二話 星々の音色

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二話 星々の音色

 1 「咲月、夏休みはずっと寮にいるってほんと?」  夏休み初日、咲月は朝から吹奏楽部の練習に出ていたが、休憩になった途端同期たちに囲まれて困惑した。 「そんな大事な話、なんで早く教えてくれなかったの?」 「強化練習には全部出るって言ったよ。帰省したら学校通えないよ」 「そうじゃなくて! この学校の二大美人、早川先輩と弓木先輩と、咲月の三人だけって話! 一度は想像する憧れのシチュエーションじゃん!」  同期たちは皆一様に頷き、咲月たちの話に聞き耳を立てていた後輩たちも、羨ましそうに咲月を見つめている。 「咲月だって、絶対考えたことあるでしょ? 寮で毎日会ってるんだから」 「綺麗な先輩だとは思うけど」  玲はファンクラブが結成されるほど絶大な人気で、講堂で行われる演劇部の学内公演はチケット制が導入された。抽選結果が出るたびに校内は大騒ぎになり、席を巡って熾烈な争いになっている。対する潮は、美術コースの期待の新星として注目され、校内に時折飾られる絵は必ず話題を呼んでいた。潮自身があまりに美人なので、誰もが遠巻きに彼女を眺めていたが、その近寄りがたさも含めて支持を集めていた。  また、この二人が揃うとそれだけで絵になるのだ。中性的な魅力がある高身長の玲と、透き通るような儚さをまとう潮。誰も割って入れない二人の世界は、学校中の誰もが羨む高嶺の存在だった。 「三人だけって言っても、先輩たちも忙しいから。普段通り、食事の時に会うだけだよ」 「なによそれ、もったいない! 二人と親しくなりたいとか思わないの?」 「抜け駆けだって、皆に恨まれても嫌だし……」  咲月の返事に、同期たちは「それもそうか」と納得したようだった。咲月はほっと胸をなでおろしつつ、内心ため息をつく。  吹奏楽部の強化練習に出たい、という理由は建前で、本当は家に帰りたくなかっただけだ。今年の夏休みは、双子の妹の美月が出るピアノのコンクールがある。音大進学を見据えて、美月も練習に集中しなければならないし、両親も彼女のサポートで忙しい。普段はいない人間が帰ることで、煩わしい思いをさせたくなかった。  玲と潮も残ると知った時は驚いたが、玲は演劇部の全国大会、潮は美大受験の講習があると聞いて納得した。学期中と同じく、個人的に二人と接する機会はないだろう。だから咲月は何も言わなかったのだが、周囲からそうは見えなかったらしい。  高校から入った中途入学生は、それでなくとも目立ってしまうのだ。波風を立てないように、いつも通り大人しくしていようと思った。    部活が終わる頃には、空は薄暗くなり始めていた。宣教師館の扉を開けると、いい香りが漂ってきた。 「遠藤さん、お帰りなさい」 「ただいま帰りました、植野さん」  キッチンから出てきた牧師の植野に、咲月は微笑んだ。植野はオルガニストとしての顔もあり、咲月はチャペルで聴く彼のオルガンが好きだった。礼拝の作法や聖書については正直よくわからないが、オルガンの演奏を聴くために礼拝を覗くことがあり、植野とも親しかった。父親よりもさらに上の世代だからか、祖父に近しい安心感があった。 「手伝います、何すればいいですか?」 「では、テーブルの用意をお願いします」  荷物を置いて手を洗い、キッチンとダイニングを往復する。カトラリーは銀色に輝き、ガラスボウルに入ったサニーレタスのサラダは瑞々しかった。冷製ポタージュと夏野菜のカレーを並べ、テーブルの用意が済んだ頃、扉の開く音がした。 「ごめんね、遠藤さん。手伝えなくて」  入ってきたのは潮だった。陶器のように白い肌、色素の薄い瞳、長いまつ毛、艶やかな黒髪。潮を構成するすべてが完璧に整っていて、間近で見た咲月は息を呑んだ。  一緒に住んでいるとはいえ、別の階なので滅多に会うことはない。時折見かけることはあっても、遠くから眺める程度で、一対一で話したこともなかった。潮から面と向かって呼びかけられたのも、これが初めてだった。 「気にしないでください。たまたま、練習が早く終わったので」  咲月は、そう返事をするのがやっとだった。同期たちがざわつくのも当然だったと、今更になって実感する。それからほとんど間をおかずに、また扉の開く音がした。 「すみません、遅くなりました!」  急いで帰ってきたのか、玲は黒い稽古着のままだった。飾り気が何もないのに、玲はスポットライトを浴びているかのように輝いていた。すらっと高い身長に長い手足、大きなアーモンドアイは意志に満ちていて、見つめられたら引き込まれるような魅力があった。 「お帰りなさい、早川さん。ちょうど支度ができたところですよ」 「とっても美味しそうですね! 私、ほんとにお腹すいちゃって」  玲が植野の隣に座ってしまったので、咲月は植野の向かいの席を取った。隣に潮が座る気配がしたが、咲月は緊張して顔をろくに上げられなかった。  食前の祈りが終わり、夕食が始まった。玲と植野が楽しそうに会話する中、咲月は夏野菜のカレーを食べながら、大変なことになったかもしれない、と思った。さっきから全然味がしないのだ。普段と何も変わらないと軽く考えていたが、それは大きな間違いだったと認識の甘さを後悔した。 「咲月は? 吹奏楽部はどんな感じ?」  はっと顔を上げると、玲が人懐っこい笑みで咲月を見つめていた。 「今年の夏は、気合入ってるって聞いたよ」  これはだめだ、と咲月は白旗をあげる。どうして玲のファンクラブに入っていなかったのだろう。今すぐ会員になって、チケット争いに自分も参加しなければと思うほど、正面から見る玲は凛として美しかった。 「あ、秋に定期演奏会があって……」  返事をしようにも、うまく言葉が出てこない。鼓動が明らかに速くなり、咲月が半ばパニックになっていると、植野が穏やかに言った。 「今年は創立六十周年なんですよ、吹奏楽部は」 「六十周年? 歴史が長いんですね」 「前任の牧師から聞いた話ですが、創立当時から熱心に練習されていたようですよ。アンサンブルコンテストの優勝常連校だったとか」  植野の低く穏やかな声を聞いているうちに、咲月は少しずつ落ち着いてきた。植野の助け舟に感謝しつつ、咲月はどうにか口を開く。 「今年は記念の年なので、定期演奏会に照準を合わせているんです。外部から特別に先生も呼んでて、それで、クラリネットのパートリーダーに指名されて……」 「パートリーダーって、具体的に何をするの?」 「先生からの指示を、他のクラリネットの子たちに共有したりとか……あとはパート分けとか、練習の仕切りなどをやってます。だから、今年は帰省する余裕がなくて」 「なるほどね、本当にリーダーなんだ。格好いいな」  誰よりも格好いい人から褒められて、動揺のあまり再び俯いてしまった。こんな会話をしたことが他の部員に知られたら、きっとただでは済まないだろう。  話題は潮へと移り、咲月はやっとカレーの味を感じ始めた。この場に植野がいてくれてよかったと、咲月は心の底から思った。三人だけで寮生活を過ごすなんて、心臓がいくつあっても足りやしない。夏休みが終わるまで植野を頼って乗り切っていこうと、咲月は一人頷いた。 「夏休みの食事なんですけど、私、翠玉館で自炊してみたいと思ってるんです」  突然耳に飛び込んできた言葉に、咲月はぎょっと顔を上げた。 「翠玉館は自治寮の精神を掲げているのに、最近特に、学校のお世話になりすぎている気がするんです。昔の翠玉生は、一階の調理室で自炊していたって話を聞いたことがあって」  熱く語る玲に、植野は感心したように頷いている。いつになっても玲を否定する気配がない植野を前に、咲月は呆然と目を瞬かせていた。どうしてこんな話になったのか、咲月が全く追いつけないまま話は進んでいき、気づいた頃には玲と植野の間で結論がまとまっていた。 「朝の礼拝には参加していただきたいので、日曜日の朝食は一緒に食べましょう。それ以外は、皆さんの自治の精神を尊重しますよ」    翠玉館への帰り道、咲月は自分の足元を見ながら、大変なことになった、と思った。夏休みは寮監の先生もいない。咲月にとっては植野だけが頼りだったので、梯子を外されたような気持ちになっていた。 「玲、どうしてあんなこと言い出したの?」  前の方で二人が話をしている。咲月が恐る恐る顔を上げると、玲が無邪気に言った。 「だって、宣教師館だとみどりが一緒に食べられないじゃん。ね、帰ったら談話室でお茶会しようよ。ジュースとか色々買ってあるんだよね。みどりにも声かけてあるんだ。咲月も来るでしょ?」  急に話を振られたので、咲月はとっさに頷いてしまった。着替えてから談話室に集まることになり、部屋に戻った咲月はクローゼットを開けて呟いた。 「お茶会って、一体何着ればいいの……?」  クローゼットの中には、基本的に雑な部屋着とパジャマしかない。門限が厳しいので学校の敷地から出ることがなく、私服を着る機会がほとんどないのだ。数少ない私服はどれも真新しく、外に出かけるわけでもないのに不自然な気がした。 (このプリーツスカートはやりすぎ? でも、パジャマはまずいよね……)  なにせ、お茶会の相手は玲と潮だ。二人がどんな服を着てきたとしても、咲月がよれよれの部屋着なんて選んだ日には、一人だけ場違いさが目立つに決まっている。  散々悩んだ末、咲月は比較的新しいワンピース型の部屋着を選んだ。淡いラベンダー色のワッフル素材で、まだそれほど着ていなかった。急いで階段を降りると、談話室には既に玲とみどりの姿があった。 「すみません! 遅くなって……」 「大丈夫だよ、まだ潮来てないし」  玲はラフなTシャツと短パンで、爽やかな青年のようにも見えた。丸テーブルの上に並んだラムネソーダの瓶が、玲の清涼感をより引き立たせている。端正な顔立ちを前に咲月がぼうっとしかけた時、みどりが笑って言った。 「咲月も座ったら?」  丸みを帯びたショートボブに、くりっとした瞳。制服姿のままのみどりは、椅子に座って無邪気に足を揺らしている。  咲月は小さく頷くと、みどりの隣の席に座った。できれば距離を空けたかったが、丸テーブルなのでどこを選んでも大差ない。咲月はなるべく隣を見ないようにして、膝の上で両手を軽く握った。  みどりは翠玉館の一階に住む、翠玉生にしか見えない「秘密の友人」だ。ずっと同じ姿のまま、翠玉生の良き隣人として暮らしている。寮生活で疲れた時、翠玉生たちはみどりの住む部屋に行って、悩みや相談、愚痴などをみどりに打ち明けるのだという。咲月も「気持ちが軽くなるよ」と勧められたが、今まで一度も行ったことがない。  咲月は、みどりが苦手だった。  中等部から寮にいる他の同期たちと違って、咲月にはみどりのことを受け入れる素地がなかった。なので、どう接すればいいのかわからないまま、みどりに近づかないように生活していた。 「なんかさ、不思議な感じしない? 翠玉館に私たちだけなんて」  玲はみどりの真向かい、そして咲月の隣の席に座っていた。間近で向けられた玲の笑顔が眩しくて、咲月は「そうですね」と頷いたきり、また上手く言葉が出てこなかった。頬が熱くなるのが自分でもわかったが、高揚感をごまかすことができなかった。  玲は椅子から立ち上がり、テーブルのそばに三脚を立て始める。高さを調整してネジを止めながら、歌うように言った。 「いつも通り過ごすだけじゃ、もったいない気がするんだよね。せっかく翠玉館に残れたんだから、特別な夏休みにしたいっていうか」 「特別な、夏休み……?」  咲月は、自分の声が上ずったのを感じた。どきどきと胸の鼓動が速くなり、楽しそうに微笑む玲の口元をじっと見つめる。 「そう、私たち四人だけの」  玲の言葉は、咲月にとって魅惑の響きがあった。玲の「特別な夏休み」に自分も含まれているなんて、普通なら考えられない状況だ。家に帰りたくないという理由だけで残ったというのに、こんな幸運があっていいのだろうか―― 「遅いよ潮、ジュースぬるくなっちゃうじゃん」 「なにそれ、カメラ?」  はっと我に返ると、いつの間にか潮の姿があった。キャミソールに半袖のパーカーを羽織ったシンプルな装いで、彼女の肌の白さと透明感が際立っている。 (この学校の、月と太陽……)  二人の組み合わせは、校内でそう囁かれていた。潮が月で、玲が太陽。誰が最初に言い出したのかはわからないが、対照的な二人を指す表現として相応しく、この学校の生徒なら誰でも知っている二つ名だった。  今年の夏休みだけは、二人のそばにいられる。それがどんなに貴重で尊い時間か、咲月は今になってやっと実感し始めていた。 「それじゃ、まずは乾杯しよ! 四人の夏休みに、かんぱーい!」  咲月の真向かいに潮が座り、玲の声とともに、ラムネソーダの瓶が重なった。ラムネソーダに口をつけると、ピリッとした炭酸が抜けていって、さっきまでふわふわとしていた思考がわずかに戻って来た気がした。 「このソーダ見ると、今年も夏が来たって感じするよねー」 「購買ですか?」 「うん、休憩中にまとめ買いしてきた。昔から売ってるんだって。ね、みどり」 「そうよ。みんな夏になると、必ず飲みたくなるんだから」  玲とみどりが気安げに会話する側で、潮は涼しい顔でラムネソーダを飲んでいる。 (弓木先輩は、みどりさんのことをどう思ってるのかな)  今の翠玉生の中で、高校から入った中途入学生は咲月と潮だけだ。みどりを受け入れるための素地がなかったのは潮も同じはずで、潮がみどりと個人的に話している場面も今まで見たことがない。  咲月にとって、翠玉館は決して居心地が悪いわけではない。だが、心から馴染んだ感じもしないのは、他の翠玉生たちが当然のように受け入れている「みどり」という存在を、一向に受け入れられないからだ。 「潮が来る前、咲月とみどりにも話してたんだ。いつも通り過ごすだけじゃ、絶対もったいないと思ってさ。せっかく翠玉館に残れたんだから、この四人だけで夏休みの思い出を作りたいんだよね」  きっと、これは最初で最後のチャンスだ、と思った。  今年の夏休みを逃したら、咲月はもう二度と潮と同じ夏休みを過ごせない。潮がみどりのことをどのように理解して、どうやって受け入れたのか、潮が翠玉館を出て行く前に知りたいと、咲月は強く頷いた。  いいよ、と軽く言った潮に、玲は夏休みの計画について説明し始める。玲の計画が魅力的だったのか、みどりはわくわくした表情ではしゃいでいた。咲月はそんなみどりを見つめ、この夏休みが終わるまでに少しは馴染めるだろうか、と不安になった。
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