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●5:薔薇の似合う君と
これは昔のお話。
ラジエラが『生まれて初めて』目覚めたは水槽の中だった。すなわち彼女は生後0日なワケだが、既に十歳ぐらいの少女の姿をしていた。
水槽――円柱状で薄緑の液体がつまっており、たくさんの管が少女に繋がった、いかにもSFといった趣――その前に立っているのは、車椅子の老人だ。いや、ミイラと呼んだ方がいいかもしれない。それぐらい老いさらばえていた。性別も年齢の推測もできないほどだ。その頭部には、なにかコードがたくさん付いたヘルメットが被せられていた。
それが誰なのか、自分が誰なのか、何もかもラジエラには分からなかった。自我らしい自我というものが、まだその時の彼女には存在していなかった。
が、次の瞬間。老人が何か機材を起動して――凄まじい電流が、少女の身体を貫いた。
ラジエラは目を見開く。水槽の中で叫ぶ。凄まじい電流に水槽に亀裂が走る。辛うじて視界に入る老人もまた、同じ電流に打たれているようで、ヘルメットから電気が奔り、痙攣し、車椅子からパタリと倒れて――ほどなく、電流が止まった。その時にはもう、ラジエラは気絶していた……。
……そうして目が覚めた頃。
ラジエラは冷たく濡れた床に倒れていることに気が付いた。例の水槽が例の電流で割れて、中身の液体ごと床に放り出されたのだと少女は知った。
直後に。ラジエラは『全てを理解している』ことに気付く。ここはどこなのか。何が起きたのか。あの老人は誰なのか。自分は誰なのか。
――あの老人こそ『博士』。
この世界を滅亡寸前まで追い込んだ、世界最悪の人間。彼の名前はロキ。あらゆる叡智を極めた男。
老いた彼は死を恐れ、永遠を求め、転生を試みた。若く、美しく、廊下が緩やかな肉体を作り上げ、その脳に自らの脳の内容を送信したのだ。
だが、失敗した。
『新たな肉体』の中に、ロキ博士の自我はない。記憶と知識だけが、美しい肉人形に残された。
少女に自我はなかったけれど、突如として脳に発生した膨大すぎる記憶と経験が、新しい自我を形成してしまった。博士であって博士ではない、全く新しい人間がここに誕生してしまった。
そしてラジエラは知る。『前世』が成したあまりにも膨大な罪、積み上げた屍と数え切れぬ悲劇を。
何も知らなかった無垢な白紙は突如として罪悪感のインクを垂らされ、真っ黒に染まった。
不快感。自分は罪人で、世界中から死を願われる悪人で、生きていることは罪で、生きていてはいけなくて、居なくなった方がよくて、どこにも居場所はなくて、誰かから許されることは決してない。絶望感。自己否定。自己嫌悪。少女は泣き叫び、顔や喉を血が出るまで掻き毟り、不快感に吐き戻し、泣いて泣いて、泣き続けた。
「違う! 私がやったんじゃない!」――本当はわかっている、『自分』がやった数多の災禍を一つ残らず覚えている。
「私はロキ博士じゃない!」――本当はわかっている、自分の脳に存在しているのは、確かにロキ博士の記憶と経験。
「違う、違うの! 私は何もやってない! 私は悪くない! 私はただ生まれただけなの!」――本当はわかっている、記憶と経験を完全に受け継いだ自分は、ロキ博士なのだ。
耐えきれなかった。
自分は誰かから愛されることは決してないだろう。世界中から、否定という剣で刺され続ける運命にある。どれだけ殺した? どれだけ壊した? どれだけ奪った? 最早「ごめんなさい」では許されない罪だけがそこにある。
「許して……許して……お願い……私じゃないの……私は……誰か助けて……誰か……ゆるして……」
罪悪感のままに自傷をして、白い肌のあちこちから血を流して、少女は無人のラボを這いずった。
耐えきれない。この罪の苦しさに耐えられない。ぼろぼろ泣いて、爪の剥げた手を伸ばして、ありもしない救いを求めた。
結論から言うと、どれだけ泣いても助けは来なかった。泣いたら助けてもらえるのは、正しく清く、そして愛され許された人間だけなのだ。存在していい人間だけなのだ。泣くだけ無駄なのだ、いてはいけない人間は。泣いてはならないのだ。いてはいけない人間だから。
――死のう。
それが唯一の救いだ。解放されたい、この苦しみから。
だけどそれと同時に存在しているのは。
――死にたくない。許されたい。生きていたい。どうして何もしていないのに死なねばならないのか。
死とは何か。世界一の叡智が刻み込まれた脳を使い、少女は考える。
死とは救済だろうか。いいや、死とは終焉だ。魂だの天国地獄だの生まれ変わりだのは存在しない。ただ、そこで全てが終わるのだ。
少女は恐怖した。他人の経験しかないまま、自分で築いた何かがないまま、何もないまま体験しないまま、ただただ消滅することを。――そして、そんなことを考える自分に対して「なんて身勝手で愚かしいのだろう」と嫌悪感を抱いた。しかし一方で、自分の為に死ぬことは無責任な独り善がりだと感じた。
――自分のような人間が、簡単に死んで、許されるものか。
報いを受けるべきだ。できるかぎり苦しむべきだ。ではどうやって?
――生きよう。生きていることがこんなに苦しく、絶望的ならば。
自分の苦しみを一秒でも長引かせることこそ、相応しい罰だ。
――「ただ生きたいだけの口実なんだろう」。そんな心の声に、耳を塞いだ。
死ぬことを諦めた少女は、ロキ博士が用意していた真っ赤なドレスを身に纏う。博士の性自認は男だったが、「今回は男だったから、次は女として生きてみよう」と考えていたようだ。少女には、老人の酔狂が理解できなかった。
――ラジエラは全てを知っていた。
この無人島の数多の機能は、世間からロキ博士を護る為の防衛装置。時折、世界平和の為に博士を討ち取ろうと人々が挑んでくるから。
その防衛装置は『ステゴロ条約』を無視していた。――滅んだ世界から立ち上がる為に、人々が大きな勇気と覚悟を持って踏み出した軍縮ルールだ。戦後の疑心暗鬼の中で、武器を手放すことにどれだけ人々は恐怖に駆られたことだろう。だがそれを乗り越え、未来を信じて、結ばれた条約。――そんな尊いルールを、博士は蔑ろにしている。
なのでラジエラは、ステゴロ条約に則って島の武装を解除した。残したのは、人々が用いるのと同じ巨大ロボット、またの名を弩級人型クレーン。それに名前はなかった。ロキ博士は名前を考えるのを面倒臭がったから、ありとあらゆる兵器や道具に名前はなかった。なのでラジエラは、博士との決別の意も込めてその白いロボットに名前をつけてやることにした。
「――ウドン。最強無敵『ウ』ルトラスーパーハイパー超超超ゴッ『ド』神マ『ン』、でウドン」
次に少女は、自分の名前をつけることにした。膨大な知識の中に一つ、ピンとひっかかったのは天使ラジエルの項目。全ての叡智を収めた書物を持つというその天使に、博士の叡智が収められた脳を持つ己を、重ねた。ゆえに――『ラジエラ』。別にウドンのように凝ったかっこいい名前じゃなくていい。その日から、少女はロキ博士と己は別人格であることを主張するように、そう名乗り始めた。
そうして。
ラジエラは世界で一番悪い女として、今日まで『生きて/自分を罰し続けて』きた。
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