三月のモラトリアム。

1/7
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
 春宮さくら、大学四年生。  大学生と社会人の間の、恐らく人生最後の春休み。  地獄の就活の末、小さな会社だけど内定は既に貰っていて、必要単位も揃っているからもう登校の必要もなく、取り立ててやることもない。そんな消化試合みたいな日々だった。  この四年ですっかり慣れ親しんだ、わたしだけの城だったワンルームの真ん中で、荷造りもそこそこに何だかぼんやりとしてしまう、予定のない昼下がり。  数日後に控えた卒業式に着る予定の、お母さんのお下がりの袴を箪笥から取り出して、汚れや虫食いがないか確認する。不意に目についたその華美な刺繍と彩りに、自分なりに勉強にバイトに就活にとあれこれ頑張って来た四年間を思い返しながら、ふと考える。 「……今のわたしは、何なんだろう」  年齢として成人はしている。学生の身分はあって、けれど籍だけあってもしばらく学校には行っていないし、もう卒業式しか行く予定もないので何と無く学生とは言い難い。  然れど、内定があってもまだ出勤していないのだから、当然社会人でもない。  大人と子供の間の、何者でもない宙ぶらりんな期間。  忙しなく過ぎていた日々に唐突に与えられた自由と、未知数の未来への不安と期待。  名前のない不安感と焦燥感、ふわふわと地に足がつかない落ち着かない感覚。人生におけるモラトリアム。  わたしはあと半月もなく終わるこの期間で、果たして新しい世界に踏み出す勇気を得られるのだろうか。 *******  気付けばあっという間に三月になっていた。所謂春休み期間。それでも、春という感覚はあまりない。  大きな通りはそうでもないけれど、少し中道に入れば、辺りには雪の匂いが残っている。  北海道は三月でも冬の名残が強い。むしろ日によっては凍てつく冬真っ只中。お陰で衣替えにはいつも悩まされる。まさに試される大地だ。  一般的に卒業旅行のピークであろう二月は、交通機関も混雑しそうで極力外には出なかった。人混みは苦手だ。疲れてしまう。  大学進学のために親元を離れ、単身出て来たこの札幌は、観光地としても名高い北海道一の大都市である。  第二の都市とは名ばかりの閑散とした地元とは違って、この町はどこを見ても常に人が多かった。恐らく本州の都会と比べても引けを取らないだろう。  まあ、実際に東京だとか大阪だとか有名な都会には行ったことがないから、テレビを見ての感想でしかないけれど。  駅から続く地下街も、隣接したデパートや商業施設も、縦にも横にもとても広くて、到底一日じゃ回りきれない。この町は、駅を中心として地下であちこち繋がっていた。まるで広大な迷路のよう。  そしてその迷路は、常に店を変え建物を変え、日々複雑怪奇に進化し続けているのだ。  初めの頃は、勿論年相応に都会への憧れも少なからずあった。わたしを変えてくれる魔法のように、キラキラした楽しい生活、たくさんの未知との出会いや、地元では見たことのないようなお洒落で美味しいご飯。日替わりにしても回りきれる気のしない無数のお店。夜になっても消えることのない華やかな街明かり。どれもが魅力的だった。  けれど結局この四年間、同じように地元を離れて出てきた他の子達のように、この都会を満喫し楽しむだけの心の余裕もなかった。  初めての一人暮らし、初めてのアルバイト、初めての勉強内容、初めての大学生活、初めて出会う人々、初めての水道代や家賃の支払い、初めてだらけの生活。  日々更新されるあらゆるものについて行くので、わたしは精一杯だった。  元より内向的で保守的な性格のわたしには、全てが心をすり減らす冒険の連続だ。  都会の恩恵といえば精々、お店がそこかしこにたくさんあるから、徒歩でも必要なものの買い出しに不自由しなかったなとか。駅の出入り口付近にある大きなモニュメントが、方向音痴なりに目印としてわかりやすかったなとか。急に人と会う予定が出来た時には、駅からエスカレーターで降りて少し歩くだけで色んなお店があるから、ギリギリで手土産のお菓子が買えて便利だったなとか、その程度だ。  楽しみだった美味しいご飯は、お洒落な店構えから一人でふらっと行くには緊張したし、そもそも少ない仕送りとアルバイトの稼ぎでは、そんなに外食する余裕はなかった。  勇気を出して訪れたとあるお店でオムライスの味を気に入って、今度お給料を貰えたらまた行こうと心に決めても、地下街の入り組んだ道を覚えておらず、結局もう辿り着くこともなかった。  札幌に来て初めて乗った、天候に左右されずどこにでも行けて便利なはずの地下鉄だって、結局最後まで、通学に必要な決まった物にしか乗れなかった。  あっちが何とか線の改札口だとか、何とか駅に行くにはこっちだとか。地下に張り巡らされた案内の赤や緑の線や、番号付けされた階段。あちこちにある標識や地図に、余計に自分がどこに居るのか分からなくなった。  同じような顔をしたコインロッカーの群れはいたるところにあって、一度預けたら最後、もう二度と同じ場所に辿り着けず、取りに行けないのではないかと怖くなった。  駅から離れたとしても、ひしめくように連なる店が閉まった後の夜の狸小路商店街のアーケードには、各々楽器の弾き語りをしたり、人通りの減った通路でスケボーなんかを我が物顔で楽しんだりする人達が居た。  他の人はすっかり気にしない日常と化した風景なのに、わたしはアルバイトの帰りに彼等を見かける度に、まるでテレビの向こうの世界のように感じた。 「……きっとここは、わたしの居場所じゃない」  都会は情報が多くて、目が回る。  雑多なそれらを必要に応じて取捨選択するだけの知識も、経験も、尻込みしてばかりで結局ほとんど培われることはなかった。  いつまでも非日常感が抜けきらないまま、遂に終わりまで来てしまった。  確かに便利なことは多く、娯楽も多く刺激も多い。しかしわたしはそれらを楽しむ余裕もなく、慣れることも出来ないまま、そんな日々に疲弊していたのだ。  時折連絡を取っていた地元の友達『レオちゃん』からは、都会での生活を羨ましがられていたけれど。  遊びに来て楽しむのと、そこを生活の基盤とするのとは違うのだと、この四年間で実感したものだ。  そしてわたしは、春から札幌を離れ、地元の会社への就職を決めた。  せっかく一人家を出てきたのに、結局逃げ帰るように慣れ親しんだ田舎に戻ることになるのは、正直複雑だった。  けれど、実家に戻る訳ではない。だってわたしにはもう、実家にすら居場所なんてないのだから。 *******
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!