一話 光の当たる椅子

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一話 光の当たる椅子

 1  いつも通り朝六時半に目が覚めた潮は、半ば夢うつつで起き上がりながら、翠玉館が妙に静かだと気づいた。ベッドに入ったまま重たい瞼をこすり、しばらくしてやっと思い出す。今日から夏休みが始まったのだ。  カーテンを開けると、太陽があっという間に室内を照らす。一人用のベッドと机、据え付けの古いクローゼットだけの小さな寮室だ。  廊下はがらんとして、立ち並ぶ部屋の扉はどれも閉まったままだった。共用の広い洗面所で顔を洗い、部屋に戻って身支度を済ませる。夏用の白いワイシャツに、グレーのプリーツスカート。紺の通学鞄を肩にかけ、誰もいない三階を出る。  潮が通う高校は、軽井沢のはずれにある中高一貫の女子校だ。自然豊かな環境を売りにするキリスト教系の私立校で、校舎はすべて有形文化財に指定されていた。寮もイギリスの寄宿舎をモデルに作られた洋館が二棟あり、高等部の寮生は『翠玉館』で暮らしている。基本的には近隣の生徒が通う学校だが、遠方から入学する生徒もいて、全校生徒の約六分の一が寮生だ。長期休暇は閉寮するので、学期末になると全員親元に帰される。潮が帰省せず残ったのは、美大受験の実技講習を受けるためだった。  階段を降りるたび、足元で木の軋む音が響く。校舎と比べると築年数は浅く、有形文化財の指定からは外れている。とはいえ、潮にしてみればどちらも大差なかった。中学までマンション暮らしだった潮にとって、翠玉館は現実味のない空間だった。  一階のエントランスに出ると、入口の扉は既に開いていた。上部にはめ込まれたステンドグラスが朝日を受け、エメラルドグリーンの光が揺れている。翠玉館という名に合わせて用意されたガラスなのだと、潮が初めて入寮した日に牧師が話していた。   「ねえ弓木さん、どんな感じなの? 夏休みの寮って」  東校舎の美術室で、石膏像のデッサンをしていた潮は、その問いに鉛筆を止めた。  実技講習は、美術部の同期三人も一緒に受けている。顧問が美術室からいなくなった隙に、皆鉛筆を置いて身を乗り出していた。通学生は、敷地の最奥にある翠玉館に足を踏み入れたことすらない。そんなに珍しいのだろうかと思いながら、潮は肩をすくめた。 「何も変わらないよ。静かだなと思ったくらいで」 「えー、そんなことないでしょ? あの早川玲も残ったのに。あとはほら、二年で学年一位の子。遠藤咲月だっけ?」  翠玉館には、潮の他に二人残っていた。演劇部を率いる早川玲と、一年後輩の遠藤咲月だ。玲は来月に控えた全国大会の稽古のため、咲月は吹奏楽部の強化練習のために帰省をやめたらしい。二人とも下の階に部屋があるので、あまり接点がなかった。玲は校内で会うと必ず声をかけてくるが、学年の違う咲月は食事時に見かける程度だ。咲月の成績が学年一位だという話も初耳だった。 「あの子、頭いいんだね。知らなかった」 「知らなかったの? 同じ翠玉生なのに」 「そこまで話さないから」  潮の答えに、三人は納得していない様子だった。通学生から見た寮生は、どうやらある種の連帯感があるように映るらしい。特に高等部の寮生は『翠玉生』と呼ばれ、より強い結びつきがあると思われている。高校から中途入学した潮にしてみれば、同じ翠玉生と言われたところで実感がなかった。 「早川玲とは話すんでしょ? いつも仲良さそうだよね」 「仲がいいというか……寮の同期だから」  玲は誰に対しても分け隔てなく、明るく社交的に接していた。翠玉生の間で受け継がれるしきたりや規則など、潮が慣れるまで色々と教えてくれたのは確かだ。玲としては、途中から一人で入ってきた異分子に親切にしたというだけだろう。潮も感謝はしているが、それ以上の感情はない。  思うような反応が得られなかったのか、美術部の同期たちは困惑したように顔を見合わせる。しかし、そのうちの一人がめげずに、再び口を開いた。 「でもさ、夏休みだから寮監の先生たちもいないし、実質三人暮らしじゃん。一緒にご飯とか作ったりしないの?」 「牧師さんがいるから。今朝も宣教師館で食べてきた」  普段開放されている食堂は、長期休暇なので閉まっている。なので、朝と夜は学校の敷地内に住む牧師と食べることになっていた。同期たちは「なーんだ」とがっかりした表情になる。潮は再び石膏像を見つめ、素っ気ない声で言った。 「もういい? この課題、今日中に終わらせたいの」  デッサンを再開した潮を前に、三人は渋々といった様子で席に戻る。潮はほとんど幽霊部員で、彼女たちと特に親しくはない。作品こそ顧問に見せていたが、部活の行事には一切参加していなかった。  石膏像の目元に影を入れながら、潮は小さく息をつく。廊下で玲から声をかけられるたびに、いつも周囲からの視線を感じていた。「早川玲と一夏を過ごす」という状況は、どうやら潮が思っていた以上に目立つらしい。学内の人気者は、一挙一動注目されて大変だ。  窓の外から、演劇部の発声練習が聞こえてくる。グラウンドに軽く視線を移すと、ショートヘアの髪を無造作に耳にかけ、半袖の黒い稽古着を着た玲がすぐ見つかった。部員がたくさんいる中で一際背が高く、すらっと伸びた手足は遠くから見てもよく映えている。中性的な顔立ちなので、男性役はいつも彼女が引き受けていた。 「そこ、もっと声出して! 遠くまで声が届くような意識で!」  蝉の鳴き声に混ざって、玲の溌剌とした声が響いてくる。夏の日差しが驚くほど似合う玲の姿に、潮は思わず目を細めた。    夜、潮が宣教師館に向かうと、既に咲月がテーブルの用意を済ませていた。 「ごめんね、遠藤さん。手伝えなくて」 「気にしないでください。たまたま練習が早く終わったので」  そう言って、咲月は控えめに微笑んだ。肩先で切り揃えられた柔らかい髪と、丸いたれ目が印象に残る優しい顔立ちだった。彼女の席には、いつも持っているクラリネットのケースが置いてあった。潮は昼に聞いた話を思い出し、言われてみれば優等生然とした後輩だと思った。  アンティーク調の長テーブルには、サラダと冷製ポタージュ、夏野菜のカレーが並んでいる。潮が宣教師館に入ったのは、この日が初めてだった。朝は慌ただしかったので落ち着いて見る暇もなかったが、大きな暖炉や古い振り子時計、長いレースのカーテンが馴染む、シックで上品な洋館だった。 「弓木さん、お帰りなさい」  ガラスの水差しを持った初老の男性が、キッチンからやって来る。宣教師館に住む牧師だ。普段は黒いガウン姿だが、校務が終わったからか、洗いざらしのリネンシャツにズボン姿だった。 「ただいま帰りました」  牧師が温和な笑みで頷いた時、入口の方から扉の開く音が聞こえてきた。 「すみません、遅くなりました!」 「お帰りなさい、早川さん。ちょうど支度ができたところですよ」  稽古着のまま帰ってきた玲は、テーブルを前に「わあっ」と声をあげた。 「とっても美味しそうですね! 私、ほんとにお腹すいちゃって」 「今日も一生懸命練習されていましたね。声がチャペルまで響いていましたよ」  玲が牧師の隣に座ったので、潮は咲月の隣に座った。食事が始まり、玲を中心に会話が広がっていった。 「今年の台本は思い切って、SF作品を選んだんです。新しい演目に挑戦してみたくて。大道具の準備も大変なので、時間がいくらあっても足りないんですよね」 「早川さんはどんな役を演じるんですか? いつも素敵な男性役をされていますが」 「実は、今回は女性役をやるんです! と言っても、男装の令嬢って設定なので、結局男役みたいなものなんですけど」  玲が現れた途端、場の空気が華やいだ。咲月が一人緊張していたのを見てとったのか、玲は咲月を自然な形で会話に巻き込んだ。吹奏楽部も秋に定期演奏会を控え、練習が大詰めらしい。咲月はクラリネットのパートリーダになってしまい、帰省する余裕がなくなったと話していた。 「それで、潮は?」  夏野菜のカレーを食べながら、その場の会話を他人事のように聞き流していた潮は、不意をつかれて顔を上げた。 「本格的に課題とか始まったの? 今日、ずっと美術室で描いてたんでしょ」  グラウンドから見えたよ、と言った玲は、屈託なく笑っている。 「そうだね、石膏像のデッサンしてた」 「ずっとデッサンが続く感じ?」 「基本的には。でも、それとは別に課題が出てて」  夏休みが終わるまでに、モチーフを決めて一作描くようにと顧問から言われていた。モチーフを選んだ意図や作品の説明も、合わせて提出することになっている。志望する学科に合った内容を、と指定されたが、潮にとっては難題だ。志望校はある程度絞っているものの、まだ明確に定まっていなかった。 「急ぐことはないですよ。弓木さんの夏休みは、まだ始まったばかりです。落ち着いて考えればいいと思いますよ」  潮は牧師に対して曖昧に頷き、手元に視線を落とす。夏野菜のカレーはほとんどなくなっていた。残りを食べてしまおうとスプーンを手に取った時、既に食べ終わっていた玲が口を開いた。 「夏休みの食事なんですけど、私、翠玉館で自炊してみたいと思ってるんです」  予期せぬ言葉に、潮は目を瞬かせた。隣の咲月に視線を向けると、彼女も驚いた表情で玲を見つめていた。 「翠玉館は自治寮の精神を掲げているのに、最近特に、学校のお世話になりすぎている気がするんです。昔の翠玉生は、一階の調理室で自炊していたって話を聞いたことがあって。食堂が閉まるって聞いた時、てっきり私たちもそうなるんだと思っていたんです。これも自立を学ぶいい機会だろうって」  首を傾げていた牧師は、玲の主張を聞いて次第に頷き始めている。どうやら、夏に翠玉館を開けることは滅多にないらしい。昔は帰省せずに残る学生も多かったが、ここ十数年の間は誰も希望しなかったので、閉寮する方針に変わったという。  潮と咲月が口を挟む隙もなく、玲と牧師の間で話し合いが進んでいく。潮たちに話が振られた頃には、もう同意以外の選択肢がなくなっていた。 「玲、どうしてあんなこと言い出したの?」  結局、礼拝がある日曜日の朝は宣教師館で食べるが、それ以外はすべて自炊することになった。翠玉館への帰り道、上機嫌に歩いていた玲は、軽い調子で言った。 「嫌だった? 潮って、料理嫌いなタイプだっけ」 「別に嫌いじゃないけど、作ってもらえるならその方が楽でしょ」 「だって、宣教師館だとみどりが一緒に食べられないじゃん」 「――」 「ね、帰ったら談話室でお茶会しようよ。ジュースとか色々買ってあるんだよね。みどりにも声かけてあるんだ。咲月も来るでしょ?」  はい、と咲月が微笑んだので、潮も断れなくなった。着替えてから談話室に集合することになり、一度部屋に戻った潮は、通学鞄を置いてため息をついた。 (みどり、ね……)  みどりは翠玉館の一階に住んでいる。一見、他の翠玉生と何も変わらない普通の高校生だが、彼女は翠玉生だけに共有された「秘密の友人」で、その存在は決して口外してはならないという掟があった。  みどりの姿は、翠玉生にしか見えない。  翠玉館に入寮した日の夜、潮は他の同期たちと談話室に呼び出され、先輩からみどりのことを紹介された。みどりは年をとることなく同じ姿のまま、古くから翠玉館に住み続けているらしい。中学から寮で暮らす同期たちには、「翠玉館には秘密がある」という噂が伝わっていたようで、やっと明かされた存在に目を輝かせていた。  なんの前置きもなくみどりと対面した潮は、高揚するその場の空気から一人取り残された。信じがたい話だったが、いると言うのだから仕方ない。みどりを囲んではしゃぐ翠玉生たちを遠巻きにしながら、きっと幽霊みたいな存在なのだろう、とぼんやり自分を納得させた。  みどりに対して疑問や戸惑いはあったものの、特に追及するつもりはなかった。そもそも、潮は誰とも関わりたくなかったので、最初から周囲と距離を置いていた。潮にとっては、みどりもその中の一人に過ぎなかったのだ。 「遅いよ潮、ジュースぬるくなっちゃうじゃん」  半袖のパーカーを着て談話室に向かうと、Tシャツと短パン姿の玲が三脚を立てていた。 「なにそれ、カメラ?」 「そ、一眼レフ。部室からちょっと拝借してきた」 「勝手にそんなことしていいの?」 「大丈夫だって、最近は使ってなさそうだったし……よし、できた」  玲はファインダーを覗き込み、満足げに録画ボタンを押した。  カメラの先には、缶ジュースやラムネソーダの瓶が並ぶ丸テーブルと、咲月とみどりが映っている。咲月はラベンダーカラーのワンピース姿だが、隣に座るみどりは夏用の制服姿のままだ。なだらかに波打つセミロングの髪に、くっきりとした黒い瞳。真っ直ぐ向けられた人懐っこい笑顔は、春の陽光のようにほがらかだった。 「ほら、潮も入って。四人で映らないと始まらないよ」  玲に無理やり背中を押され、潮はみどりの向かいに座る。手渡されたラムネソーダの瓶は青く透き通っていて、表面がひんやりと冷たかった。 「それじゃ、まずは乾杯しよ! 四人の夏休みに、かんぱーい!」  瓶を高く掲げた玲につられて、潮も瓶を持った手を上げる。それぞれの瓶が重なり、ガラスの軽やかな音が響き合った。  潮が談話室に入ったのは、翠玉館に入寮した日の夜以来だ。明るいパステルグリーンの壁に、丸テーブルと長椅子、今は使われていないアンティークのアップライトピアノが並んでいる。翠玉館の中で一番広い部屋なので、四人では空間を持て余していた。 「このソーダ見ると、今年も夏が来たって感じするよねー」 「購買ですか?」 「うん、休憩中にまとめ買いしてきた。昔から売ってるんだって。ね、みどり」  玲から話を振られたみどりは、嬉しそうに頷いている。玲と咲月、そしてみどりの三人でなんの違和感もなく会話が続いている。潮はそんな三人を横目に、ラムネソーダに口をつけた。すっきりとした甘さの後で炭酸が弾け、ピリッとした刺激が抜けていった。  ソーダ瓶の中では小さな泡が音を立て、次々と浮かんでは弾けていく。瓶はシンプルな形だったが、ビー玉が入っている部分は湾曲し、色の濃度が違って見えた。 「潮? どうしたの、さっきからじっと瓶見て」 「静物画の課題にいいかなって。なんか、珍しくて。外で見かけないじゃない?」 「そうかも、私も購買のイメージしかない。咲月は?」 「私もです。スーパーはほとんどペットボトルですよね」 「自分じゃ買わないから、ちょっと新鮮だった。美味しいね、これ」 「でしょう? 私の一押しなんだ」  玲は無邪気に笑うと、瓶をカメラに向けて軽く揺らした。中に入っているビー玉が、小さく涼しげな音を立てる。カメラを見た潮は、怪訝な顔で玲に尋ねた。 「ねえ、この動画いつまで回すの?」 「ずっとだよ。夏休みが終わるまで」 「えっ?」 「潮が来る前、咲月とみどりにも話してたんだ。いつも通り過ごすだけじゃ、絶対もったいないと思ってさ。せっかく翠玉館に残れたんだから、この四人だけで夏休みの思い出を作りたいんだよね。それに、私と潮はもう卒業じゃん? 翠玉館を出た後、あの頃楽しかったなーって見返せるものがあったらよくない?」  熱っぽく語る玲を前に、潮は戸惑った。ちらっと咲月を見ると、彼女は真剣な面持ちで頷いている。 「もちろん、無理にとは言わないけど。潮が嫌じゃなかったら、どうかな」  潮はあまり関わりたくなかったが、ここでわざわざ拒否するのも面倒だった。どうせ日中は学校に行くのだから、思い出作りと言うほどの時間はないだろう。動画を撮るだけなら好きにさせた方が楽だ、と軽い気持ちで頷いた。  ところが、潮が頷いた途端、玲は顔いっぱいに喜びをみなぎらせた。 「やった! ありがと潮! 実は私、この夏の計画をいろいろ考えてきたんだ。まず花火は絶対でしょ? 肝試しもやってみたいし、あとは夕飯の献立も気合い入れたいよね。裏の畑でトマト収穫したりとかさ。園芸部の先生にも相談してあってね、今年はスイカがよくできたから分けてくれるって。みんなでスイカ割りやったら楽しそうじゃない?」  潮がたじろいだ時には、もう手遅れだった。玲は、夏休みの計画を語りはじめた。咲月も楽しそうに話に参加していて、今更嫌だと言い出せるような空気ではなかった。  玲の声が右から左へと上滑りしていく中、潮はみどりの方に視線を向けた。みどりの笑顔は眩しいくらいに輝いて、彼女の座っている椅子だけに、まるで光が当たっているように映った。
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