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伝えられたアパートは比較的新しかった。駅からも近い。電話の主はおそらく金銭的には窮していない人物だろう。
住宅前の駐輪場へ勝手に停める。住人らしき人影が背後で揺らめいた。睨むように見据えられる。
こうも汗だくで大荷物だと怪しく映っただろうか。だが律哉は区役所の名前入りのダサいパーカーを羽織りネームプレートを首から引っ提げている。どう見ても役所の人間だ。
それに安心したのかは定かではないが、相手は律哉に一瞥くれると路上駐車していた外車へ乗り込んでいった。
(路上駐車? 住人じゃないのか? まあいいか。俳優みたいな男前だったけど、今の時間に私服だったところを見ると夜の仕事か? それなら金も……って、だからそれは今どうでもいい)
小牧伊玖。謎多き電話の主。彼の部屋は二〇一。階段が面倒だ。この暑い日に、重いのに。それが仕事だ。わかっている。
というか、これを女性職員は普段しているのか。男でも音を上げそうなくらいハードなんだが。ああ、こういう考えは差別になるのか。面倒だな。
階段をやっつけ、部屋の前で汗を拭ってからチャイムを押す。瞬間、まだ弱々しいがはっきりとした泣き声が響いてきた。ドタドタと慌てた足音が近づき、扉が開く。
保健師の柳井です、と名乗る前に緊急事態を察知した。
出てきた男は細く、三毛猫のような愛嬌を前面に押し出した外見なのに、獲物を前にしたドーベルマンのように殺気立っていた。
「保健師さんですね、どうぞ。散らかっていますが」
おそらく名札を見て促された。そこで我に返る。奥から響いてくる声は間違いなく赤ちゃんだ。だがこれは、まだ生後間もないような……?
「保健師の柳井です。お邪魔します」
ドタドタと、らしからぬ足音を立てながら奥へ引っ込む小牧に続く。廊下は紙袋ベビー用品であふれていた。律哉は蹴らないように慎重に進む。
小牧はベビーベッドで泣きわめく赤子をおっかなびっくり抱き上げて途方に暮れていた。
「あの、泣き止まなくて、さっき上司が寝かせてくれたんですけど、どうしたらいいんでしょう……?」
細い声に疲労がにじんでいる。
上司が。へえ。その辺りの事情を聞きたいのに、この泣き声のなかでは聞こえない。音量として聞き取れはするが、集中できない。
「まずしっかり抱っこしてあげましょうか。赤ちゃんはお腹の中で小さく丸まってしっかり包まれている状態なので、あっ、首は座っていないのでしっかり支えてあげて、こっちの手でお尻を」
(いやこの子いつ産まれたんだよ。在胎三十八は超えてるだろうけど、生後一週間レベルじゃないか? 肌、赤黒いし)
役所に抱っこひもやベビーカーでやって来る赤ちゃんと大違いなのは明らかだった。
もしやこの人、男に見えて女か? 産んだ直後か? 疑って胸を見てしまった。メンズシャツにぺたんこだった。なんかいろいろ申し訳なくなった。
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