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●1:ハローサイアク
「起きて」
淑やかな乙女の声がした。落ち着いた、物静かな、薔薇というより百合、百合というより椿のような声だった。
起きてと言われた『彼』は、自分が目を閉じていることに気付いた。「ああ、それで『起きて』と言われたのか」と理解した。
……はて、ところでこの乙女の声は誰のものだろう。
全く聞き覚えのない声だった。声の主を確かめる為にも、男は目を開いた――。
「おはよう」
男を見下ろしていたのは、深紅のパーティードレスにレースのボレロを着た乙女だった。濡れたようなしっとりとした短い黒髪に、長い睫毛に囲まれた、鮮やかなマゼンタの重たげな瞳。表情筋が仕事をしていない無表情、薄い唇。すらりとした細身に、太陽と縁遠そうな淡い肌。
知らない乙女だった。
「……は?」
男は疑問でいっぱいになった――まず視覚。水の底から件の乙女を寝そべって見上げている体勢で、自分が水没していることに気付いた彼は、「溺れる!」と反射的な驚きで上体を起こす。
ざばあ、と水の音がして……男は自分が巨大な水槽に横たわっていたことを知った。
次に、周囲の空間が機械だらけのだだっ広い空間であることを知った。
そして、自分の身体が巨大なロボット――例の乙女を片掌で簡単に包めるぐらいの大きさ――であることを知った。
なぜ自分がロボットであることを分かったのかというと、手も脚も胴も蝋のような曇白の金属装甲に覆われていたからだ。コンパクトな胴体に長い手足はある種エイリアンのよう。四肢は重厚な装甲で覆われており、どっしりとしていた。
おずおずと自分の両手を見る。鉤爪のようなマニピュレータは小指がなく、4本指で、手の甲は鋭く前方にせり出して拳を保護するような形状になっている。
男は4本指で自分の顔をペタペタ触った。硬い。金属の凹凸。鼻も口もない。目玉の代わりにモノアイカメラが眉間にあたる場所についていた。
「なッ、なんだあこの身体はーーーッ!?」
自分はロボットではない、人間だったはずだ、自分はこんな身体ではなかった、男の記憶は確かにそう告げている。
(だって俺は――)
そう考えたところで、彼は自分の記憶が失われていることに気付いた。自分の名前も、顔も、どこから来たのかも、なぜロボットになっているのかも、何も覚えていなかったのだ。
「お、おい! なんっ……何なんだ、どういうことなんだ、アンタ誰なんだ! 俺は一体!」
分からないが多すぎて、何から尋ねていいのか分からない。男は混乱していた。
水槽を覗き込んでいた乙女は、緩く首を傾げた。短い黒髪から覗く細長いピアスが揺れて、キラリと光った。
「最強無敵ウルトラスーパーハイパー超超超ゴッド神マン」
「……なんだって?」
「通称ウドン。あなたの機体名」
「ごめん待って……何?」
「最強無敵『ウ』ルトラスーパーハイパー超超超ゴッ『ド』神マ『ン』、でウドン」
「ネーミングセンス男子小学生?」
「かっこいいでしょう」
「そうかなあ!?」
「ウドンのことは知ってるけど、ウドンに組み込んだ生体ユニット、『あなた』の脳の中身については知らない。あなた誰? 何しに来たの?」
「俺が聞きたいんだが!? 俺は誰で、なんでこんなことになってるんだ!?」
「あ……脳の損傷が激しかったから、もしかしてとは思ったけど……記憶飛んでるみたいだね」
「さっきから物騒なワードしか聞こえんのだが!?」
「あなたを安心させる為に言うけど、ドログチャで瀕死だったあなたの肉体から脳を摘出してウドンに組み込んで延命させたのは私。私はあなたを死なせるのが可哀想だから助けた。敵じゃなくて味方。だからいいこにしてね。言うのが遅くなったけど私の名前はラジエラ、よろしく」
相変わらず無表情で、淡々と、乙女――ラジエラはそう言った。男には反論材料も、ラジエラの言葉が嘘か真か確かめる手段もなく、押し黙ることで肯定に似たニュアンスを返すことしかできなかった。
「お名前。覚えてない?」
続けられた質問。男はコクリと頷いた。ラジエラは顎にしららかな指先を添えて、少し考えて――
「『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる』……偉い人がそう言ってた。記憶がないあなたにピッタリだと思わない? その人の名前はマタイオス。だから便宜上、あなたのことを――」
(マタイオスって呼ぶのか?)
「しげみちと呼びます」
「なんでだよマタイオスでお願いします」
「ところで襲撃者が来たから迎撃してくれる?」
「あ゛!?」
何の理解も追いついていない。その時にはもう、『水槽』の水が栓の抜けたバスタブのように水位を下げていって――ピョンとラジエラが飛び降りてきた。
「おいッ――あっ、ぶないな!?」
思わず手で受け止める。ふわり、赤いスカートが揺れる。見上げる乙女と視線が合う。
「いいキャッチ。じゃ上いこっか」
次の瞬間、マタイオスがいる場所が勢いよくせり上がった。フリーフォールめいた速度と浮遊感に「ぎゃあああああ」と男は悲鳴を上げた。
天井、に、ぶつかる――かと思いきや、天井がハッチのように開き――眩い光――男は晴天の下に放り出された。アイドルのライブで、舞台からアイドルがせり上がってジャンプして登場する演出を思い出しながら(そしてそれより先に思い出すことがあるやろがいと思いながら)、どうにかこうにか着地をする。ラジエラが揺れで落ちないようしっかり胸元で抱えて護った状態。
「ハァッ……ハァッ……おまッ……一体どういう……」
ハァハァする肺なんてないのに、気分的に心拍数が爆上げした。ここはどこだと周囲を見回す――マタイオスがいるのは砂浜の上で、すぐそばに波打ち際と海が見えて、周囲はまるで牧歌的な南国を思わせる小島で、ヤシ(あるいはココナッツ)の木が揺れていて、ポツンとコテージのような洒落た家が建っていた。人工物はそれしかなかった。これだけならばリゾート地だ。
島から水平線の方に目をやれば、波打ち際からモンサンミシェルのそれのように、砂の道が細く続いているのを見つけた。その果てを目で追っていけば、だだっ広く何もない砂浜の小島がある。
「あそこに向かって。決闘島って呼んでる」
ラジエラがその島を指さす。「決闘ぉ?」と、マタイオスは人間だったなら片眉を上げていただろう。
「とりあえず襲撃者をやっつけたら、ゆっくりじっくり知ってることは全部話してあげるから。今はちょっと丁寧に説明してる時間がない」
質問と疑問をぶつけることしかできないマタイオスに対し、ラジエラは冷静に言った。マタイオスは溜息を吐こうとして、肺と口がないのでできなかった。
「……信じていいんだよな?」
「寧ろ、今のあなたに私以外に信じられるモノってあるの? 神様とか?」
「神様、ねえ……信じられたらよかったんだがねえ……」
神という言葉にピンとくるものはなかった。それどころか、そんなものは己を助けてはくれないものだと卑屈的な感覚すらあった。つまりマタイオスは、今は、どうにもこうにも、ラジエラの言うことを聞くしか道はなさそうだ。
――なにせ、『襲撃者』が空の向こうから飛んでくるのが見えた。
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