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 「夏」といえば、海やスイカ、花火など明るいイメージがあるけれど、わたしが「夏」と聞いて連想するのは、七夕の夜に行われる「願い奉納祭」だ。当日の放課後に宗教施設に集められた子どもたちは、奉納祭の準備に参加する。私の担当は、カラフルな画用紙をひたすら人型に切っていく作業だった。同じ係の子たちと無言ではさみを入れ続け、五百枚以上の短冊を作る。出来上がった分をアルミの箱に入れて会場に持っていくと、信者たちが一人一枚(妊婦は二枚)を受け取り、各自願い事を書いていくのだ。夜になると、無数の短冊が掛けられた笹の葉を囲んで大きな輪になって皆で座り、目を閉じて輝子様からのお言葉を聞く。そのあと十五分間の瞑想をし、ラストは大量の人型が揺れる大きな笹に火を放つ。その周りを神主である輝子様の父親がくるくると移動しながら、「願いの舞」を踊る。わたしたちはそれを見つめながら、空に昇っていく煙に向かって手を合わすのだ。  その間誰も話さないし、誰も笑わない。終始、無表情で行われるこのイベントはとても気味が悪いので、何度参加しても慣れなかった。あと一ヵ月もしたらまたあのイベントが来るのかと思うと、いまから憂鬱になってくる。 校門を出た辺りからママがわたしをつけていたようだ。二つ目の横断歩道で止まったときに気が付いた。ママも自転車に乗っている。このままだと、わたしたちの家まで付いてきそうな気がしたから、近くの公園に入ってベンチに腰を下ろした。ママが少し遅れて現れて、ゆっくりと隣に座る。 「ママ、わたしは、はーちゃんと暮らすよ。」 「そう。」 「うん。」 「夏、ところで来週の金曜の夜空いてる?」 「何で。」 「新規向けの講演会任されてるから、受付手伝ってほしい。他に頼める人いないからお願い。」  ママは嘘つきだ。頼める人なんていくらでもいる。 「夏じゃないとダメなのよ。」  ほら来た。ママはずるい。わたしは小さい頃からずっと「あなたは神様に選ばれて、この世に生を受けた特別な存在」だと育てられてきた。周りの頭の悪い子とは違うのだから、仲良くする必要はないとも言われた。わたしに何かを頼むとき、ママは必ず「夏にしかできない」とか「夏じゃないとダメ」と強調した。昔はその言葉が心から嬉しかった。あの頃わたしはママのことを信じていたのだ。  ずるいって言いたかったけど、今日も声にはならなかった。ママは、黙っているわたしの肩にそっと触れて立ち上がり、「受付代は、一万円渡すからね。」と言った。  気分がどんよりと沈んでしまって、自転車を押してとぼとぼと家へ帰った。わたしは、はーちゃんと違って、ママを拒絶することができなかった。ママが宗教にハマったことでうちの家族は孤立したし、それでわたしたちが不幸になったのは紛れもない事実だ。はーちゃんとわたしの家族観や人生観に良くも悪くもかなりの影響を与えていると思う。でも、ママは揺るぎなく信じているものがあるから前向きで、努力家で、何があってもへこたれない。そして、こんな環境になったことを誰のせいにもしていない。自己責任で、今も信仰を続けている。だから、味方になってあげられる身内が誰もいないのなら、わたしだけはママの理解者になってあげたいと心のどこかで思っていた。はーちゃんが、二人で一緒に暮らそうと言ってくれた日のことを思い出す。 「夏。わたしたちは、ママを見捨てるんじゃない。自分の幸せを選ぶんだよ。それは当たり前に持ってるわたしたちの権利だ。」  はーちゃんの気持ちも大事にしたいし、正しいことを言っているのも理解しているから、悩んだけどわたしもママと距離を取ることにした。  視線を感じて顔を上げると、橘さんがブランコから立ち上がってじっとこちらを見ていたので、わたしは自転車を支えながらその場に固まった。今日の橘さんはパープルのフリルがついたシャツを着ている。橘さんがわたしの顔を見ながら縁側に向かって歩いていったので茫然としていると、また現れてブランコの上に何かを置いた。わたしと再び目を合わすと、今度こそ家の中へ入っていった。何がなんだかわからなかったけれど、橘さんが置いたものが気になったので、おそるおそる庭の中へ入った。黄色いブランコの上には、「あひる」という題名の文庫本が置かれていた。  その日の夜、ママの夢を見た。ママは、少女漫画の雑誌を片手にわたしを泥棒呼ばわりする。何度も繰り返し責められているうちに、ママの姿が紫色の蛇になって、これなら勝てると思ったわたしは、思い切りジャンプして両足でママを踏んだ。プシュウって空気が抜けるような音がして、目が覚める。低学年の頃、ママに漫画雑誌「りぼん」で実際に怒られたのを思い出した。クラスメイトがもう読んだからいらないと言うので、もらってきたものだ。ママは、話も聞かずにわたしを怒鳴った。Rちゃんはもう読んだってと伝えたら、「運気が下がるから、早く返しに行きなさい。」と無理やり家の外に出された。どうしたら良いのかわからなくて、泣きながらRちゃんの家に向かったけど、結局その途中の空き地に捨てて帰ったのだった。  眠れなさそうだったので、「あひる」という小説を読んでみることにした。橘さんの承諾を取らずに持って帰ってきてしまったので、できるだけ早めに返した方が良いだろう。緊張しながら本を開いたけれど、冒頭から引き込まれた。平易な文体だから読みやすくて、どんどんページをめくっていける。決して見てはいけない他人の闇や本性をすごく近くでのぞき見しているような奇妙な気持ちになってきて、心がざらざらとした。それから「代替可能な存在」について考えさせられた。愛着も執着もただの自己満足なのだと思えてくる。 最後の一文の「庭にブランコを置くのだそうだ。」を読んだ瞬間、黄色のブランコに座る橘さんの姿が浮かび上がって、思わず文庫本を手から落としてしまった。  あれから浅沼さんは、週に三回ぐらい我が家に遊びに来てくれていた。はーちゃんが仕事の間にわたしの勉強を見てくれたり、スプラトゥーンで対戦したり、いつの間にか本当のお兄ちゃんみたいだった。はーちゃんは高校卒業と同時に働き始めたけれど、わたしは大学に行きたかったから、昔から勉強だけは頑張ってきた。そのことを浅沼さんに話したら、はーちゃんがわたしを大学に行かせたいと思っていることを知る。心がきゅうっと絞られるような切ない気持ちになった。はーちゃんは、いつも自分のことよりわたしのことを考えてくれている。 「僕は、これからもずっと春ちゃんと一緒にいたいと思ってるから、夏ちゃんの学費については僕からも支援させてもらおうと思ってるよ。」 「そんなの悪いです。大丈夫です。奨学金使ってあとで自分で返すから。」 「奨学金も選択肢のひとつだけど、とにかくお金について不安になることはないからね。夏ちゃんが行きたい大学に行こう。」  二人ともどうしてこんなに優しいんだろうと思う。はーちゃんだって姉ではあるけど、わたしの学費を払う義務なんてないはずだ。小さい頃からたくさん我慢してきたのだから、はーちゃんの稼いだお金は、はーちゃんのために使ってほしい。 「はーちゃんと、結婚とか考えたりしてるの?」  浅沼さんは背筋を少し正したあと、言葉を選んでいるのか少し黙ってから、 「婚姻という形は取らないかもしれないけど、ずっと一緒にいたいと思ってるよ。」 「それって事実婚ってやつ?」 「そうだね。」  わたしは心の中がざわざわした。 「はーちゃんが宗教二世だから?」  浅沼さんは、ほんの少しだけ悲しそうな目をしたけど、すぐにいつもの優しい顔に戻った。 「宗教のことは、お互いの家族も関わってくるから慎重に考えないといけない問題だとは思う。でも、それ以上に僕は春ちゃんの気持ちを大事にしたい。」  「春ちゃんの気持ち」と言われてもわからなかったし、いまは想像するのもしんどかった。はーちゃんは自立してもう立派な社会人だけど、まだまだ全然自由じゃないのだ。 「浅沼さんは、何か信じてるものってあったりする?」 「うーん。そうだな。」  浅沼さんは少し考えたあと、 「僕は、音楽を信じてるよ。」 「音楽?」 「うん。エルレの「風の日」っていう歌があるんだけど、その歌を聴いたときに、ああ生きていけるなって思ったんだ。この歌があれば僕はもう大丈夫だって。」 「どういうこと?」 「良かったら聞いてみる?」  わたしがこくりと頷くと、浅沼さんはタブレットでYoutubeを開いて歌詞付きの動画を検索してくれた。誰かに勧められて曲を聴くのは初めてだったからちょっと緊張した。  再生ボタンが押され、ギターの音が鳴る。イントロからぐっと引き込まれた。繊細で清涼な声がわたしに打ち明けるように語りかける。「僕だっていつもピエロみたいに笑えるわけじゃないから」という歌詞が聞こえてどきりとした。サビは人間を肯定して、背中を押してくれるような力強いものだった。我慢していたけど、二番の歌詞の途中でわたしはぼろぼろと泣いた。浅沼さんは何も言わずに最後まで一緒に聴いてくれた。 「ごめん、泣いて。わたしそんな泣かないんだけど。何か……全然、違うんだよ?同じわけないんだよ?でも……でも、この曲はわたしのことを歌ってるって思った。だから、びっくりしたし、嬉しいし、安心したら涙出てきた。」 「うん。わかるよ、その感覚。僕はこの歌の「雨の日には濡れて、晴れた日には乾いて、寒い日には震えてるのは当たり前だろ」っていう歌詞にすごく救われたんだ。昔から元気をもらいたいときは、必ずこの歌を聴いてる。」 「ボーカルの人、すごくいい声だね。教えてくれてありがと。」 「いいえ。夏ちゃんの好きな「わたしは最強」も聴こうよ。」  タブレットに触れている浅沼さんの横顔を見つめた。いつも優しくて頼りになる浅沼さんにも、人に言えない悩みとか眠れない夜があるんだよね。 僕は、音楽を信じてるよ。 浅沼さんの言葉が心の中に何回も響いていた。
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