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 何百人もの信者予備軍を前に、自信に満ち溢れた顔でスピーチをするママはまさに女優だ。講演会でママが語っていることは、ママのこれまでの人生ではない。全て輝子様が作った台本である。協会で開発している商品がどれほど素晴らしいか。またその素晴らしい商品を広めることで得た成功やお金や名誉、人生の幸せについて、ママは情熱的に他人の言葉で語り続ける。どうして輝子様が、いち信者に過ぎなかったママを幹部にしたのかはわからないけれど、内部の人間になったことで献金は止まった。それが良かったのか、逆に手遅れなのかはわからない。 「浅沼さんのことは好き。でも、結婚は全く考えてない。」  昨日、浅沼さんに教えてもらったエルレの曲が最高なんだって話をしたときに、唐突にはーちゃんがそう言った。驚いたけど、どうしてとは聞かない。宗教の教えとしては、学生時代は恋愛禁止で、二十歳になったら信者家族との交流会で相手を見つけるという運びになっている。はーちゃんは、高校を卒業してから一度も集会には出ていないけれど、どういう状態になったら宗教から抜けたことになるのか、わたしたちにはわからなかった。小さい頃から教え込まれた価値観なので、それに逆らうことは少なからず罪悪感がつきまとう。 「でも、はーちゃんがしたいと思ったら、わたしは結婚してもいいと思う。」 「ううん。結婚はしないよ。誰とも。でも、こんなわたしを変えるぐらい愛する人ができたときは、」  はーちゃんは、一呼吸置いた。 「わたしは、堀越家と縁を切る。」  言葉を失っているわたしの頭を撫でて、 「ああ。ごめん。夏、そんな顔しないで。大丈夫。結婚しないから。」  頑張って笑っているはーちゃんに、わたしは何も言ってあげられなかった。  受付の片付けを始める。次は、講演後に渡すサンプリングや教会のパンフレットの準備だ。わたしのポケットには一万円が入っていた。はーちゃんに何か買って帰ろうと思った。 「鏡子(かがみこ)さんの娘さんですか。」  顔を上げると、三十代ぐらいのスーツの女性が立っていた。胸元には会員の証である銀のバッチがついている。「鏡子」というのは、教会でのママの通名だ。その人は、目を輝かせながらママに憧れていると言い、わたしに握手を求めてきた。戸惑っていると、そっと右手をさらわれて、柔らかい両手に包まれる。女性はわたしに深くお辞儀をしてから、会場の中へ入っていった。扉が開いた瞬間、大きな拍手と歓声が聞こえた。その中心に立っているであろうママは、今どんな顔をしているのだろう。  エンゼルフレンチとポンデリングを買って家に帰ると、はーちゃんの靴があった。部屋をノックして「ただいま」と声をかけたけど、返答がなかったから開ける。ソファの真ん中で三角座りをしているはーちゃんの背中が見えた。暗すぎるから、わたしが電気をつけたら、はーちゃんが「あ、夏おかえり。」と振り返った。 「はーちゃん、何かあった?」 「え?ああ、えーと。うーん。」  わたしは、ソファの前にまわってはーちゃんの顔を覗き込んだ。 「何かあったならわたしに言って。ちゃんと聞くから。」 「ありがとう。うん。」  はーちゃんがソファの右側へ寄ってくれたから、わたしは隣に座った。 「実は、心療内科のクリニックに相談に行ってきたんだ。」 「はーちゃん今しんどいの?」 「ううん。ママのことで。宗教もさ、ある種の依存じゃん。だから、誰にでもありうることなのかなって思って。アルコール依存症とかパチンコ依存症とかと同じで、治療することってできないのかなって思ったんだ。」 「そうなんだ。確かにママは宗教に依存してるし、かなり盲目な状態だよね。」 「そうだね。催眠にかかってる状態とも言える。だから、目を覚まさせるというか、そういうことが医療の力でできないかなって思った。」 「それは考えたことなかった。」 「うん。でもさ、「何かを妄信している状態」から解放するのは、慎重に進めないといけないし、かなり時間がかかるんだって。それにリスクも大きいって言われた。目が覚めるってことは、これまで自分がしてきた行動とか生き方が間違いだったって、大きなショックを受ける可能性があって、そのことでママが自尊心を失ったり、心が壊れてしまうかもしれないって言われた。」 「そうなんだ……。」 はーちゃんはうなだれて、ふうとため息をついた。 「わたしね、その話を聞いて、正直責任取れないなって思った。」 「うん……そうだよね。」 「いや、違うな。ママのことで自分は責任を負いたくないって思ったんだ。」 「うん。」 「情けないけど、怖いんだよ。ママのことが。」  ママのことが怖い。その気持ちは、わたしにもよく分かる。何かを強く信じている人を見ると、すごいなっていう気持ちと同時にその盲目さが怖くなる。「信じる」という行為には、大きな「願い」が込められている。信じる対象が、「自分が信じるに値する存在であってほしい」という願いがたんまりと。だから、その願いが強ければ強いほど、頑なになっていくような気がする。 「それにね、宗教にハマる前のママがどんなだったか、わたし全然思い出せないし。男好きな人だったなっていうイメージしかない。」  そういえば、ママは昔の話をすることがあっても、そのすべてがガーベラのスカートをはいたあと、つまり輝子様に出会ってからの話だった。私の前で、ママから男の話が出たことはない。 「わたしの中でも、ママはもう今のママしか残ってないんだよね。だから、ママにこれからどうなって欲しいのかもよく分からなくなってて。」 「うん。」  はーちゃんは小さな子が何かを拒絶するみたいに首を大きく横に振った。 「本当はわたしだって、ママが信じてるものを信じてあげたいよ。ママの人生を肯定してあげたい。だって、娘だもん。ママは男に依存してるし、不安定で危うい女だったけど、あのスカートをはいた日に無敵になった。まっすぐに自分が決めた道を突き進める女に変わった。でもね、ずっと思ってた。どうしてあのとき、ママを強くしたのが輝子様だったんだって。わたしじゃダメだったのかな。ママが、わたしっていう一人娘のために強くなることができなかったのはどうしてなのかな。輝子様は、精神的に弱ってたママに付け込んだだけじゃん。こんなのおかしいでしょ。輝子様を殺してやりたいって思ったことある。夢の中では何回も殺してる。でも、わたしたちの人生めちゃくちゃにした女のせいで、自分のこれからの人生までつぶすのは悔しいしさ、何かバカバカしいし、そんなのありえないから。だから……わたしは……」 「うん。」 「だから、夏、ごめんね。わたしママに会いたくない。もしかしたら、ずっと無理かもしれない。ごめん。」 「……謝らないでいいよ。」  はーちゃんの背中をさする。 「大丈夫。」  心がぐらぐらするのをこらえる。はーちゃんが弱っているときは、わたしがしっかりするんだ。 「はーちゃんの気持ちの方が大事だ。」  大丈夫、大丈夫って、はーちゃんを励まし続けたけど、途中からその言葉が何となくはーちゃんを責めているような気がして何も言えなくなってしまったから、わたしは浅沼さんに連絡を入れた。「HELP ME!」と叫んでいるムンクの叫び風のスタンプを送る。すぐに既読がついた。「待ってて。」と返信が来る。その言葉だけではっと現実に戻り、わたしは眠気覚ましの辛いガムを食べたときみたいにしゃきっとできた。浅沼さんはすごい。まるでスーパーマンみたいだ。ヘルプ・ミーと心の中で言ってみる。ヘルプ・ミー。ヘルプ・アス。  わたしを救えるのは、誰だろう。
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