一話 光の当たる椅子

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 3  花火の夜を境に、潮の中にあったある種の頑なさが、少しずつ薄れていった。  玲の立てた夏休みの計画は、ほとんど実行された。野菜の収穫やスイカ割り、手の込んだ夕食。流星群の夜には空を見上げ、何もない日も談話室に集まって、部活や進路のことを話した。  玲に振り回されている、という感覚が消えたわけではなかったが、潮は不思議と嫌な感じがしない自分に気づいた。目まぐるしく日々が過ぎていく中で、次は何が起こるのだろうと、心のどこかで期待している節さえあった。 「夜の学校って、思った以上に怖いですね……」  隣を歩く咲月は、怯えた様子で廊下を見回している。普段なら気にならない足元の軋みも、夜にたった二人となると妙に響く。  そういえば、肝試しも夏休みの計画に入っていた。夏休みも終わりが見えてきて、肝試しのことをすっかり忘れていた潮は、突然の提案に驚いていた。 「講堂で集合だよね、さっさと行けばいいよ」 「先輩、幽霊とか怖くないんですか……?」 「見たことないから。虫だって、森に紛れている間は怖くないでしょう」  玲はみどりと、潮は咲月とペアになって、それぞれ違うルートで本校舎の講堂を目指していた。勝敗も競っていて、先に着いた方が勝ち、負けた方が風呂掃除をする約束だ。  ゴールとして設定された講堂は、本校舎で最も広い部屋で、学年集会や説明会で使われている。体育館ができる前は、入学式や卒業式も行われていたらしい。  スマートフォンのライトだけがあたりを照らしている。東校舎も古いと思っていたが、本校舎は別格だった。廊下に並ぶ小さなフラワーシャンデリア、今は使われていない蒸気式ラジエーター、コリント式の白い柱頭飾り。木の階段は途中から二手に分かれていて、支柱に支えられた手すりが美しい曲線を描いていた。  左の階段が西棟の二階、右の階段が講堂に繋がっている。二階を一周して戻って来なければならないので、二人は左の階段をのぼって行った。途中で設けられた踊り場には大きな窓があり、半月が輝いていた。上弦と下弦、どちらの月だろうかと見上げる潮に、咲月が呟いた。 「上弦の月ですね」 「そうなんだ。どっちかなと思ってた」 「上弦は西側が光っていて、下弦は東側が」  詳しいね、と返したきり、潮は何も言えなかった。玲がいなければ、満足に会話も続けられない。玲ならどうするだろうと思った時、咲月が息をついた。 「小学生の時、授業であったんです。名前の由来を調べて親に聞いてみようって。それで妹と月について調べました」 「妹さんも、名前に月が?」 「美しい月で、美月です。私たちが生まれた後、病室から見た月が美しかったからって、母が言ってました」  いい名前だね、と出かかった言葉を潮は飲み込んだ。窓の外を見上げる咲月が、明らかに浮かない表情だったからだ。 「私は五月生まれだからです。漢字だけ変えて咲月。美月と揃うように決めたって」 「どうして、妹さんの名前が先についたの?」 「母も覚えてないみたいで。母の隣にいたとか、多分そんな理由だって話でしたけど」  咲月は窓から目を逸らし、足早に階段をのぼっていく。  大きく軋む音を聞きながら、潮は咲月の後を追いかけた。妹のためにと思えた咲月を潮は羨んだが、事はそう単純ではなかった。咲月にしてみれば、家を出るなら自分の方としか思えなかったのだ。  二階の廊下を往復する間、咲月は何も言わなかった。潮も、咲月にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。何か慰めになるようなことを言えばいいのか、それともあえて関係のない話をするべきなのか。  夏休みを一緒に過ごさなければ、どうでもいいと聞き流していただろう。周囲に高い壁を作り、自分の殻にひたすら閉じこもってきた潮は、そのことを初めて後悔した。玲がいなければ、場の空気を変えることはおろか、保たせることすらできない。この夏、一見うまく行っているように思えたすべての場面は、結局玲がいなければ成り立たなかった。もし、ここにいるのが玲だったら、咲月にどんな言葉をかけるのだろう―― 「咲月」  思わずこぼれた名前に、潮ははっと我に返る。顔を上げると、咲月が目を見開いて潮を見つめていた。 「私は、夏休みを一緒に過ごしたのが咲月でよかったと思う」  玲ならきっとこんなことは言わないが、今咲月の前にいるのは潮だ。いつも自信がなさそうに俯いていた咲月と、潮はこの時初めて正面から目があった。だから、ここで目を逸らしてはいけないと、それだけは強く思った。 「咲月じゃなかったら、きっと違う夏になった」  こんな当たり前のことしか言えないのか、と嫌になった時、階段の方から玲の声が聞こえてきた。みどりと講堂に着いたのか、楽しそうにはしゃいでいる。後ろを振り返った咲月は、再び潮に視線を戻し、困ったように笑った。 「負けちゃいましたね」 「……やっぱり、玲には敵わないな」  潮も肩をすくめ、咲月に笑い返した。二人が講堂に向かうと、玲が舞台に座って待ち構えていた。 「遅いぞ、二人とも! 今週の風呂掃除は決まりだね」  舞台の端にあるグランドピアノは蓋が閉まっていて、その上にカメラが置いてあった。真っ暗な校舎を歩いていたせいか、舞台の照明しかついていないのに、講堂はやけに明るく見えた。木目が刻まれた柱に、えんじ色のカーテン。机がない広々とした空間で、みどりが嬉しそうに歩き回っている。  さっきまで張り詰めていた空気が嘘のように、咲月は柔らかい表情で玲と話している。玲がいてくれて助かったと思いながら、潮はふと、壁に飾られた大きな絵に目を留めた。  金の額縁に入った、海の絵だった。セルリアンブルーを基調に、翡翠色や水色など数色が重なり合っている。水面で揺れる小さな波が目立つ一方、空との境目は曖昧で、全体的に霞がかったような色合いだった。 「綺麗だよね、その絵。どこの海かわかんないけど」  玲はそう言って舞台から降り、潮に近づいていく。 「なんで海の絵なんだろうね。このあたり、山とか湖しかないのに」 「玲も知らないの?」 「先生に聞いたりしたけど、誰も知らなかったんだよ。作者もわからないし。昔の学生が描いたんじゃないかって話だけど」  後からやってきた咲月も絵を見上げ、しばらくして呟いた。 「描いた方、海に行きたかったんでしょうか」 「かもね。代わり映えしない景色に飽きたとか? だったら気持ちわかるなー。せっかく夏休みなのに、ここには海がないんだから。近くにあったら絶対行ったのに」  咲月と玲は、過去訪れたことがある海について話が盛り上がっていた。みどりも絵に興味を持ったのか、すぐそばまで来て絵を覗き込んでいる。卒業したら行ってみたい海の名前がひとしきり挙がった後、玲が潮に話を振った。 「潮は? 好きな海とかある?」 「わからない。行ったことないんだよね」 「一度も? 潮って名前だから、海の近くに住んでたのかと思ってた」 「母親の出身はそうみたいだけど、どこだったのかちゃんと聞いてなくて……」  絵を覗き込んでいたみどりは、いつの間にか玲たちを見つめている。陽だまりのようにあたたかい笑顔は何かを言いたげで、その横顔を潮はどこかで見たことがある気がした。    通学生の夏休みは八月三十一日までだが、寮生は実質三十日で終わる。三十一日には学校に戻ってきて、新しい部屋割り発表や荷解き、終わっていない夏休みの宿題などを済ませなければならない。  三十日は、潮たちも慌ただしかった。いつも通り学校に行った後、宣教師館で牧師と夕飯を食べ、帰ってきて翠玉館の掃除に取り掛かった。明日には寮監の教師たちが戻ってくる。調理室や談話室だけでなく、独占していた洗面所も片付けなければならず、これがそれなりに手間だった。 「潮、三階の掃除終わったー?」 「どうしたの、その荷物」  二階からあがってきた玲は、三脚とカメラを抱えていた。 「今から講堂で上映会するよ。咲月とみどりにも声かけたから」  本校舎の講堂に行くと、舞台の前にタブレットとプロジェクターが準備されていた。既にテストも済んでいて、壁一面に直接ブルーの画面が投影されている。講堂の照明がついていないせいで、舞台全体が青白く光っている。  どの教室から持ってきたのか、プロジェクターのすぐ後ろに、古びた木の椅子が四つ横並びで置いてあった。玲が三脚にカメラをセットしながら「好きな席に座って」と言ったので、咲月が右端に、潮がその隣に座った。 「皆、準備いい? 始めるよ」  左端に玲、その隣にみどりが座る。三人を覗き込んだ玲は、タブレットに触れて上映を始めた。最初に映ったのは、談話室に集まった夏休み初日の夜だ。次に色鮮やかな花火が映り、調理室で夕飯を作る後ろ姿や週末のスイカ割り、玲の部屋に集まって宿題を終わらせる様子など、翠玉館で過ごした日々が流れていく。  舞台に映し出された自分の姿を見ながら、潮は現実感のなさに驚いていた。夏休みが始まるまで、こんな時間を過ごすなんて想像もしてみなかった。白く輝く眩しい光の中に、自分が存在していることが信じられなかった。 「あっという間でしたね、夏休み」 「まだ終わらないよ。夜が明けるまでは、夏休みだから」  夏休みの映像が最後まで流れた後、少し経って再び最初から始まった。リピート再生を止めることなく、玲は悪戯っぽく笑った。 「ね、夜って言ったら、やっぱり内緒話じゃん。今から一人ずつ、誰にも言ったことがない秘密を話してみない?」  録画切ってくるね、と玲は席を立った。潮は何も言えないまま、舞台で繰り返される夏休みを強張った表情で見つめていた。 (どうしてこんな、急に)  玲の提案はあまりに唐突で、潮は困惑した。だがしばらくして、玲はいつもそうだったと思い直す。潮にとって、この夏はすべてが突然だった。  それに、玲はすべて見透かしていたのかもしれない。誰にも見つからないように、潮が奥底に隠してきた歪みの存在を。潮が周囲から人を遠ざけていたのは、自分の異質さに気づかれるのが怖くてたまらなかったからだ。そんな潮のことを、玲は最初からわかっていたのかもしれない。  玲が戻ってきて、隣の咲月が語り出す。本当はずっとピアノが弾きたかったと、意を決したように舞台に上がり、グランドピアノの蓋を開けた。咲月は椅子に浅く腰掛け、ポーンと最初の音を鳴らす。か細かった音は、曲が進むにつれて少しずつはっきりして、鍵盤に向かう咲月の背も次第に真っ直ぐ伸びていく。  舞台に映る夏休みがどこか作り物めいて見えるのは、結局自分が少しも変わっていないからだ。今を逃したら、打ち明ける機会はきっと二度と訪れない。こんな自分を閉じ込めたまま、この先も生きていくなんて、はたして本当に耐えられるのだろうか?  最後までピアノを弾き終えた咲月が戻ってくる。舞台には再び花火の夜が映る。暗闇で弾ける火花はどれも鮮烈で、あたりを強く照らしては燃え尽きる。その光があまりに眩しくて、潮は思わず瞼を閉じる。 「……寮に入った理由を聞かれた時、私は嘘をついた」  花火の音がバチバチと響いている。瞼の裏で光の残像が揺れ動く。それはどこまでも追いかけてきて、自分の奥底でくすぶっている感情が引きずり出されるようだった。 「私は義母が――彼女が好きだった。弟が生まれると聞いた時、父に対して強い怒りと嫌悪感が湧いた。だからもう、あの家にはいられなかった」  潮、と呼ぶ柔らかな声を思い出す。ある日、潮の前に突然現れた彼女は、それ以来ずっと潮の日常を陽だまりのように照らしていた。 〈私のこと、お母さんって呼ばなくていいよ。お姉さんって言うには、ちょっと年がいき過ぎてるけど〉  彼女の波打つ髪は、綺麗な焦茶色をしていた。日に当たると光が透けて、明るいブラウン色に輝くのだ。特に染めたわけでもなく素の色だと聞いて、羨ましく思ったことをよく覚えている。潮の髪質とはまったく違う、軽やかで柔らかな髪だった。  彼女はとても聡明で、色々な名前を教えてくれる人だった。線香花火の移り変わり、雨の種類、空の色や植物の見分け方。彼女が現れてから潮の世界は鮮明になり、いつも眩しい光で満ちていた。彼女に教えてもらった景色をすべて覚えていたくて、潮は自然と絵を描くようになった。忘れてしまうことが、惜しくてたまらなかった。 「彼女に対する気持ちは、娘が母親に向ける普通の感情だと思っていて……でも、弟が生まれてからごまかせなくなった。それに、私はずっと前からわかっていた。この感情は普通じゃないって」  潮に対して、彼女は母親然としなかった。母と呼ばなくていいという前提が共有されている間は、潮も上手にごまかせていた。自分たちは血の繋がりがないだけで、それ以外は普通の親子だ。彼女を家に連れてきてくれた父には感謝しなければならない。潮は自分にそう言い聞かせながら、彼女との陽だまりのような時間を享受していた。  だが、弟が生まれてから、潮は否が応でも気づかされた。彼女が潮に注ぐ愛情は、弟に注がれるものとまったく同じだった。そして、それまで見ないふりをしていた彼女と父の関係性から、目を背けることができなくなった。潮が彼女から欲しかったのは、家族としての慈愛でなく、彼女が父に対して向けるあの眼差しだったのだ。  瞼を開くと、舞台には青い海の絵が映っていた。絵を見上げる潮のそばに、玲たちが近づいていく。海の話をしながら自然と集まる後ろ姿は、仲のいい友人同士のようで、絵に描いたような青春の光景だった。 「歪んでるよね、こんなの」  夏休みの映像を見つめたまま、潮は自嘲する。舞台に映る自分の姿は嘘みたいに綺麗なのに、実態はまるでかけ離れている。何重にも取り繕っていた鎧はあまりに脆くて、その中にいる自分は背中を丸めてうずくまるのがやっとだった。  ギィ、と椅子の軋む音が聞こえ、潮は舞台から視線を外す。隣を見ると、玲が真剣な眼差しで潮を見つめていた。 「そんなことないよ」 「――」 「そんなことない。潮は歪んでなんかない。みどりと咲月だってそう思うでしょ?」  振り返ると、咲月も黙って頷いている。潮は、軽蔑されこそすれ、受け入れられるとは思ってもみなかった。 「潮の気持ち、わかる気がするよ。年上のお姉さんって、それだけで憧れるっていうか。中学生の時、高等部の先輩たちがすごく大人に見えたんだよね」  玲は、いつもと同じ明るい笑顔でそう言った。想像もしなかった反応に潮は戸惑い、玲に何を言えばいいのかわからなかった。玲は困惑する潮を気遣ってか、何気ない調子で会話を続けていた。彼女から一体どんな名前を教わったのか、その中で印象に残っているものはあるのかと。 「……潮騒、かな」 「しおさい?」 「うん。潮が満ちる時に、波が立てる音。私の名前が入っているから、って」  潮は、玲越しに見える海の絵に視線を向ける。  弟が生まれる前、海に行ったことがないという潮に、彼女は「いつか一緒に行こう」と言った。普段なら迷いなく頷くのに、潮は曖昧な反応でごまかした。彼女が教えてくれた潮騒を聞いてみたい。そう思う一方で、実の母親の存在を意識してしまうのではないかと恐れていた。彼女は母親だと自分に言い聞かせていた潮にとって、海はパンドラの箱そのものだった。 「いつか皆で行こうよ、海」  はっと潮が我に返ると、玲は潮を真っ直ぐ見据えていた。 「肝試しの時、ここで話したでしょ? 卒業したら海行きたいねって。咲月とみどりも一緒にさ、皆で行けば絶対楽しいよ。ね?」  どこの海がいいかな、と玲は候補を挙げていく。沖縄、江ノ島、瀬戸内、いっそハワイかグアムかと、楽しそうに話している。張り詰めていた場の空気は、玲の軽やかな声とともに、次第に和らいでいった。玲があえて話を変えたことは潮にもわかったが、きっと玲の優しさだったのだろうと思った。  舞台で繰り返される夏休みは、再び最初の夜から始まった。談話室に皆で集まって、玲が夏休みの計画を語り出す。みどりが座る椅子に向かって身を乗り出す玲の姿は、卒業した後の話をする今の玲とまったく同じで、潮は思わず目を細めた。まるで、夏の光に照らされているような眩しさだった。    次の日、潮は美術室でキャンパスに向かい、課題を仕上げて顧問に提出した。  潮が描いたのは、一脚の椅子だった。背景はパステルグリーンで、アンティーク調の長椅子に窓から光が差し込んでいる。椅子の上にはソーダ瓶が置かれ、光を受けてエメラルドグリーンに輝いていた。 「このソーダ瓶は、中身が入っているようだね。デッサンの時は空だったが」 「表面を伝う水滴や、ソーダ水の炭酸を描きたいと思ったんです。今ここに存在しているものとして、椅子の空間を表現したくて」 「椅子を選んだのは、何か理由が?」  潮は相変わらず、行き場のない感情を一人抱えたままだ。少しもまともな人間にはなれず、玲を眩しく見つめるばかりだった。――潮がそういう人間だということを、夏休みを一緒に過ごした玲たちは知っている。 「椅子を置くことは、そこに座る誰かを認めることだと思ったんです」  潮は最後まで、玲たちを理解することができなかった。それは玲たちも同じだろう。幾度となく会話を交わしたが、潮は自分のことを理解されたとは思っていない。  それでも夏休みの間、潮の椅子は常に用意されていた。椅子があるということ自体、椅子に座る誰かの存在を認めているということだ。たとえわかり合えなかったとしても、それが潮にとっては救いだった。 「だから、大学で椅子を作りたいと思って」  玲が潮を受け入れたように、潮も、誰かを受け入れられる人間になりたいと思った。美大に行って何を形にしたいのか、玲たちと過ごした夏休みを経て、やっと道筋を見つけられた気がした。  この選択が本当に正しいのか、今の潮にはわからない。間違っていたと思う日が来るのかもしれない。だが、潮にとって何よりも必要なのは、その答え合わせをするためにここから踏み出すことだった。
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