが変わらない。高校から入ってくる生徒はわずかで、彼女たちは「中途入学生」と呼ばれる。だが、少数派の彼女たちは、あっという間に他の生徒と区別がつかなくなる。入学したての頃は明らかに異物感があるのに、その他大勢と馴染んで変わらなくなるのだ。  中途入学生の潮は、翠玉館で暮らしていながら、一向にこの学校に染まる気配がなかった。潮は一人異質なまま、この箱庭の中から、はるか遠くの方を見つめている。 「正門なんて、帰省の時しか通らないよ。普段は門限で外出られないし」  苦し紛れの返事に、潮から軽い相槌が返ってくる。玲が潮に一目置いているのは、潮はどこにいても、同じように彼女自身を貫くことがわかるからだ。潮がこの学校で注目を集めるのは当然で、たとえこの箱庭を出て行ってもそれは変わらない。  一方、玲は自分のファンクラブの存在を認識していたが、所詮はこの箱庭だけの人気に過ぎないと思っていた。箱庭で求められる姿を上手に演じているだけで、実態が何も伴わない。今のままでは、箱庭の外では通用しないだろう。早く本物にならなければ、という焦燥感に、玲はずっと駆られていた。 「潮は普段どうしてた? 放課後とか」 「別に……図書室で勉強するか、美術の課題描くかって感じ」  潮と本当の意味で親しくなれば、潮が潮である理由がわかるかもしれない。だから、玲は少しでも潮のことが知りたかった。  潮の事情を知る機会は、その夜訪れた。夕食を作る潮の手際が完璧で、話の種として軽く触れた時、潮がふいにこぼしたのだ。 「父親と二人暮らしだったんだけど、仕事で夜遅かったんだよね。でも、再婚して義母がやってくれたから」  潮は淡々と、年の離れた弟がいることも話した。咲月の言葉を失った様子に気づき、玲も口をつぐんでしまった。このタイミングで色々と聞きたかったが、迂闊に触れると潮との距離がますます遠のいてしまう。 「ね、今から花火やらない? せっかく買ってきたんだしさ」  とりあえずこの空気を変えようと、玲は潮たちを翠玉館の外に連れ出した。三脚をセットしてカメラを回し、ススキ花火に火をつける。  穂先からあふれ出す鮮やかな炎と煙は、暗い夜を彩った。次々と色が変わる花火に、みどりと咲月は楽しそうに声を上げる。潮も少し離れた場所でスパーク花火に火をつけて、パチパチと弾ける火花を眺めていた。 (さっき、花火買っておいてよかった)  狙い通り事が運んだことに玲は安堵しつつ、この後どうしようかと悩んだ。気まずい雰囲気は変えられたが、話の続きをするきっかけがどこにもない。自然な展開が何も思い浮かばないまま、ススキ花火とスパーク花火の袋がなくなり、あとは線香花火だけになってしまった。  四人は蝋燭の周りに集まって、線香花火にそれぞれ火をつけた。さっきまでの華やかな花火と違って、線香花火の燃え方は繊細で、その分静けさが気になった。 「名前があるんだって、燃え方に」  潮がおもむろに、玲たちの線香花火を見つめて言った。 「つぼみから始まって、牡丹、松葉とよく燃えて……衰えてくると柳、最後は散り菊。花弁が消えたら火も落ちる」  潮のささやく声に合わせて、玲の手元の線香花火がその通りに移り変わる。まるで予言にも似た出来事に、「本当だ」と思わず呟いた。 「そういうのって、絵を描いてると詳しくなるの?」 「私も、これは義母の受け売りで……」  そう言った途端、潮ははっと息を呑んだ。本当は、話を蒸し返すつもりなんてなかったのだろう。だが、玲は今しかないと口を開いた。 「潮が寮に入ったのって、もしかしてそれが理由?」  潮の線香花火だけが、震えるように燃えている。潮の異質さが複雑な家庭事情のせいなら、玲としても納得だった。わざわざ家を離れて寮に入ったのも、いつも余所者感を漂わせているのも、潮の振る舞いすべてが腑に落ちる。 「まあ、私だけ余ってたしね」  火花をか細く散らしていた潮の線香花火が、ぷつりと地面に落ちた。すっかり短くなった蝋燭の炎は、夜風に吹かれて頼りなく揺らめいている。ここまで聞き出せれば上出来だと思った。成果に満足した玲は、何か潮に慰めの言葉でもかけようと、この後の流れを考えながら線香花火の袋に手を伸ばす。 「私もです」  ところが、全く予想もしていなかった咲月の声に、玲は手を止めてしまった。顔を上げると、咲月は切実な表情で潮を見つめていた。 「私、実は双子なんです。一卵性の妹がいて」 「そうだったの? 咲月の家の話って、そういえば聞いたことなかったね」  慌てて話に入った玲に、咲月は「話すきっかけがなくて」と苦笑する。咲月はそのまま線香花火に火をつけ、膨らんでいくつぼみに視線を落とす。  咲月が語った双子の妹の話は、潮の話と同じくらい劇的なエピソードだった。自分と瓜二つの、それでいて自分より常に秀でている妹。妹に遠慮して家を出たという咲月に、潮は珍しく気遣うような視線を向けていた。  蝋燭の炎がふっと消えてしまい、火をつけ損なった線香花火を咲月が物憂げに眺めている。潮は、自分の線香花火を咲月に差し出した。パチパチと静かに弾ける潮の火球に、咲月がおそるおそる花火の先をかざし、火が静かに燃え移る。線香花火を介した二人だけのやりとりに、玲は思わず言った。 「だから似てるのかな、潮と咲月って」  似てる? と怪訝そうな声を出した潮に、玲は取り繕うように続けた。 「なんとなく、雰囲気が近い感じがしてさ。気が合いそうだなって思ってたんだよね」  心にもないことを口にしながら、玲は咲月の線香花火から半ば強引に火をもらう。こうして見ると、潮と咲月はよく似ていた。同じ中途入学生で、親元を離れて寮に入り、人知れず複雑な家庭事情を抱えている。自らの内面を他人には打ち明けないが、いざ話してみると互いに共鳴するところがあって――その相手は自分になるはずだったのに、と唇を噛み締めた。  この学校で潮に一番近かったのは、紛れもなく玲だった。周囲から月と太陽などともてはやされ、玲も満更でもない気分だった。潮に相応しい相手だと認められている間は、自分も本物になれたような気がしたのだ。 「ほら、潮」  潮の線香花火が消えた後、玲は自分の火球から新しい線香花火に火をつけ、潮に差し出した。咲月に対抗しようとする浅ましさを自覚し、苛立たしい気持ちになった。新しく現れた義理の母、姉よりも優れた双子の妹。どちらも舞台の題材になるような、特別な響きをはらんでいる。玲はごく普通の家庭で育ち、親と不仲でもない。二人に共感できるような事情は何も持ち合わせていなかった。  「……ありがとう、玲」  線香花火を受け取った潮は、柔らかく微笑んだ。初めて目にした潮の表情に、玲はこの時息を詰まらせた。潮のことを、自分はまだ少しも理解していないのではないかと思ったのだ。
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