二話 星々の音色

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 2  数日後、咲月は朝早くから音楽室で一人、クラリネットの練習に励んでいた。外部から呼んでいる特別コーチが来る日で、午前中はパート練習の予定になっていた。  咲月の自主練習が終わった頃、他の部員が登校してくる。咲月はクラリネットパートの部員を集め、パート割りや演奏の流れを確認した。話し合いが済んだタイミングで特別コーチが現れ、クラリネットパートの練習が始まった。 「遠藤さんは、耳がいいんだねえ」  定期演奏会の曲目の中から数曲演奏し、咲月が代表して意見を交わした後、音大の講師だったという老年の男性は感心したように言った。 「先週の練習でも思ったけどね、周りの音を聴いてよく判断できている。パートリーダーに指名して正解だった。その耳があれば音大も目指せるよ。考えたことはなかった?」  コーチの言葉に、咲月は息を詰まらせる。しかし、周囲に不自然さを悟られる前に、咲月はコーチに微笑んでみせた。 「ないですよ、一度も」 「そう? もったいない気もするけどねえ。今からでも遅くないよ」 「私には、過ぎた夢です」  咲月がきっぱりと言い切ったので、コーチもそれ以上追及はしなかった。パート練習が一通り終わり、昼休みのためにクラリネットを片付けていると、同じパートの同期が腕をつついて来た。 「やったじゃん、咲月」 「褒め上手なんだよ、あの先生は。この前の練習も優しかったし」 「でも、上手くない人をわざわざ褒めないでしょ。うちらも、咲月がクラリネットのリーダーやってくれてよかったなと思ってるし」  そばにいた後輩たちも、その通りだという表情で頷いている。彼女たちからの信頼が真っ直ぐ伝わって来て、咲月は後ろめたい気持ちになったが、しばらくして「ありがとう」とまた微笑んでみせた。  午後の全体練習が済んで、帰る頃には日が陰っていた。昇降口で他の部員と別れ、咲月は一人翠玉館に向かって歩き出す。  朝が早かったせいか、クラリネットケースがいつもより重たく感じた。敷地の奥へと続く木立は薄暗く、咲月は足元を眺めながらため息をつく。午前中の会話が頭から離れず、午後の練習は集中できなかった。  中学から始めたクラリネットは、今でこそそれなりに愛着はあるが、特別気に入っているというわけでもなかった。吹奏楽部に入部した時、クラリネットのパートに空きがあったからという、ただそれだけの理由で選んだ楽器だった。  妹の美月と同じく、咲月も幼い頃から、母親の意向でピアノを習っていた。  咲月が「ちょっと惜しい」のは、ピアノでも同じだった。同じ課題曲を同じ練習量で同じように弾いたら、必ず美月の演奏に賞賛が集まり、「咲月ちゃんもよかったんだけどね」の一言で片付けられる。  全く違う曲を選んでも、周囲の反応はなにも変わらなかった。美月の方が難易度の高い曲だった、美月の方が情感豊かに演奏できた、美月の方がミスタッチが少なかった、美月の方が、美月が――  結局、咲月は早々に音を上げた。美月が中学で部活に入らず、ピアノに集中したのとは対照的に、咲月は吹奏楽部に入った。咲月の「誰かと演奏してみたい」という、取ってつけたような口実は納得され、母親にもあっさり受け入れられた。 「音大も目指せる、か……」  幼い頃は、咲月もピアニストに憧れていた。でも、どうやったって美月に敵わないのだから、その時点で無謀な夢だと諦めがついてしまった。咲月がピアノを辞めたことを美月は気にしていたが、単に美月ほど熱意がなかっただけだ。だから気にしなくていいと咲月は言ったものの、美月は悲しそうな顔をするばかりだった。  パイプオルガンの音が響いてくる。木立を抜けると、赤煉瓦造りのチャペルが現れた。円形のステンドグラス越しにライムイエローの明かりが漏れ、ゆったりとした旋律が流れている。咲月は歩きながらその音色に耳を傾け、いいものが聴けたと微笑んだ。  ピアノを弾かなくても、自分は変わらず音楽が好きだ。咲月はそれで充分だった。    咲月が翠玉館に帰ってからほどなくして、玲と潮がスーパーの袋を手に帰ってきた。制服のまま調理室に入り、三人で夕飯の支度にとりかかった。しかし、潮の手際が鮮やかで、咲月が手伝う余地もなかったので、咲月は談話室でテーブルの支度をすることにした。  丸テーブルを磨いてテーブルクロスを敷き、カトラリーを並べる。水差しとコップを用意したところで手持ち無沙汰になり、咲月は談話室を眺めた。明るいパステルグリーンの壁に、花の形のシャンデリア。そして、アンティークのアップライトピアノ。  ブラウンの木目が美しい、金の燭台がついたピアノだった。誰かが弾いているところを見たことがないので、今は使われていないのだろう。蓋の鍵穴に気づいた咲月は、きっと閉まっていると思いながら、何気なく蓋に手をかけた。 「お待たせ、できたよー」  咲月がぱっと振り返ると、玲と潮がトレイを持って入って来た。あたたかいトマトソースの香りに、咲月は思わず声を上げた。 「いい香り、美味しそうですね」  その日のメニューは、茄子とトマトのパスタに玉ねぎのスープだった。後からついて来たみどりも椅子に座り、四人で食卓を囲んだ。  潮の作った夕食は本当に美味しかった。潮の手際を褒める玲に、咲月も心底賛同する。パスタは盛り付けまで品があり、スープは澄んだ琥珀色に仕上がっていた。誰もが認める美人で、絵の才能があって、さらに料理まで上手となると、欠けているところが一つも見当たらなかった。 「じゃあ、今は三人家族ってこと?」 「弟がいるよ。まだ保育園児だけど……」  なので、潮から明かされた家庭の事情に、咲月は言葉を失った。その後、四人で花火をしている間も、咲月はずっと潮の家庭事情について考えていた。 (弓木先輩も、家で上手くいかなかったりしたのかな……)  咲月は潮のことを、手の届かない遠い存在だと思っていた。だが、さっきの話を聞いてから、潮は自分と近い境遇かもしれないと、心のどこかで期待してしまっていた。 「潮が寮に入ったのって、もしかしてそれが理由?」 「まあ、私だけ余ってたしね」  玲の問いかけに潮が頷いた時、咲月は思わず「私もです」と口を挟んだ。 「私、実は双子なんです。一卵性の妹がいて」  話すきっかけがなかった、と言いながら、咲月は意図的に美月の存在を伏せていた。優れた妹から逃げてきた、情けない姉だと思われるのが怖かったのだ。  しかし、学校の中心で輝く玲や潮と比べたら、自分はごく平凡な存在だ。二人の前では、咲月は虚勢を張る必要がない。それに、もし潮が家族から逃げるために翠玉館に入ったのなら、この話に共感してもらえるかもしれないと、咲月は淡い希望すら抱いていた。 「優しいね、遠藤さんは」 「……優しい、ですか?」 「だって、妹さんのために家を出たんでしょう? 簡単にできることじゃないと思う」  潮の返事に、咲月は絶句する。潮の善良な解釈を聞いて、咲月は余計に打ちのめされた。そんなに美しい話ではないのだと、潮の誤解を正すこともできず、咲月は燃え落ちる線香花火を眺めることしかできなかった。  花火が終わった後、部屋に戻った咲月はいてもたってもいられず、一人で談話室に向かった。アンティークのアップライトピアノに近づき、どうせ鍵がかかっていると蓋に手をかける。ところが、蓋はあっさり開いてしまい、整然と並ぶ白い鍵盤が現れた。  久しぶりに間近で見たピアノの鍵盤に、咲月は指を伸ばしかける。だが、触れそうになる寸前で指を握りしめ、蓋を閉めて振り返った。 「何してるの? 咲月」  談話室の入口に、みどりが立っていた。気配もなかったので、咲月はぎょっとしてしまった。いたずらっぽく笑うみどりに、咲月は苦笑混じりでため息をつく。  いつからそこにいたのかと、みどりに尋ねようとした咲月は、彼女の髪が以前より伸びていることに気づいた。髪はショートボブくらい、と他の翠玉生に聞いてから、ずっとそういうものだと思っていたが、今はちょうど肩先で切り揃えたような長さだった。  みどりも髪が伸びるのか、と首を傾げた咲月は、近づいてくるみどりに違和感を抱き始めた。髪型だけでなく、面影も異なっているような気がしたのだ。いつからそうだったのか、目元はくりっとした丸い瞳ではなく、いつの間にか丸いたれ目に変わっている。  強い既視感に襲われた咲月は、このまま目を合わせ続けてはいけないと、心の中で警報が鳴り響くのを感じた。しかし、何故か視線を逸らすことができず、咲月が既視感の理由に気づいた頃には、みどりは咲月のすぐ目の前まで迫っていた。 (この顔、って――)  咲月は、この顔をよく知っている。どこまで行っても逃れられない、自分にずっとついて回る顔。咲月が強張ったまま声も出せないでいるうちに、彼女はピアノを指さした。 「本当は、ピアノが弾きたかったんでしょう?」  自分と同じ顔だ、と認識した時、咲月は弾かれたように談話室から逃げ出した。  一度も振り返らずに階段を駆け上り、自室に飛び込んで扉を閉める。鍵をかけた扉に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。  談話室で見たものは、一体なんだったのだろう。咲月は震える体を必死で抑えようとしながら、さっきの言葉を思い出した。 〈本当は、ピアノが弾きたかったんでしょう?〉  薄暗い部屋の中、咲月は首を横に何度も振って、膝を抱えてうずくまった。
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