魔王の使い

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 爪が黒い彼の手を「怖い」と思ってから、私は手を震わせながら重ねた。  魔族の手なのに、触ってみると思っていたより人の手に近い。……いや、人の手そのものといえる。  意外さを感じながら、私は馬車のステップを上がる。  すると背後から聞こえる泣き声が、いっそう大きくなった。  ありがとう。皆の事は忘れない。  この十八年、私を育ててくれたシスター、家族となってくれた皆、そして見守ってくれた村の人たちのためになるなら……。  馬車のシートに腰かけると、ドアが静かに閉められた。  窓の向こうで私を遠巻きに見ている皆を見て、ボロッと涙が零れた。  嫌だ……! 怖い!  皆のためなら我慢できる、犠牲になれるって思っていた。  ――でも、やっぱり怖い!  シスターたちを困らせないために大人ぶっていたけど、私だってまだやりたい事がある! もっと皆と一緒にいたい! 「シスター!」  叫んだ瞬間、車輪の炎が燃え上がり、私は悲鳴を上げて馬車の内側に逃げた。 「シスター! 怖いよ! 助けて!」  泣き叫んでドアを叩こうにも、すぐ外で炎が燃えさかっているので近寄れない。  先ほどは近づいても熱くなかったけれど、魔法の炎に触れても大丈夫かなんて、魔族にしか分からない。  御者台に執事魔族が座り、手綱を握った。  すると四頭の黒馬に炎の翼が生え、さらなる変化に怯えた村人たちは、悲鳴を上げて逃げていった。  馬車が音もなく進んだかと思うと、フワッと浮いて私はまた悲鳴を上げた。  そしてすがるように、窓から外を見る。  馬車はぐんぐん高度を増していて、眼下には走って逃げる人、こちらを見上げている人たちが見えた。  その中に、祈りを捧げているシスターサマンサの姿があった。 「シスター!」  叫んだけれど、その声が届く事はない。  窓の外は雲に包まれて、真っ白になった。 **  馬車に乗った時の効果音は、ガタゴトガタゴト……だったと思う。  少なくとも私の知る馬車はそうだ。  隣村まで行く時、干し草を積んだ馬車の荷台に乗せてもらっていた。  あの時の振動が、今はない。  馬車は空を滑らかに飛び、雲の上まで高度を上げたので、窓の外は一面の夜空だ。  私は最初、絶望して顔を覆って泣いていた。  けれど泣いても泣いてもどうにもならないと思った頃、ぼんやりと窓の外を見る。 「……綺麗」  これから魔王の前に捧げられ、絶望に彩られているはずなのに、私は煌めく星々を前にして静かな感動を得ていた。  村にいた時だって美しい星空を見上げていたけれど、空を飛びながら星々を見るなんて勿論体験した事がない。  燃えている車輪を初めは警戒していたけれど、少しずつ窓際に寄ってみても熱くないと分かり、私はしばらく星空を見ていた。  シスタージェシカに教えてもらった星座の名前を思いだし、基づいた神話や神々の名前も脳内に出てくる。 (あの時は神様なんて、おとぎ話の中の存在って思っていたのに。……日々祈りを捧げていても、本当は存在するのかどうかすら分からなかった)  そう思う私は、神学校に入る資格がない。  神様はそんな私の心を見抜いたからこそ、こんな試練をお与えになったのだろうか。  しばらく夜空を見たあと、私は馬車の中に注目した。  シートは向かい合わせではなく、前方を向いた席があるのみだ。  前方の壁には、折りたたみ式のテーブルがあり、小さな引き出しの中には筆記道具にハンカチなどの小物が入っている。  沢山泣いたので、そのハンカチを拝借して涙を拭った。  馬車の天井からは星の形をしたランプが下がり、その中で火がチラチラ燃えている。  よく見ると蝋燭がある訳ではなく、魔法の火だと分かった。  そっとランプに手を近づけてみたけれど、掌を焦がすような熱さは感じない。  ほんの少しぬくもりがあるな、と思う程度だ。  馬車の中にはキャビネットがあり、中にはピカピカに磨き上げられたグラスと、綺麗な色をした液体がデキャンタに入っていた。  赤紫色をした物は、葡萄酒かな?  とても綺麗な色でほんのり発光しているように感じられる。  でも魔法が関わっている物を口にするつもりになれず、私は窓の外をボーッと見たまま過ごしていた。  それから、どれだけ経っただろう。  私は窓際によってずっと夜空を見ていた。  でも美しいけれど変わり映えのない景色なので、少し飽きを感じていた。  馬車がちっとも揺れない事もあり、あろう事か眠気すら感じて、コックリ舟を漕ぎゴツンと窓に額をぶつけた時――。 「あれ……?」  窓に顔を近づけていたからか、前方の景色が見える。  地上は黒々とした山脈が続いていて、その間に川とおぼしき微かに煌めくものがある。  その遙か向こうに、ぽっかりとした空間があった。  尖った山の峰が続いている中に、クレーターのように平らになっている部分がある。  そこには湖があり、月光を浴びてキラキラ光っている。カルデラ湖だ。  さらにその湖の上に、巨大なシルエットが浮かんでいた。  初めはそれが何なのか分からなかったけれど、次第に理解して私は思わず呟く。 「……嘘でしょ」 〝それ〟は大きな城だった。  近づくにつれ、尖塔やドーム状の屋根などが確認できたので間違いない。  城の底――本来なら地面に接している部分は、尖った岩が生えていた。 (あんなに大きなものが空に浮いているの?)  城の窓らしき穴からは、温かな色の光が漏れている。 「あれが……魔王の城? 人が住んでいるの?」  あの執事悪魔も、空飛ぶ馬車も炎に包まれた車輪も、何もかもが初めて見たものばかりだ。  シスターから教えられた魔族は、人を唆して契約をし、わざと破るように仕向けて魂を吸う存在だ。  誰に聞いてもそのような返事があり、決まり切っている。  だから逆に、皆詳しい事、本当の事は知らないのだろうと思っていた。  そんな中、実際に魔族の手を握ったのは、私だけなんじゃないだろうか?  ……過去に生贄となった人を除いて。  そして、架空の存在だと思っていた魔王に会うのも、生贄たちだけだ。 「……はぁ」  長い間、馬車や星空で気を抜かれていたけれど、また怖くなってきた。
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