夏の始まり

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 研究棟を出ると、風がすっと吹き抜けた。近くのグラウンドからは、体育の授業を受ける学生たちの歓声が聞こえてくる。  五月も半ばを過ぎ、日差しは日に日に強くなっていた。思わず青空を見上げた潮は、黒いスウェットパーカーの袖を軽くまくった。この気温でジーンズは暑かったかもしれないと思いながら、生成りのトートバッグを肩にかけ直し、図書館がある南キャンパスに向かう。北と南を繋ぐけやき並木はちょうどいい木陰になり、アスファルトの地面で木漏れ日が揺れている。なるべく日陰を選んで歩きつつ、潮は静かに息をつく。  奨学金の話は耳に痛かった。進学しようにも、先立つものがなければ話にならない。親からの援助があるに越したことはないが、実家にはもう何年も帰っていない。都内まで通えない距離ではなかったが、一人暮らしの方がなにかと都合が良かった。  父とはたまに学費の件で連絡をするものの、義母との交流は完全に避けている。年の離れた弟が今何歳になっているのか、正確なところもわからない体たらくだ。  けやき並木を抜けると、図書館が見えてくる。十年ほど前に建て替えられたばかりで、構内で一番新しい施設だ。潮はカウンターで学生証を見せ、トートバッグから分厚い図録を取り出した。返却手続きを済ませた後、その足で大階段をのぼっていく。  館内は、壁面すべてが本棚で埋め尽くされている。実際に書架として機能しているのは手が届くほんの一部だが、書物の森をイメージした意匠は、完成当時かなり話題になったと教授が話していた。  三階までのぼると天井も近くなり、人の声も遠くなった。本棚の間を歩き回った潮は、しばらくして一冊手に取った。椅子を題材としたポートレート写真集で、街角のカフェテラスや公園のベンチ、海沿いに並んだデッキチェアなど、撮影シーンは多岐にわたっているようだ。その場でぱらぱらと眺めた後、本を持ったまま窓際の閲覧席に座る。  窓の外で、青い桜の葉が揺れている。図書館を取り囲むように植えられた木々が、この席ではちょうどいい日差し避けになり、淡いコバルトグリーンの光があたりをぼんやりと照らしていた。潮はこの席で資料を読むのが好きだった。手元の読書灯をつけ、頬杖をついてページをめくっていく。どの写真にも人間が映っていない。椅子の細部までよく見えたが、不在である空間そのものが不思議と目についた。  手元でスマートフォンが振動した。何気なく画面をつけた潮は、待ち受けに表示された名前に、軽く目を見張った。 「……玲?」  久しぶり、から始まるメッセージは途中で切れている。メッセージアプリを開くと、長文のテキストが届いていた。 『久しぶり、元気にしてる? 実は、今卒業公演の準備をしてて、台本の題材に夏休みの動画を使おうと考えてます。動画をそのまま映すってことはないんだけど、潮にも一応確認しようと思って連絡しました。使って大丈夫?』  差出人の早川玲は、高校時代の寮の同期だ。当時から演劇部のエースとして主役を張っていて、有名な演劇学科のある私大に進学した。高校を卒業してからは、SNSで演劇サークルの公演告知を見かける程度で、お互い連絡を取り合うことはなかった。  文末についていたURLをタップすると、SNSアプリが立ち上がる。自動で始まった動画の冒頭を見て、ああ、と頷いた。 『久しぶり、私も卒制の準備を始めたところ。動画は使っていいよ、準備頑張ってね』  玲の言う動画とは、高校三年生の夏休みに撮りためたものだ。当時帰省しなかった寮生四人で、思い出づくりをしたいと玲から提案された。潮は特に見返していなかったが、共有アカウントを久しぶりに開いてみると、なんだか懐かしかった。  続けて送った了解のスタンプにも既読がつく。潮がアプリを閉じかけた時、再びメッセージが届いた。 『潮の目に、あの夏はどう映ってる?』  潮は共有アカウントを開き、一覧画面をスクロールする。  動画のサムネイルはどれも、半袖の白いシャツにグレーのプリーツスカートを着た少女たちが、和気あいあいと過ごしている。玲、咲月、潮、そしてみどり―― 「――」  潮は画面を見つめた後、最初に投稿されたショート動画を再生した。どこかおぼろげな思い出が、脳裏で少しずつ蘇る。高校三年生の夏休みは、今の潮にとってはまるで遠い昔の出来事で、ソーダ水のようにきらきらとした一夏の記憶だった。
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