一話 光の当たる椅子

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 2  開け放たれた美術室の窓から、清涼感のある風が吹き抜ける。窓際の席でデッサンに集中していた潮は、頬にあたる風に顔を上げた。気づけば日差しが和らいで、空には柔らかいキャンパスブルーが広がっていた。 「潮ー! 課題どんな感じー?」  はっとグラウンドを見ると、稽古着姿の玲が美術室を見上げていた。この後、二人でスーパーへ買い出しに行く約束があった。他の演劇部員たちからの視線が一斉に集まり、潮は慌てて声を上げた。 「あと少しで終わる!」 「わかったー! じゃあ、昇降口で待ってるねー」  大きく手を振った玲に、潮もためらいがちに手を振り返す。ため息をついて視線を戻すと、美術部の顧問や同期たちが物珍しげに潮を見つめていた。 「どれどれ? 確かに、おおむね描き終わっているね」  顧問は潮のデッサンを覗き込むと、腕を組んで首を傾げた。 「影が印象的な構図だね」 「……日中、すごく眩しかったので」  空になったソーダ瓶と、机に伸びる影の構図が描かれている。影が強すぎただろうかと思ったが、顧問は納得したように頷いた。 「早く行ってあげなさい。他の皆さんも、きりのいいところでおしまいにしよう」  顧問に促され、潮は後片付けもそこそこに美術室を出た。落ち着かない気分をごまかすように、廊下を歩く足が次第に早くなっていく。  夏休み初日の夜以降、玲は潮に対してすっかり遠慮がなくなった。潮が周囲に作っている壁など物ともせず、潮の日常に入ってくるようになった。それまでも玲のことを社交的だと思ってはいたが、手加減されていたのだと潮は初めて気づいた。 「潮、お疲れ」 「ごめん、お待たせ」  制服姿の玲が、もたれかかっていた下駄箱から身を起こす。たったそれだけの仕草が様になっていて、これは人の目を引くわけだと潮は感心する。二人で昇降口を出ると、吹奏楽部の合奏が聞こえてきた。西校舎の方角を眺め、玲はふっと笑った。 「今日は練習長いね、吹部」 「外部から先生が来るって、遠藤さん言ってたね」 「スパルタだって噂だよ。パートリーダーに指名されるなんてすごいな、咲月」  楽器に詳しくない潮は、どの音が何の楽器なのか一つもわからなかった。一糸乱れずまとまって続く旋律を聞きながら、咲月はどこにいるのだろうと思った。  学校から十五分ほど歩いた先にあるスーパーで、二人は夕飯の買い物を済ませた。その後、玲の希望でコンビニに寄って、手持ち花火を一通り買い込んだ。 「やったね、あるならコンビニだと思ったんだ」 「買い出しに行くって言い出したの、もしかして花火目当て?」 「それもあるけど、ちょっと外に出たくてさ。最近稽古ばっかりだから」  花火の入った袋を揺らしながら、玲は上機嫌に歩いている。そんなに気分転換できたのかと、潮は内心首を傾げた。学校の周辺には基本的に何もない。最寄り駅も徒歩では厳しい距離なので、どこかに遠出するのも難しかった。  学校の正門まで戻ってくる頃には、やっと日が陰り始めていた。守衛室に会釈して正門をくぐり、校舎に真っ直ぐ伸びる道を歩く。 「なんかさ、ここからが一番長く感じない? この学校広すぎるって」  青々とした葉が生い茂るけやき並木の先に、本校舎がコの字型に建っている。その裏手に東校舎と西校舎が向かい合って並び、木立を抜けて宣教師館とチャペル、さらに敷地の最奥まで進んでようやく寮に辿り着く。 「玲もそう思うんだ、意外」 「意外?」 「だって、中学からずっと住んでるから。もう慣れてるのかと思って」  けやき並木を過ぎると、途端に夕日が眩しくなった。一面に広がる夕焼けを背に、本校舎には影が落ちている。日中は華やかな桜色の壁も、今は色が目立たなくなっていた。 「正門なんて、帰省の時しか通らないよ。普段は門限で外出られないし」 「そっか。週末もずっと部活だしね」 「潮は普段どうしてた? 放課後とか」 「別に……図書室で勉強するか、美術の課題描くかって感じ」  学校の敷地は、高い塀と木々に取り囲まれている。学生は裏口が使えないので、基本的に正門まで行かなければならない。そこまでして外に出ようとも思わなかった。  翠玉館に戻ると、咲月も部活から帰っていた。制服のまま三人で調理室に入り、夕飯の用意に取り掛かった。買い出しもあったので簡単に済ませようと、茄子とトマトのパスタにスープを添えた。 「前から思ってたけど、潮って料理上手だよね」  談話室で夕飯を終えた頃、玲がしみじみと言った。 「無駄がないっていうか、今日も手早かったじゃん。作り慣れてる人の動きしてた」 「大袈裟じゃない? 難しいもの作ってないよ」 「そんなことないです。弓木先輩がいなかったら、もっと時間かかってました」  珍しく断言した咲月に、玲が「そうそう」と頷いている。潮は視線を落とし、少し考え込んだ。 「実家でご飯作ってた時期があって。そのせいかも」 「へえ、偉いね。中学の時?」 「小四とかだった気がする。父親と二人暮らしだったんだけど、仕事で夜遅かったんだよね。でも、再婚して義母がやってくれたから」  実の母親は物心つく前に亡くなったので、潮には何一つ記憶がない。しばらくは父方の祖母が面倒を見てくれたが、高齢で長くは続かず、結局潮が台所に立つようになった。 「じゃあ、今は三人家族ってこと?」 「弟がいるよ。まだ保育園児だけど……」  ついぽろっとこぼした潮は、二人が息を呑んだことに気づいてしまった。隠すつもりはなかったが、かといって話すようなことでもなかった。場の空気を取りつくろえないまま不自然な沈黙が続き、うかつな返事を後悔し始めた時、玲が唐突に言った。 「ね、今から花火やらない? せっかく買ってきたんだしさ」    翠玉館の前に三脚が立てられ、一眼レフの赤いランプが点いている。  長いススキ花火の先から、鮮やかな炎と煙がザーッと流れ出す。色が変わるタイプだったようで、オレンジ、パープル、ピンクと瞬く間に移り変わっていった。 「すごーい! ほんとに色変わるんだ!」 「きれいですねー!」  花火の音があるせいか、玲と咲月のはしゃぐ声が大きかった。二人のすぐそばで、みどりも花火に目を輝かせていた。  翠玉館の前には舗装された広場がある。普段はここで点呼が行われ、朝の体操や奉仕活動の準備をしているが、まさか花火をやる日が来るとは思いもしなかった。潮は燃え尽きたススキ花火をバケツに入れると、手近にあったスパーク花火を取り出し、蝋燭から火をつけた。  パチパチと弾けるような音が響き、火花があたりに飛び散った。ススキ花火と違って煙が出なかったので、純粋に花火だけがよく見えた。四方八方へ広がっていく、結晶にも似た眩しい光を眺めながら、潮は一人ため息をついた。  玲は、花火をいつやる予定だったのだろう。潮は、週末まで取っておくつもりなのかと思っていた。余計な気をつかわせたのかも、と思った矢先、玲の無邪気な歓声が聞こえてきた。あの様子では、はじめから今日やるつもりだったのかもしれない。 (……どっちでもいいか、別に)  ススキ花火とスパーク花火をやり尽くし、あとは線香花火の袋だけとなった。四人で蝋燭のそばに集まり、しゃがみ込んで火をつける。  細長い柄の先に小さな火球が生まれ、しばらくして火花が散り始めた。先にスパーク花火を見たせいか、線香花火は妙にか細く映った。勢いは少しずつ萎んでいき、花弁に似た火花が散った後にぷつりと燃え落ちる。 「儚いですね、線香花火って」 「わかる、ついじっと見ちゃうよね」  咲月と玲が頷き合いながら、線香花火に再び火をつける。潮も新しい線香花火に手を伸ばし、思い出したように言った。 「名前があるんだって、燃え方に」 「そうなの?」 「うん。つぼみから始まって、牡丹、松葉とよく燃えて……衰えてくると柳、最後は散り菊。花弁が消えたら火も落ちる」  潮の言葉通りに移り変わった線香花火を見て、玲は「本当だ」と声を上げた。 「そういうのって、絵を描いてると詳しくなるの?」 「私も、これは義母の受け売りで……」  はっとした時にはもう遅かった。どうして今日は、こんなに余計なことばかり話してしまうのだろう。花火で間を持たせようにも、火がついているのは、後からつけた潮の線香花火だけだった。 「潮が寮に入ったのって、もしかしてそれが理由?」  玲の「それ」が何を指しているかは明白だった。潮はその場で黙り込んだが、少し経ってから口を開いた。 「まあ、私だけ余ってたしね」  どう答えるべきか悩んだ割には、歯切れの悪い返答になった。潮の線香花火もちょうど燃え尽き、ぷつりと地面に落ちる。  それまで気にならなかったのに、潮はふいに、夜が深くなっていることに気づいた。蝋燭もすっかり短くなって、小さな火が夜風に吹かれて揺れている。頬に触れる空気の冷たさに身じろいだ時、咲月が呟いた。 「私もです」  え、と潮が顔を上げると、咲月は潮をじっと見つめていた。 「私、実は双子なんです。一卵性の妹がいて」 「そうだったの? 咲月の家の話って、そういえば聞いたことなかったね」 「話すきっかけがなくて、誰にも言ってなかったんです」  咲月は玲に苦笑し、線香花火に火をつけた。先がジジ……と燃え、火のつぼみが徐々にふくらんでいく。 「私と妹、外見は本当に似てるみたいなんです。家族にしか見分けられない、ってよく言われてて。私も瓜二つだなって思うんですけど」 「性格は違うの?」 「妹は、明るくて優しいですね。皆から慕われてて、何でもよくできます。頭も良くて、可愛くて、ピアノも上手で……」 「咲月だって同じじゃん。学年一位で、クラリネットでパートリーダーになって」  玲は線香花火を二つ取り出し、そのうちの一つを潮に渡す。玲から線香花火を受け取った潮は、咲月の物憂げな表情が気になって、つけるタイミングを逃してしまった。  そういえば咲月も、潮と同じく高校からの中途入学組だった。咲月たちの学年が翠玉館に入ってきた時は少し気にしていたが、咲月は違和感なく周囲と馴染んでいたので、潮はそれ以上興味を示さなかった。 「妹の方がよくできるんですよ。いつも、私よりも」  咲月の線香花火が震え、つぼみから火花が散り始めた。パチパチと音を立てる線香花火を見つめたまま、咲月は淡々と話す。 「たとえば、私がテストで九十点を取ると、妹は九十一点を取ってくるんです。私の絵が銀賞に選ばれた時も、妹の絵は金賞でした。運動会の徒競走は、タッチの差で妹がゴールテープを切って……ピアノの発表会は、妹の出番は必ず私の後です。親からよく言われました。咲月は、いつもちょっと惜しいんだって」 「それが嫌だったの?」 「妹が気にしちゃって。いつも自分ばかりで、私に申し訳ないって」  短くなった蝋燭は、今にも消えそうになっている。潮は線香花火をかざし、静かに火を取った。夜風のせいなのか、それとも持ち手が甘いのか、潮の線香花火はゆらゆらと頼りなく揺れている。小さなつぼみに視線を落とし、潮は息をついた。 「優しいね、遠藤さんは」 「優しい、ですか?」 「だって、妹さんのために家を出たんでしょう? 簡単にできることじゃないと思う」  潮は咲月に感心していた。誰かのためになんて、潮はとても思えなかった。咲月と違って、潮は自分のために逃げ出したのだ。 (咲月みたいに思えたら、もっと人生違ったかな)  潮の火花が咲き始めた時、蝋燭がふっと消えてしまった。顔を上げると、咲月がまだついていない線香花火を持ったまま困惑していた。 「いいよ、取って」  潮は咲月のほうに、自分の線香花火を差し出した。咲月がおずおずと線香花火を近づけると、潮の火球がわずかに震え、静かに火が燃え移る。 「だから似てるのかな、潮と咲月って」 「――似てる?」 「なんとなく、雰囲気が近い感じがしてさ。気が合いそうだなって思ってたんだよね」  咲月の線香花火に、玲が「私も」と線香花火をかざす。玲の線香花火につぼみがつく頃には、潮の線香花火が終わりに近づいていた。菊の花弁に似た火花が、はらはらと流れるように落ちていく。  いつか自分も咲月のように、誰かのためにと思える日が来るだろうか。この夏を四人で過ごせば、今まで何一つ変われなかった自分が、少しはまともな人間になるのだろうか。  潮の線香花火が消えると、玲が新しい線香花火を手に取った。パチパチと鮮やかに燃える自らの火球から火を取り、つぼみが生まれた線香花火を潮に差し出してくる。 「ほら、潮」 「……ありがとう、玲」  玲から受け取った線香花火は、しばらくして力強く燃え始めた。赤く燃える火花は、まるで牡丹のように色鮮やかだった。  暗闇に目が慣れたのか、線香花火の光がくっきり映るようになった。誰かのつぼみが鮮やかに咲いて、散るより先に新たなつぼみに火を渡す。そうして、線香花火を続けていくうちに、潮は予感めいたものを覚えた。  きっと、この夜のことを思い出す日が訪れる。――その時、自分はどんな人間になっているのだろう。
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