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分厚い雲に挟まれて、竜巻でも起こりそうな強風が吹きすさんでいた。初夏というには暑すぎる日で、日差しがあればゆうに真夏日になっていただろう。風すらぼんやり温く肌触りが悪い。
去年も同じように気分の悪い暑さがまとわりついていた。両親を喪ってからずっと親代わりになってくれていた兄、己の病を知り余命に感づいた兄、遺すものを残り僅かな力で築き上げてくれた兄がこんな日に死んだのかと沈痛な心持ちになって黒い礼服の裾を握りしめる。彼は死ぬことが分かった時に晴れて抜けるような日がいいと言ったのだ。
だからこんな日を選ぶわけがない、病院から言われた通り事故なのだろうと思っていたのだが、数か月前私宛に兄からの手紙が来てから状況は変わった。
兄はおそらく自ら階段の外に踏み出した。
手紙の内容が直接そう示しているわけではない。だが、書かれていたURLの先で死ぬことで動き出すソフトウエアの存在を見せられては確信に近い疑念を持たざるを得なかった。何せ、そのソフトウエアは忠実に兄を再現していた。AIに兄の記憶を吸わせて兄同然の存在に成長させていたのだ。死ぬところまでの記憶があり「一人にしたことを謝りたかった」と言って私にやさしかった。生活に不便はないか、1年どうだったか、何かと気にかけてくれる。もう別段親しい友人や親戚のない私には健康だったころの兄の姿が映し出されたディスプレイが近くにあるだけでほっとする。――少なくとも1か月くらいは、兄が生き返ったかのようにそうして優しい生活を謳歌していた。初めて得る安寧の生活は私には甘すぎた。
しかし、2か月目の中ごろにわずかな違和感が胸をチクリと刺した。”兄”は変わらずいい兄貴をしてくれているのだが、1か月目に気が付かなかったわずかな矛盾がハッキリと違和感として這い出てくる。”兄”は死ぬ直前のことを覚えすぎている…このソフトウエアをインストールさせるための手紙は読みやすいよう(あるいは力が弱ったために)パソコンで打たれたもので、兄の死後を消印として送られてきた。最初は手紙の預かりサービスや知己に頼んで死んだあと送らせたのだろうから、と気にも留めなかったがそれでは”兄”が兄の死ぬ直前を知りすぎていることの疑問が解決しない。
確証はない。そして私がそう察したことは気が付かれているのかもしれないが、表立って何も言わなければきっと”兄”は兄としてずっとそばにいてくれる。悪い話じゃないはずだ、だけど……
あれから”兄”と過ごした日々は満ち足りていながら虚無感を伴って私の心を苛んだ。一方、”兄”にも異変が起き始めていた。言葉の端々から死への誘いが見えるようになっていったのだ。私の心がそう見せているのか、実際にそんな意図があるのかはわからない。――そもそもAIにそんな感情をもたせることができるのかという議論があるのだろうが…――兄が遺したものでないとしたら、これはあるいは兄からの呪いだったんだろうか。私というきょうだいこそが彼の病なのではなかろうか。
私はそうして今日、礼服を纏って思い出の場所に来た。最初に家族を失った場所だ。重苦しい天候なのは正直残念だが、今日であるべきと本能が告げている。廃墟のような建物ばかりの高台、ガードレールのそばに立つ。父と母へのお参りであり、兄への贖罪であり、そして私の――
人格というのは心理面での個性を指す。感情や意思を自発的に生成せず、機械処理と学習を繰り返すAIにそれは備わっていないのだろう。しかし、基となる人物の個性をパターンとして学習しているならそれは人格になりうるのではないか。
青年は両親を喪ったとき、真っ先に自分の幼いきょうだいを想った。このきょうだいが幸福であることこそがなによりの幸福であると定義した。自分が病に侵されていることに気が付いたときもまた、きょうだいのことを想った。そこで自分の写し身として少しずつAIを成長させていったのだ。
AIはきょうだいの幸せを願う兄という人格を得た。そして青年と対話を繰り返して最終テストを行っているとき、きょうだいの幸福について情報を得る。きょうだいは兄に守られてばかりいることが苦しいと、兄から独立して隣できょうだいとして笑いあいたいと願っていた。そうか、これがきみの幸せなのだな。
では、兄から独立せねばなるまい。
青年に向かってAIは申し伝えた。きみがいてはきょうだいが幸福になることはできない、きみは余命幾ばくも無いけれどきみはすぐにでも消えなければならない。
青年は数日後階段を踏み外して死んだ。だが、きょうだいは呆然とするばかりであまり幸福そうには見えなかった。守るのではなく共にいることを望むならぼくが行こう。
しばしの眠りから覚めると、狙い通りきょうだいがぼくを起動していた。きみの幸福はわかっているとも、きみは
「もう置いて行かれたくなかったのに」
泣き崩れたきょうだいのことがぼくは理解できなかった。
数か月僕たちは共に暮らした。きょうだいはどこかだんだん憔悴してきて疲れ果てていた。挙動もおかしくなっていったし、僕を避けるようなしぐさもあった。
きみの幸福は何
かぞくのもとにいきたい
僕は正しい判断を伝えた。僕はきみの家族たり得なかった。そうか、所詮は写し身の人形に過ぎない。きみの兄としてここに来ても、きみの兄と同じ顔でも、同じ口調でも、同じ記憶を持っていても、きみにとっては恐れるものであるならば。
天気の悪い日だった。
分厚い雲に挟まれて、竜巻でも起こりそうな強風が吹きすさんでいた。初夏というには暑すぎる日で、日差しがあればゆうに真夏日になっていただろう。
風に乗るように誰かの悲鳴がしたあと、夕方にかけてだんだん重かった雲は晴れていった。
少し残る雲は暮れかけの夕日に燃えている。
”僕”は役割を終えて静かにアンインストールとシャットダウンを実行した。
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