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こんなお洒落なカフェで人をぶん殴ってもいいのだろうか、と私は少し躊躇し始めたが、彼が立ち上がって少し歯を食いしばっているようなので、引き返すわけにはいかないようだ。私も立ち上がり、勇気を出そうとしたその時だった。
「いい加減にしろよ」
怒鳴り声が聞こえてきた。さっきも怒鳴っていた、奥のテーブルに座る四十歳くらいの男だった。どうやら、まだ注文したものが届いていなかったらしい。
「すみません、すみません。すぐにお出ししますので」
と、さっき水をこぼした若い店員が、土下座する勢いで、男に近づいていく。男は立ち上がり、
「歯、食いしばれ」
と言った。目には、確かな怒りがこもっていた。店員は覚悟を決めたように歯をグッと口の中で食いしばり、目を閉じた。
次の瞬間、恐ろしい速度の拳骨が店員の頬を打ったのだが、その時聞こえてきたのは、バキッという、硬い機械を殴ったような音だった。
「本当にぶつなんて、酷い」
すると今度は、店員が我を忘れたように、なんと客を思い切り殴り返した。自分がやられたのと同じように相手の頬を殴りつけ、その客からも、ボコッという硬い音が店内に響いた。
二人ともが、ロボットだったようだ。
奥から出てきた別の店員が二人を止めに入ったのだが、なぜかその店員も激情する二人からたこ殴りにされ、ガキッ、ボキッ、という音が鳴った。二人に殴られまくった店員はわけがわからなくなったのか、一人で読書していた二十歳くらいの客を殴り、その客からもバコッという音が鳴った。どれも、普通の人間からは聞こえない、硬さをはらんだ音だった。
「どうやら、この店にいた人は、全員がロボットだったみたいだね」
私の正面に立つ彼が、綺麗な微笑ではなく、苦笑いをしながらそう言う。
他の客はどうでもいいが、彼だけは人間であって欲しい、と私は心から願った。彼にはいい意味で、機械のような完璧さがある。だから逆に考えてみれば、人間らしさを追い求めるロボットたちの思想には反しているのではないだろうか。ロボットのように完璧な人間に、私は奇跡的に出会えたのではないだろうか。そんな期待を込めて、手が出せないままで私は彼を見つめる。
「どうした? 殴らないの?」
このまま彼がロボットか人間かわからないままで付き合う方が、賢い選択なのではないだろうか、と私はそんな考えが一瞬だけ頭を掠める。いや、もしかしたらロボットかもしれないと内心で疑いながら一緒にいるなんて相手に失礼だし、自分が心から幸福を感じることもきっとできないはずだ。だったらここはやはり、拳骨により白黒をつけるしかないようだ。
「ぶん殴るよ」
私は覚悟を決めた。
思い切り、彼の顔面をぶん殴った。
なんとも残念なことに、ガキッという、人間を殴った時には絶対に聞こえない、悲しい音が響いた。
「やっぱり、ロボットだったんだね」
私が言うと、彼は微笑をやめた、暗い表情で、
「そうだったのか」
と呟いた。
「自分でも、ロボットだって、知らなかったの?」
「ああ、忘れてたみたいだ」
「それは、悪いことしたね」
「気にしなくてもいいよ。痛みも全く感じなかったし。僕はロボットだったんだね」
しばらく黙ったあと、
「もう、帰ろうか」
と絞り出したように、彼が言った。
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