三話 思い出を映す

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 3  何も思い通りにならないまま、時間だけが過ぎていき、八月の全国大会本番を迎えた。  衣装班が作った銀のサイバースーツを身にまとい、玲は一人舞台に立っていた。スーツに刻まれた文様は、玲が動くたびに照明を反射して、フレスコブルーの光を放つ。  背景には、メタリック素材の幾何学模様のパネルが何枚も重なっている。大道具係が用意した近未来世界の抽象イメージで、場面が変わるたびにパネルも組み替えられた。 「この世界は、まるで箱庭のように思えてならなかった」  冷たい玲の声だけが舞台に響く。会場となった東京の区民ホールは、収容規模が千二百席と広い劇場で、客席は二階席まですべて埋まっていた。 「新たに植え付けられた『僕』の記憶が、本来は自分のものではないと、一体どうして信じられるだろう」  玲が演じる主人公の女性は、自分の記憶を失っていた。新たに発明された、記憶を書き換える装置の実験台に志願していた彼女は、自分とそっくりな「彼」の記憶を植え付けられる。数日前に亡くなった彼として、彼女は彼の人生を続けることになるが―― 「記憶を抹消する前の自分が、何故他人として生きることを選んだのか、実験を遂行する研究者たちは誰も教えてくれなかった」  台本の台詞は、一言一句狂いなく記憶に刻まれている。練習通り、舞台上をどのように歩き回り、どの地点で視線を動かすか、細かい所作まで再現する。客席の視線を一身に集めているのを感じながら、玲は、自分の感情が醒めていく気配に怯えていた。  この台本を選んだのは玲だった。演劇部の部室にあった台本の束の中で、ほとんど開かれた形跡のない本を見つけ、興味本位で読んでみた。だが、この世界を箱庭だと語る主人公に惹かれ、他人として生きることになった彼女の姿が、玲は自分と重なって見えた。彼女の生き様を体現できれば、自分も本物になれるかもしれないと思ったのだ。  ところが、どうやっても彼女の気持ちを理解できなかった。顧問も、他の部員たちも、玲の演技を絶賛するばかりで、それ以外の意見を得られなかった。本番になったらまた気持ちが変わるだろうと、玲は自分を奮い立たせて舞台に上がったが、まるで機械のように台詞が出てくるだけで、感情が全くついてこなかった。  潮たちは客席にいない。三人からは今朝、「頑張って」と翠玉館を送り出された。こんな無様な姿を晒さなくてよかったと、玲は能面のような表情で舞台に立ち続けた。  すべてが終わって翠玉館に帰った頃には、もう深夜になっていた。潮と咲月は既に寝ているのか、物音一つ聞こえない。玲は制服のまま部屋を出て、一階まで降りて行った。 「玲、おかえり!」  みどりの部屋は、他の寮室とほとんど変わらない。一人用のベッドと机、据え付けの古いクローゼットがある小さな空き部屋で、ベッドのマットレスが撤去されているだけの違いだ。玲は固いベッドフレームに座り、「だめだった」と肩を落として呟いた。 「優勝できなかったの?」 「……特別賞だった」 「すごーい、おめでとう! 賞が取れたならよかったじゃん」 「賞が取れたのは、他の皆が頑張ったから。私のせいで優勝できなかった」  最終講評で、審査員は玲の演技がずば抜けていたと言ったが、だったらどうして優勝できなかったのだろう。他の部員たちの舞台作りは完璧で、主役として前に立つ玲がそれを高みに押し上げなければならなかったのだ。単に慰められているようにしか思えず、自分に対する苛立ちばかりが募った。 「玲が頑張ったから、賞が取れたんだよ。もっと自信持っていいんだって」 「あんなに酷かったのに? 私は結局、最後まで役になりきれなかった」  そもそも、演劇部に入ったのも些細な理由だった。他の女子より少し身長が高く、顔立ちが中性的だったというだけで勧誘されたのだ。特にやりたい部活もなかったので入部したが、後輩たちに騒がれるようになった頃から、次第に不安を感じ始めた。  人から求められる姿を演じてしまう、そんな自分に限界を感じたから家を出たはずだったのに、結局同じことをしているのではないかと。 「ずっとそう。私は、いつだってずっと中途半端」  みどりから顔を背けるように俯き、ぼやけていく視界の中で両手を握りしめる。  玲の両親は、元々息子が欲しかったらしい。その名残りだったのか、玲に与えられる服や玩具は男子用のデザインが多く、運動会などで男子と対等に張り合ってみせると、両親は非常に喜んだ。しかし、学年が上がるにつれて身体が変化し始めると、玲はこれ以上両親の期待には応えられないとわかってしまった。中学受験の話が出た時、あえて女子校を選んだのは、当時の玲なりに考えた両親への意思表明だった。 「玲は、ずっと頑張ってるよ。何も中途半端じゃない」 「……でも」 「大丈夫。玲は、誰よりも素敵な女の子だから。今まで見てきたどの子よりも」  みどりの優しい声が耳元で聞こえ、柔らかい腕にそっと包み込まれる。さっきまで荒れていた気持ちが少しずつ凪いでいき、代わりに安心感が広がっていく。どんなに辛く、耐えられないと思う出来事があっても、みどりがいるからやり過ごせる。翠玉生になれたことが人生最大の幸運で、翠玉生でいる限りは、自分が特別だと肯定し続けられるのだ。  いつも通り、玲がみどりに身を預けようとした時、ベッドフレームの軋む音が響く。その一瞬で、玲の思考は現実に引き戻された。そしてこの夏休みの間、他の翠玉生たちが不在なのをいいことに、毎晩のようにみどりの部屋に来てしまっている自分に気づいた。 (潮と咲月は、この部屋に来てない……?)  玲がこんなに入り浸っているのだから、鉢合わせてもおかしくないはずなのに、あの二人とはすれ違ったこともない。二人がみどりと個人的に話す場面すら、そういえば一度も見たことがなかった。どうしてあの二人は、みどりがいなくても、いつも平然としていられるのだろう。   「今日は、このチャペルについてお話したいと思います。まずは礼拝堂の設計ですが、旧約聖書の『ノアの方舟』が由来です。特徴的な部分はこの天井ですね。舟の底をイメージしたものですが、光が見えない方舟の中でも、神がいつも共にいて導いてくださる。そんなメッセージが伝わるかと思います」  日曜日の朝、説教台に立つ植野を前に、玲はあくびを噛み殺していた。話が具体的なうちはまだ聞いていられたが、聖書の話が挟まれると集中力が切れてしまう。この学校に入って六年目だというのに、玲は一向に興味が持てず、いつも話半分に聞き流していた。  夏休みの間、植野から参加を義務付けられた朝礼拝も、もう片手で数えるほどしか残っていない。全国大会が終わってから部活の日数も減り、時間に余裕ができた。そのすべてを埋める勢いで、玲は潮たちと夏休みの思い出作りに励んでいた。今夜も本校舎で肝試しをしようと、既に声をかけてあった。 「皆さんが住んでいる翠玉館にも、由来があります」  ふいに耳に入った植野の声に、玲は顔を上げる。植野は温和に微笑んで、席に座る三人に言った。 「翠玉とは、宝石のエメラルドの和名ですが、エメラルドは神の栄光や恵みを表す石だと言われています。皆さんに、常に光が差すようにという願いが込められているんですね。エメラルドグリーンのステンドグラスは、その願いの象徴です」  神の栄光と言われてもピンとこないが、翠玉生にとっての恵みは、間違いなくみどりの存在だろうと思った。いつもみどりがそばにいる翠玉館は、玲にとって本当に居心地のいい場所で、あと一年もしないうちに退寮だなんて信じられなかった。  意識していなかった「退寮」が、玲の中で急に現実味を帯びる。卒業について口にしてはいたものの、翠玉館を出ていくこと、そしてみどりと別れることとは結びついていなかった。翠玉館にいる間、玲はずっとみどりに支えられていた。だが、翠玉館を出た後は、一体何を支えに生きていけばいいのだろう。  隣に座る潮は、植野を真っ直ぐ見つめている。円形のステンドグラスから朝日が差し込んで、潮の艶やかな黒髪と、白く美しい横顔が輝いていた。すぐそばにある凛とした存在感が眩しくて、玲は思わず目を細めた。  その夜、玲はみどりとペアになって、潮たちとは違うルートで本校舎を歩いていた。肝試しのゴールを講堂にしたのは、演劇部が校内公演を行うときに使っていて、玲にとって馴染みのある場所だったからだ。夜の本校舎に来るのは初めてで、いかにも非日常という雰囲気で楽しかった。みどりも教室を覗いては、時折聞こえる家鳴りや風の音にはしゃいでいる。  二人はあっという間に東棟を一周してしまい、先に講堂に到着した。明かりのない部屋は薄暗く、えんじ色のカーテンがただの影になっている。潮たちが到着する瞬間を撮ろうと、玲は舞台の照明をつけ、グランドピアノの上にカメラを置いた。 「どうしたの、玲」  振り返ると、みどりが心配そうに玲を見つめていた。玲は肝試しを精一杯楽しんでいたつもりだったが、様子がおかしいことに気づかれたのだろう。舞台に座った玲は視線を落とし、みどりには嘘がつけないな、と苦笑した。 「寂しいな、と思って」  この夏休みが終わることが、翠玉館を出ていくことが、みどりと別れてしまうことが、玲はすべてがどうしようもなく寂しかった。どれも避けられないからこそ、居心地の良い箱庭を去らなければならないという事実が、潰れそうなほど重くのしかかっていた。 「大丈夫だよ、玲。私たちは、いつだってずっと一緒だよ」  みどりの優しい声が、今日は聞き入れられなかった。首を横に振って顔を上げた玲は、視界に映ったみどりの姿に目を見開いた。短かったはずの髪が、肩を超してさらに長く伸びている。艶やかな黒髪で、肌も陶器のように白い。少しずつ近づいてくる彼女は、慈愛に満ちた表情で微笑んでいる。 「寂しいなら、ここにいればいいんだよ。ずっと一緒にいればいい。何も変わらないよ」 「潮……?」  目の前にいるのは潮そのものだった。だが、講堂にはまだ咲月の姿がない。それに、玲の知っている潮はこんなことを言わないし、こんな表情で玲に微笑むはずがないのだ。  舞台に座ったまま、玲は思わず後ずさった。彼女は容赦なく近づいてくる。あと少しという距離になった時、廊下から二人分の足音が聞こえてきた。 「遅いぞ、二人とも!」  思い切って声を出した先に、咲月と潮の姿が見えた。玲は咲月に視線を向け、罰ゲームの風呂掃除を嬉々として語った。すぐ近くまで来ていたみどりは気が逸れたのか、講堂の中を自由に歩いている。  しばらくして、玲は恐る恐るみどりを視界に入れた。みどりの姿は元に戻っている。しかし、安心したのも束の間、ずっと見つめていると次第に輪郭がぼやけていく気がした。玲は慌てて目を逸らし、わずかに震える腕を必死で抑えた。  みどりが何者であるかは、瑣末な問題だと思っていた。だが――本当にそうだったのだろうか?    三十日の夜、玲は潮たちを再び講堂に誘った。プロジェクターを用意して、舞台の壁に夏休みに撮った動画を映す。談話室でのお茶会から始まって、花火の夜や自炊の様子などがほのかに青白く輝いている。  シーンが次々と移り変わる中、最後に撮った肝試しの夜が舞台に映る。四つ並べた椅子の左端に座った玲は、潮と咲月を横目で窺った。今夜の目的は夏休みを振り返ることではなく、二人にみどりがどう見えるか尋ねるためだった。肝試しの夜以来、玲は一度もみどりの部屋に行けなかった。自分一人でみどりに向き合うのは怖かったが、潮と咲月が一緒にいれば、まだ勇気が出せる気がした。 「ね、夜って言ったら、やっぱり内緒話じゃん。今から一人ずつ、誰にも言ったことがない秘密を話してみない?」  玲は半ば強引に話を切り出すと、カメラの電源を消しに行った。あの日、玲は講堂の入口に向かってカメラを設置したので、幸か不幸かみどりの姿が変わった瞬間は映っていなかった。しかし、今の画角では四人全員が入ってしまっている。潮が二人なんて絵面は考えただけで恐ろしく、そんな瞬間を残したいとはとても思えなかった。  玲が椅子に戻ると、咲月が強張った表情で舞台を見据えていた。玲は、咲月がみどりを避けている様子に気づいていた。明らかに視線を逸らしたり、距離を取ったりしている咲月を不審に思っていたが、咲月もみどりと何かがあったのかもしれない。きっと、咲月はみどりについて何かを打ち明けるだろう。玲がそう期待していた矢先、咲月は「ピアノを弾きたかった」とだけ言って、舞台のグランドピアノを弾き始めた。  唖然と咲月を眺めていた玲は、咲月がピアノの話をしていたことを思い出す。今の咲月にとって最大の関心事がみどりではなかった事実に、玲は言葉を失った。  みどりをこんなに気にしているのは、自分だけなのだろうか。いや、みどりがいる前だから話しにくいのかもしれない。もう少し話の流れを自然にしなければならないと、玲が必死で思考を巡らせていた時、潮が「私は嘘をついた」と呟いた。  珍しく、感情が滲んだ声だった。潮は固く目を閉じて、絞り出すように言った。 「私は義母が――彼女が好きだった」  あの潮が、堪えきれなくなったように苦しい表情を露わにしている。潮が語る義母への感情はあまりに切実で、箱庭から潮が何を見つめていたのか、そして潮が箱庭に関心がなかった理由を、玲は本当の意味でやっと理解した。 「歪んでるよね、こんなの」  歪んでいる。  玲の椅子が、ギィと鈍く軋んだ。潮の視線が玲に向けられる。玲はとっさに「そんなことない」と返し、思ってもないことを話し始めた。 「潮の気持ち、わかる気がするよ。年上のお姉さんって、それだけで憧れるっていうか」  潮の感情は、そんな生易しいものではない。わかっていたが、否定せずにはいられなかった。潮にとっての「彼女」が、本当に潮が語った通りの存在なら、そんなの、全然勝ち目がないじゃないか――  潮から視線を逸らすと、隣のみどりと目が合った。みどりは潮と全く同じ顔で、玲を見つめている。薄っぺらい言葉でその場を取り繕う玲を非難しているようで、玲は目の前が真っ暗になった。 「いつか皆で行こうよ、海」  玲が苦し紛れにそう言った時、みどりが、ゆっくりと口を開いた。  彼女が玲に向かって何を言ったのか、記憶から声だけが失われている。絶対に忘れてはいけなかったはずなのに、あの夏を何度も繰り返しても思い出せないのだ。  ああ、今日も何もわからない。最後の記憶を取りこぼして、また愚かな夏を繰り返さなければならない。玲がたった一人、終わりのない暗闇に沈むような絶望感に囚われた時、腕を強く掴まれる感覚が玲を引き戻した。 「行こう、一緒に」
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