二話 星々の音色

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 3  花火の夜からしばらく、咲月はみどりとなるべく目を合わせないように、そして二人になりそうな場面を必死で避け続けた。  視界の隅に映る分には、みどりは以前の姿のままだったが、目が合ったらまたあの姿が見えてしまう気がして怖かった。こうして怯えたまま夏休みを過ごすのか、と思うと気が遠くなりそうだったが、かといってどうすればいいのか全然わからなかった。  日曜日の朝、咲月たちは宣教師館で朝食をとり、礼拝のためチャペルに向かった。  蔦の絡まる扉を開けると、すぐに礼拝堂が見通せた。赤い煉瓦の壁に、チェスナットブラウンの木組みの天井。木の長椅子が並んだ先には祭壇と説教台、そしてパイプオルガンが設置されている。円形のステンドグラスから朝日が差し込んで、銀色のパイプが一際眩しく輝いていた。  植野がパイプオルガンの前に座り、オルガン奏楽が始まる。三人で讃美歌を歌い、聖書の朗読が終わった後、説教台で植野が語り出した。 「今日は、信仰についてお話ししようと思います。こちらの礼拝堂でも掲げている十字架は、見ての通り縦軸と横軸が重なっていますが、この形を用いて信仰そのものを解釈することがあります」  祭壇の上部に掲げられた十字架を見上げ、植野は微笑んだ。 「まず、横軸ですね。これは人によって考え方が異なります。隣人との対人関係や、社会生活だと捉えることもあります。私も様々な解釈をしてきたのですが、今は人の一生だと考えています。生まれてから寿命を終えるまでの、時間の流れですね。川の水が海へと流れていくように、時間もまた等しく流れていきます」  普段の礼拝は、生徒全般に向けた聖書に関する解説がほとんどで、この学校に入るまで関心がなかった咲月は、正直半分も理解できていなかった。しかし、今日は三人しかいないからか、植野の説教はいつもと話しぶりが異なっていた。 「川の流れは、時に濁流になることもあれば、氾濫してしまうこともある。人生はよく荒波に例えられますが、激しい流れの中で倒れずに立ち続けることは困難です。何か、支えとなるような縦の軸がなければ」  植野は自分の手を支えるように、分厚い聖書を説教台に立てた。 「この縦軸の役割を担うのが、信仰です。天にいる神を信じ、空を見上げることで、人は荒波に飲まれることなく真っ直ぐ立ち続けられる。……とは言っても、縦軸を何にするかは人それぞれです。別に信仰でなくても構わないと私は思います。自分が心から信じられる、迷った時に支えとなるものを見つけてください」   植野の合図で三人は立ち上がり、再び讃美歌を歌う。そして最後に祈りの言葉を朗読して、礼拝は終わった。 「今夜は流星群のピークだそうです。皆さんも、ぜひ夜空を見上げてみてくださいね」    チャペルを出た後、咲月は一人で音楽室に向かった。吹奏楽部の練習はなかったが、玲は演劇部、潮は美術室に行くというので、二人がいない翠玉館で過ごす気にはなれなかった。誰もいない音楽室でクラリネットを吹きながら、植野の説教について考えていた。 (自分が心から信じられる、迷った時に支えとなるもの……)  咲月は、特に何も思い浮かばなかった。昔はピアノが大好きで、嫌なことがあってもピアノを弾けばすべて忘れられた。今、クラリネットにそこまでの気持ちはない。咲月にとって単旋律の楽器は、誰かと演奏してこそ成り立つもので、自分一人の音はいつも頼りなく聴こえた。  最後まで曲を吹き終えることなく、咲月はリードから唇を離す。クラリネットの黒い管体に、銀メッキのキイが張り巡らされている。その表面に映る、像が歪んだ小さな自分を眺め、咲月はため息をついた。  周りの音を聴いてよく判断できている、とコーチは咲月に言ったが、自分の音は何一つ聴けずに迷ってばかりだ。他の部員たちから信頼されればされるほど、咲月は自分の気持ちの薄っぺらさが嫌になった。クラリネットを続けていれば、いつか心から好きになれると思っていたのに、自分が信じられなくなる一方だった。  練習に身が入らないまま時間だけが過ぎ、咲月はとぼとぼと翠玉館に帰った。夕食の席でも咲月は上の空で、上手く笑えていたかわからなかった。一緒にいる玲たちがあまりに眩しくて、自分だけが暗いところに沈んでいるような気がした。 「今朝の礼拝で聞いた流星群、これからピークなんだって。皆で一緒に見ない?」  夕食が終わった後、玲は窓の外を見上げて楽しそうに言った。 「中庭にレジャーシート敷いてさ、寝っ転がって見たら絶対楽しいよ」 「いいけど、蚊取り線香つけないとね」  玲と潮の会話に、みどりも嬉しそうにはしゃいでいる。翠玉館の裏にある中庭に向かう間、咲月は玲たちと少し距離を置いて、後から一人ついて行った。  夏休みが始まった頃は、玲たちと過ごせるなんて奇跡みたいだと思った。なのに、今は劣等感しかない。こんなに落ち込んだのはいつ以来だろうと、俯いていた咲月の耳に、ふっと潮の声が入ってきた。 「星が、よく見えるね」  空を見上げると、星々が無数に広がっていた。想像を遥かに超える数に、咲月は目を見開いた。視線を逸らさないでいるうちに、暗闇に目が慣れてきたのか、真っ暗だった夜空は次第に瑠璃色へと変わる。さっきまでは見えなかった、小さな星屑の光までわかるようになって、咲月は中庭で立ち尽くした。 「すごいな、いつもこんなに見えてたっけ」  レジャーシートを敷きながら、玲が感心したように声を上げる。蚊取り線香を炊いていた潮は、煙が出たことを確認して呟いた。 「今日は新月だから。月明かりがほとんどない」  潮の言葉通り、月がどこにも見当たらなかった。星空に圧倒されていた咲月は、玲たちがレジャーシートに座ったことに気づき、おずおずと左端に座る。  咲月の隣に潮が座り、さらにその隣で玲とみどりが寝そべっていた。玲とみどりは、誰が流れ星を一番に見つけるかという話で盛り上がっている。潮は片膝を抱え、空を見上げて言った。 「ペルセウス座は、さすがにまだ見えないね」 「ペルセウス座、ですか?」 「今日、ペルセウス座流星群だから。聞いたことない?」  咲月は、星座についてほとんど知らなかった。「そっか」と呟いた潮は、少し考えた後再び顔を上げた。 「冬は、北の空でよく見える星座で……夏は北東に上るけど、明け方頃まで待たないと見つけられない。ペルセウス座流星群は、そのペルセウス座の方角から流れてくる」 「何か、特徴とかあるんですか? 星座の形に」 「ペルセウスはギリシャ神話の英雄で、右手に剣、左手にメデューサの首を持っている、って話だけど。メデューサは、目が合うと体が石化する怪物」  潮の説明に、咲月は花火の夜を思い出してしまった。ピアノを指さした、自分と同じ顔をしたみどりが脳裏をよぎり、背筋がぞっと震えた。 〈本当は、ピアノが弾きたかったんでしょう?〉  あの言葉は咲月にとって、呪いにも似た恐ろしい響きがあった。どうして、みどりが自分と同じ顔に見えたのかわからないが、心の奥底に沈めた感情から、目を逸らし続けたツケが回って来たのだと思った。 「咲月、今日は自主練だったの?」  玲の問いに、咲月は自分が黙り込んでいたことに気づく。潮の怪訝な視線に気づかないふりをして、「聴こえましたか?」と返事をした。 「なんか新鮮だった。クラリネットってああいう音なんだなって」  自分一人の音は、玲の耳にどう聴こえたのだろう。咲月は玲の方を振り返りかけたが、視界の隅にみどりが映ってしまい、目を逸らしたはずみに体がぐらりと揺れた。 「咲月って、どうして吹奏楽部に入ったの? 昔からクラリネットやってたとか?」  玲に対して、今度はすぐに声が出てこなかった。不自然な間が生まれたのが自分でもわかった。隣の潮がじっと咲月を見つめている。色素の薄い澄んだ瞳を前に、咲月は思わず口を開く。 「楽器は、別になんでもよかったんです。音楽を続ける大義名分が欲しかっただけで」 「……大義名分?」  はっと我に返ったが、口にした言葉はもう戻らない。咲月は視線を外し、努めて明るい調子で言った。 「私、もともとピアノを習っていたんです。妹と同じ教室に通って、毎日ピアノを取り合って。でも、やっぱり妹の方が上手かったんですよね。家にはピアノが一台しかなかったし、真剣に音大を目指す妹に譲るべきだと思って、すっぱりやめました」  だが、ピアノの代わりに何をすればいいのかわからなかった。音楽への未練をすぐには断ち切れず、だったら他の楽器で埋めてしまえばいいと思った。楽器の転向は珍しい話ではないし、いつか時間が解決してくれるだろうと、軽い気持ちで決めてしまった。 「咲月は、もうピアノは弾かないの? この学校には何台もあるし、先生に言えばいつでも弾かせてくれるよ」 「いいんです。ピアニストを目指すほどの才能もないので」  コーチに「耳がいい」と言われたあの日、その後いくらでも、引き返すタイミングはあったのだ。潮たちに美月のことを話そうと思わなければ、談話室でピアノを開けようとしなければ、みどりが自分と同じ顔だと気づかなければ――  潮が、軽く首を傾げて言った。 「才能がなくても、ピアノは弾いていいでしょう?」  咲月が息を呑んだ時、潮はすっと空を見上げた。 「流れたよ、今」  深い瑠璃色の空に、星々が瞬いている。視界の隅々まで目を凝らすと、時折光の軌跡が走っていった。追いつこうと視線を動かしても、その時には既に流れ去っていて、星の流れはなかなか捉えられなかった。  星々は、よく見ると大きさや光の色が少しずつ異なっている。星の瞬きを見つめていると、何か音が鳴っているような気がして、咲月は光の粒を捉えようと目を細めた。 (夜想曲の楽譜みたい……)  そう思った時、咲月はふいに既視感に気づいた。こんな夜を、前にも過ごしたことがある。一体いつのことだったのかすぐには思い出せなかったが、その時の咲月も夜想曲の楽譜を思い浮かべていた。  脳裏で、ショパンの夜想曲の旋律が響く。久しぶりに聴こえてきたピアノの音を逃さないように、咲月は一心に夜空を見上げ続けた。    流星群のピークが過ぎ、夜は一層深くなっていく。  部屋に戻った咲月は、談話室で見たみどりの姿について考えていた。  あの時、みどりを見て「同じ顔だ」と思ったが、実際は誰の顔だったのだろう。咲月と同じ顔をした人間は、もう一人存在している。目の前でピアノを指さしていたのは、自分自身だったのか、あるいは妹の美月だったのか。  咲月は部屋を出て、三階に上がった。潮の部屋の電気はまだついている。ノックをすると、「どうぞ」と声が聞こえた。 「どうしたの、遠藤さん」  デスクライトがついた机には、スケッチブックと鉛筆が置いてある。部屋の扉を閉めた咲月は、意を決して切り出した。 「弓木先輩は、みどりさんのことをどう思ってますか」 「どう、って」 「先輩も、中途入学生じゃないですか。みどりさんの存在を、どうやって受け入れたんだろうと思って」  みどりのことを潮に尋ねるなら、今夜しかないと思った。この夜を逃すと、自分はもう勇気が出せなくなる。夜が明ける前に、咲月は潮と向き合わなければならなかった。  だが、口に出した後で咲月は我に返った。いくらなんでも、この聞き方は突然過ぎる。他に何か言い方はなかったのかと咲月が後悔した時、潮は目を伏せて言った。 「ある種の信仰のようなものかな、って」 「……信仰?」 「今朝、礼拝で牧師さんが言ってたでしょう? 信仰とは、人を真っ直ぐ立たせてくれる縦軸の役割があるって」  思ってもみなかった話に咲月が目を見張ると、潮は淡々と続けた。 「翠玉生にとってのみどりは、その縦軸なんだろうと思ったよ。みどりを信じるということは、翠玉生であることとイコールで繋がっている。だから、翠玉生にしかみどりの姿は見えない。みどりがいるから、翠玉館に住む寮生は『翠玉生』でいられる」  潮の話を聞きながら、咲月は次第に、そうかもしれないと思い始めた。潮の説明は筋が通っていて、理解してしまえばすんなり腑に落ちる。同時に、咲月は潮の話し方に違和感を覚えた。なんだか客観的過ぎる気がしたのだ。  潮自身はそれで納得しているのか、と聞こうとした咲月は、結局その問いを飲み込んでしまった。視線を落とした潮が、それ以上踏み込んでくるなと線を引いているように見えたのだ。    夏休みは過ぎていき、気づけば三十日になっていた。  翠玉館の掃除が終わった後、玲に誘われて講堂に向かった。夏休みの間、玲が撮っていた動画を編集したという。咲月にとってこの夏休みはあまりに非日常だったので、カメラの存在まで気にする余裕がなかったが、いざ上映されると夏休みの出来事がほとんど映っていて驚いた。  舞台には今いる講堂が映し出され、潮と咲月が二人で現れる。「今週の風呂掃除は決まりだね」と言う玲の声に、咲月が「ずるいですよ」と笑う。映っている自分の表情が本当に嬉しそうで、あの時こんな顔をしていたのかと、咲月は頬に手を当てた。  本校舎で肝試しをした夜、初めて潮から「咲月」と名前で呼ばれた。潮が誰かを親しげに呼ぶ場面なんて、咲月はそれこそ玲以外に見たことがなかった。 〈私は、夏休みを一緒に過ごしたのが咲月でよかったと思う〉  話の発端は、咲月が名前の由来を語ったことだった。どうしてそんな流れになったのか、今となってはよく覚えていない。潮から「咲月」と呼ばれた事実が鮮烈で、それ以外のことはすべて忘れてしまった。 〈咲月じゃなかったら、きっと違う夏になった〉  色素の薄い澄んだ瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。嘘みたいな瞬間で、潮が「咲月」と呼ぶ声とともに、鮮明な記憶となって刻まれた。玲がいなかったので映像には残っていないが、この先もずっと覚えていると確信した。 「あっという間でしたね、夏休み」  舞台に映る動画を見ながら、咲月は、夏休みの終わりを実感する。起こった出来事の半分も飲み込めていないが、いつか懐かしいと思う日が来るのだろうかと、青白く光る夏休みを前にぼんやり考えていた。 「まだ終わらないよ。夜が明けるまでは、夏休みだから」  え、と思う間もなく、玲の弾むような声が聞こえてくる。 「ね、夜って言ったら、やっぱり内緒話じゃん。今から一人ずつ、誰にも言ったことがない秘密を話してみない?」  誰にも言ったことがない秘密、と聞いて、すぐに浮かんだのはピアノのことだった。舞台の隅に置かれている、黒いグランドピアノに視線が吸い寄せられる。  流星群の夜、潮から「才能がなくても、ピアノは弾いていいでしょう?」と尋ねられた時、咲月は何も否定できなかった。潮の指摘はどこまでも正しく、咲月自身もその通りだとわかっていた。美月と比べて才能がなかったとしても、咲月がピアノを弾きたければ、弾き続ければいいだけのことだった。 「私は……本当はずっと、ピアノを弾きたかったんです」  玲や潮には、大したことない秘密だと思われるだろう。しかし咲月にとっては、誰にも言わずに隠し通そうとした、自分の奥底で燻り続けていた感情だった。  舞台に上がり、グランドピアノの蓋を開ける。金色に輝く無数の弦と、白い鍵盤が視界に映る。椅子の高さを見て、浅く腰掛けるまでの一連の流れは自然と体が動き、そのまま黒鍵に右手の親指を載せた。  ショパンの夜想曲、第二番。変ホ長調の穏やかで優しい響きが、音の粒に乗って空気を震わせる。音楽教室の発表会で、咲月が初めて自分で選んだ曲だった。楽譜を見なくても弾けるようになるまで練習し、それでも上手く弾きこなせなかった時、先生から「夜空を見上げてごらん」と言われて毎晩空を見上げた。初めはよくわからなかったが、次第に星の瞬きが音の粒そのものだと思えるようになって、発表会当日は夜空を思い浮かべながら楽しくピアノを弾いた。  咲月は、何よりもピアノが好きだった。ピアニストになろうがなるまいが、ピアノが弾ければそれでよかった。  だがいつからか、咲月は自分に自信が持てなくなった。誰からも演奏を認められないのに、ピアノを弾いていいのだろうかと不安だった。好きだという気持ちだけでは理解を得られない気がして、確かな動機や強い目標がなければ、ピアノを続けるべきではないのかもしれないと思った。  何年も弾いていなかったとは思えないほど、咲月の指は息をするように動く。軽やかに音の粒を捉えていく感覚は、夜想曲を弾いた発表会以来だった。咲月の前には、潮たちと見上げた瑠璃色の夜空が広がっている。瞬く星々の光を集めながら、好きなら弾き続ければいいのだと、咲月は自分の気持ちをやっと受け入れ始めていた。  最後の音まで辿り着き、咲月は顔を上げた。あたりには星々の余韻が残っている。パチパチと、小さな拍手の音が聞こえて客席を振り返ると、自分と同じ顔をしたみどりがこちらを見つめていた。ずっと逸らし続けていた視線が重なった瞬間、ああ、と咲月は腑に落ちた。 (私が逃げたかったのは、美月からじゃなくて、自分からだったんだ……)  みどりの姿がどうして変わったのか、本当は誰の顔をしているのか、結局何一つわからないままで、気味が悪いことに変わりはない。でも、咲月が自分の本心に気づけたのは、みどりがピアノを指さしたあの夜があったからだ。自分から逃げるのはもう終わりにするのだと、咲月は目を逸らさず、みどりをじっと見つめた。  みどりは客席で拍手を続けている。彼女の表情は晴れやかで、咲月に向かって優しく微笑んでいるようだった。
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