M2 私を救えるのは私だけ(こぶしファクトリー『ナセバナル』より)

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M2 私を救えるのは私だけ(こぶしファクトリー『ナセバナル』より)

 さっきまでカリカリと数学のプリントの上を走らせていたシャープペンの音が止んだ。 「終わったのか?」  と隣に座るケンジに譜久村が問いかける。  洒落たスウェットを着たケンジは両腕を頭の後ろに組み、雨漏りの染みがついた天井を見上げていた。黒マスクを片耳にかけ、唇は真一文字になるほどぎゅっと結んでいる。  譜久村は座っていた椅子のキャスターを転がし、ケンジに近づいた。  二重窓の格子枠が机に十字の影を落とし、床から舞い上がる埃がきらきらと光に反射する。部屋に差し込む五月の光はあまりにも眩しすぎて、知らず知らずのうちに瞼が閉じそうになった。  耳を澄ますと、別室から元素記号を教える山下(やました)室長のしゃがれた声が響いてきた。四年前に校長を定年退職した山下敬三(けいぞう)は職場の責任者であり、譜久村のかつての上司でもある。もとは理科の教師だけあって、専門の教科になるとついつい熱が入るのだ。 「わからないところがあるんなら、教えようか?」  譜久村はケンジの前に置いてあったプリントを引き寄せ、空欄を探した。解答欄はすべて埋まっていた。  全問正解しているよ、とケンジは言い、椅子に掛けてあったリュックを背負う。 「俺、帰る」  今日の任務はこれで終了だ、と部屋から出ていこうとするケンジの後ろ姿に、譜久村は、なあ、卓球でもすっか、と声をかぶせた。  ケンジが振り向き、うん。やろ、やろ、と鼻の上に小さな皺を寄せる。 「じゃあ、先にホールへ行って卓球台を出しておいてくれ。オレはヘラと玉を持っていくから」  あ、卓球のことは斎藤(さいとう)先生に内緒なっ。譜久村は片目をつぶってケンジにサインを送り、事務室へ卓球の道具を取りに行った。  譜久村が山下室長に誘われ、通称「支援室」と呼ばれる、この「不登校対策支援室」に勤務したのは昨年のことである。「支援室」は不登校の生徒に対応するため、使われなくなった公民館の建物を利用して新十津川町教育委員会が設置した。学校に行けない子どもたちを預かり、担任の先生から出された課題を勉強したり、授業で遅れている分を職員が教えたりしている。  中学校の体育教師であった譜久村は五十歳を迎えた年に退職し、「不登校対策支援室」の嘱託職員になったのだった。  定年まで、あと十年。六十五歳まで定年が延長されるとも聞くから、あと十五年。とてもじゃないが、やれないと思った。マット運動で伸膝後転やロンダートを華麗にきめることはもうできない。部活の野球を指導していても、ベースランニングで生徒に抜かされるようになった。だが、そんなことに体育教師としてのプライドが許さなくなったわけではない。譜久村が教職を去ったのは、なによりも気力が失せたからだった。というか、これ以上教師を続けられないと思った。自分には教師をやる資格なんかないのだ、と。  しかし、思い切って退職したはいいものの、譜久村に新たな食い扶持の当てはなかった。  教師とは実につぶしが利かぬ職業で、ハローワークでも経験を生かせる仕事は見つからなかった。退職金を切り崩しながらコンビニでパートでもするかと思ったとき、山下室長に声をかけられたのだ。新十津川は自宅がある岩見沢から遠く、「支援室」の嘱託職員はコンビニで働くより給与が少なかったが、正午までに来てくれればいいと言われ、それならばと引き受けたのである。  譜久村がラケットとオレンジ色の卓球ボールを持ってホールに行くと、職員の斎藤孝明(たかあき)がいた。斎藤も退職校長で、山下室長と同い年の六十四歳だ。 「譜久村先生、勝手なことをされちゃ困るな」  明らかに不満そうな斎藤の顔を見て、譜久村は心の中で、あちゃ、と舌打ちした。できるだけ表情には出さないよう、「斎藤先生は午後からはお休みだったのでは?」と尋ねた。 「まるで休んだ方が良かったみたいな言い方だな」 「いえいえ、そういう意味ではなく……」  譜久村は斎藤が苦手だ。特にこういうタイプの元校長とは肌が合わない。硬いのだ。うんざりするほど、態度も考えも硬い。そのうえ、四名いる支援室の職員は譜久村を除いて、すべて元校長だった。そもそも教育委員会が所管する「不登校対策支援室」は定年退職した校長の再就職の場であった。 「こんなことをしている場合かね」  眉根を寄せながら斎藤は大げさに溜息をついた。  ホールにはネットを途中まで張りかけた卓球台があった。ケンジの姿はない。おそらく斎藤になにか言われて帰ったのだろうと、譜久村はすぐに察した。 「ケンジは今年、高校受験なんだ。早く勉強に慣れさせてやらないと、学校に復帰できないだろ。もう一年以上、学校へ行ってないんだから」 「一応、数学のプリントは済ませましたが」 「あれは中二の問題だろ。三年生なんだぞ」 「はあ」  譜久村は言葉を飲み込み、ラケットとボールを手にしたまま事務室へ引き返すことにした。本当は言いたいことが山ほどある。が、口にはしない。言ったとて、無駄だとわかっているからだ。  斎藤を背にしながら、譜久村は廊下を無言で歩いた。  妙に諦念している自分が悲しくもあり、もどかしくもある。若い頃は尖っていて、学校へ行くことがすべてじゃないでしょ、と喰ってかかっていたのに。 「江端(えばた)さんが、また来ているよ」  事務室へ戻ると、別室での指導を終えた山下室長が言った。「また」を強調する山下室長に、すいません、と譜久村は小さく頭を下げる。 「ケンジくん、帰ったみたいね。道路を走って行くのが見えたわ。今日の課題は終わったのかしら?」  パソコンに向かっていた原田(はらだ)璃子(りこ)がキーを叩く手を休め、目線を上げた。職員の原田も小学校の元女性校長だ。  胃の中に消化しきれない咀嚼物があるような言い方に、譜久村はまたもやうんざりした気分になる。彼女に返す言葉はただ一つ。「はあ」 「ケンジくんが帰ったから、今日の来所者は室長が担当している子だけになるわね。まあ不登校の生徒が減っているのはいいことなんだけど」  原田は休めていた手を動かし、マウスをクリックした。譜久村が横目で原田のパソコンを見ると、ヤフーショッピングの画面だった。  噛み合いそうもないふたりの遣り取りを見ていた山下室長が口を挟んだ。 「江端さんには外で待ってもらうようにした」話が長くならないために、と言い添える。  山下室長なりの配慮だと譜久村は思う。山下はそういう人だ。校長だったときも、教師たちのことを気遣ってくれた。そんな山下の人柄が好きだからこそ、自分はここに来たのだ。ただし、人がいいだけではダメだ。特に固定概念から抜け出せない校長たちの職場では。  譜久村は深く息を吐いた。  無性に煙草が吸いたくなる気持ちを抑えて、江端が待つ駐車場へと足を向ける。今日は気分が重くなることが多い。江端に会うと、きっとさらに重くなるだろう。  譜久村はもう一度、深く、静かに、息を吐いた。          *    譜久村が駐車場へ近づくと、煙草を吹かしながら待っている江端琢朗(たくろう)の姿が見えた。 「やあ、ふくちゃん!」  セレナに寄りかかって立っていた江端は譜久村を馴れ馴れしく呼んだ。人差し指と中指に煙草を挟みながらひょいと右手を挙げる。  セレナの車体には『希望の広場』と書かれた文字が赤、黄、緑、橙、青の五色でペイントされていた。 「感染が拡大してんだから、マスクぐらいしろよ。それに公共施設の敷地内は禁煙なんだぞ」  譜久村が言うと、江端は、そんな硬いこと言わない言わない、とお道化た素振りで鼻を掻いた。  三十五歳になる江端は、譜久村の教え子だ。中学生時代は随分手を焼いた生徒だった。煙草は無論のこと、無免許運転に授業妨害。好き勝手なことばかりやった。親が裕福なせいで甘やかされたのだと先生たちは言ったが、譜久村はそうは思わなかった。  抗っているんだ。どうしようもない現実と、そこはかとない未来に抗っている。江端を見ていると、なにかに怯え、藻掻き、そして見失いかけた思春期の自分を思い出した。 「硬くなんかない。きまりだ」 「だから、硬いんだって。ふくちゃんらしくない」  らしくない、と言われ、譜久村は忘れかけようとしていた傷口を触られた気がした。たしかに「らしくない」。それは自分が一番わかっている。だけど、そこには触れてほしくないのだ。  譜久村は話題を転じようと、くどくど話すのを止めて端的に結論を告げた。 「何度も来てもらって悪いが、例の話は断る」 「でも……」 「ここより給料がよくても、やっぱりやれる自信がない。障害のある子どもに携わった経験もなければ、知識だってないんだ。そりゃ授業で特別支援学級の子を教えたことはあるさ。でも、特段なにかしたわけじゃないし、みんなと同じように運動をやらせた。そんな人間に放課後サービスの仕事ができると思うかい? そうだろ」 「放課後サービスじゃなく、放課後等デイサービスね」  江端の軽いダメ出しに、譜久村はなぜかイラついた。些末なことなのに、どうでもいいと思えることなのに、ささくれ立った譜久村の琴線には、それだけで十分な発火点になる。  言わせてもらうが、と要らぬ言葉が口から無意識に滑り落ちた。 「サービスデーだか、デイサービスだか、なんだかよく知らんが、はっきり言ってオレには向いていないんだよ。福祉なんて門外漢なんだ。それにだ、琢朗がやっているような施設が最近増えているっていうじゃないか。要するに商売になるからだろう? 福祉を金儲けの手段にしているのも許せない」  江端は新十津川町で『希望の広場』という放課後等デイサービスの管理者をしていた。  なんでも父親が経営している施設らしい。もともと建設業だった江端の父親は結構なやり手で、飲食店をはじめ介護老人福祉施設やグループホームなどにも手を広げていた。六年ほど前に放課後等デイサービスの事業を立ち上げ、東京で定職にもつかずぶらぶらしていた息子を呼び寄せて管理者にさせたのである。  すると、どういうわけだか江端は人が変わったように働いた。現実社会という荒波に揉まれたせいかもしれないし、或いは児童福祉という仕事が性に合っていたのかもしれない。なにが彼をそうさせたのかはわからないが、あの頃のような刺々しさは瘧が落ちたように去っていた。いまはいっぱしの管理者だ。とはいえ、譜久村への気兼ねのなさと、譜久村と同じく煙草が止められないニコチン依存症は昔と変わらない。  譜久村が教師を辞めて「支援室」で働いているのを知ると、うちに来ないかと幾度も勧誘してきた。 「でもさ、ふくちゃん……」  と江端が話そうとするのを遮り、譜久村は口早にまくしたてた。 「とにかく、琢朗の世話にはならん。この職場は気に入らないけど、生徒指導を長年やってきた性分なのか、不登校の子たちのことは気になるんだ。ここに通ってくる子は年々減っていて、教育委員会は支援室の成果が上がっているように思っているかもしれないが、ほんとはなにも解決しちゃいない。むしろここにすら来れない子の方が重要なんだ。学校に行かず、家に引きこもってしまっている子たちをどうするかがね」 「それ、それ!」 「なにが?」 「それがふくちゃんらしい」  江端に冷やかされ、譜久村は胸の中に沸いた熱量がふうっと抜けていくのを感じた。琢朗にまで、そんなことを言われるようになったんだな、と心が疼く。 「変に煽てるな。どんなに絆されても仕事の件は断る」 「でも、ふくちゃん」 「しつこいぞ」 「今日はその話で来たんじゃないんだ」 「はあ?」  まあ吸いなよ、と江端はメンソールのマルボロを箱ごと手渡した。  敷地内は……、と譜久村が言いかけ、いいからいいから、と江端が片手を風よけにして愛用のジッポーに火を灯す。  譜久村は早合点してしまったことを悟られまいとして、箱から煙草を一本抜き出した。  そのままライターに近づけ、ゆっくり吸い込む。清涼な煙が喉元を通り抜け、ジッポーを手にしている教え子がいつになく大きく見えた。 「実はうちに通所してる子のことで、頼みがあってさ」  江端が話すのを聞くともなしに耳に入れ、譜久村は煙を吐き出した。宙に漂う煙を目で追いながら、透き通った蒼い空を見上げる。  流れゆく白い雲と降り注ぐ陽の光が季節の移り変わりを感じさせた。長かった北海道の冬はすでに跡形もなく、踏みしめている大地からは躍動の音がする。身も心も駆け出したくなるような音色を奏でてくれる初夏が近い。  だけどここ数年、自分にはそんな胎動が感じられなくなった気がした。  ぼんやり空を仰いでいる譜久村に向かって江端が、「ねっ、頼むよ」と言いながらセレナのスライドドアを開けた。 「この子、緊急事態措置が解除されてようやく学校が再開したのに、まったく行かなくなっちゃってさ。支援室で面倒をみて欲しいんだ」 「えっ、本人が車の中にいるのか? 早く言えよ!」  譜久村は吸っていた煙草を慌てて地面に擦りつけ、車内を覗き込んだ。  セレナの三列目シートにはパーカーをすっぽりと頭に被った少女がいた。顔の半分が隠れてしまいそうなマスクをし、棚に置かれた人形のように(うずくま)って座っている。  急にドアを開けたので驚いたのだろうか、譜久村が「こんにちは」と声をかけてみるものの、返事はない。 「この人、俺の担任だった先生なんだ。目つきは悪いけど、怖くはないから」  江端は後部座席で俯いている少女に譜久村を紹介した。  余計なことを言いやがって、と思いながら譜久村は再度、「こんにちは」と呼びかける。やはり応答はなかった。不登校の生徒ではよくあるパターンだ。 「名前を聞いてもいいかな?」  少女に尋ねると、代わりに江端が「沙玖良(さくら)清野(きよの)沙玖良って言うんだ」と答えた。相変わらず少女は黙ったままだった。  譜久村は少女に気づかれないよう静かにセレナのドアを閉めた。 「あの子、何年生だ?」 「高一だよ」  高校生か、と小さく呟き、軽く曲げた人差し指をこめかみに当てた。「琢朗のところに通所してるってことは、高等養護学校の生徒か?」 「違う。明日萌(あしもい)高校だ」 「明日萌高校って進学校じゃないか。よく受かったな」 「ねえ、ふくちゃん、障害のある子を見下しちゃいない?」  江端に問いただされ、そ、そんなことは……、と譜久村は脇の下が冷やりとして口ごもった。なんだか教え子が、また大きく見えた。 「沙玖良は自閉スペクトラム症で、小学校に上がってから場面緘黙が現れたらしい。でも、明日萌高校は面接がなくて筆記試験だけだし、あの子、頑張って進学したんだ。だから支援室でなんとかできないかと思って……」  話の途中で、譜久村は即答した。「無理だな」 「なんでさ」  あまりにもそっけない譜久村の言葉に、それまでにやけていた江端が真顔になった。なんでさ、と繰り返す。 「支援室は、小中学生が対象なんだ。それに高校生が不登校になったら、単位が取れなくなって留年か中退だろ。そうならないようにしたいのはわかるが、短期間で学校へ行けるようにするのは並大抵なことじゃない。そこまで責任はもてないってことだよ」 「薄情ものっ!」   江端は語気を荒げ、「沙玖良は新十津川町民じゃないか。同じ税金を払っているのに、なんで小中学生はよくて、高校生はダメなんだ。それが教育委員会のやることなのかよ」と迫った。 「支援室のきまりだ」譜久村が言い返す。  それを聞いて江端は顔をしかめ、やっぱ、らしくないよ、と零した。 「らしくないよ」が譜久村の耳の中で飛び跳ねる。肺がさっき吸ったメンソールを欲した。  なら、もういい。江端はふて腐れたようにセレナのスライドドアを力任せに開けると、「沙玖良」と呼んだ。  オープンになった車の中には、三列目に座っていた少女が、いつの間にか二列目のシートに移動していた。 「もう帰るぞ。支援室は、お前のこと、かまってられないってさ」  吐き捨てるような江端の声に反応したのか、フードを被っていた沙玖良がおもむろに顔を上げた。その顔を見た瞬間、譜久村は目を瞠った。  あの子だ。あのプラットホームにいた子だ。  一瞬立ち竦む譜久村を無視するように、沙玖良は無言のままリュックからノートを取り出し、なにやら書き始めた。そしてノートを引き千切り、すうっと前に差し出す。  譜久村はそれを受け取った。 【怖くても、逃げたくても、私を救えるのは私だけ】  破れた紙片には、そう書かれてあった。       *  江端が帰ったあと、譜久村は事務室にいる職員に、不登校の高校生を支援室に行かせたいという依頼があった旨を告げた。  案の定、斎藤と原田からは猛反対された。  原田が「高校生は支援室の対象ではないでしょ」と、譜久村が口にしたことと似たようなことを言い、譜久村は譜久村で珍しく感情的に「同じ税金を払っている新十津川町民じゃないですか」と、江端が用いた論法で反論し、けれども最後は斎藤から「支援室のきまりだ」と、ついさっき譜久村が吐いた決め台詞で断じられた。  だよな、そりゃそうだ。  譜久村が半ば諦めかけたところで、頬に深い皴をつくりながら山下室長が「いいじゃないか」と言った。「高校生が来てもいいじゃないか、どうせここは暇なんだから」  さらに白々しい顔で、「なにか言われたらワタシが責任を持てばいいんだろ」とも言い切った。  その発言に斉藤と原田が、うっと喉を鳴らし、譜久村は胸にこびりついていた残滓(ざんし)が久々に溶けた気がした。  すぐさま譜久村は、沙玖良が支援室に来てもいいことになったと江端に電話した。 「ふくちゃん、ありがと。じゃあ、明日から行かせるよ」  受話器から嬉々とした声が聞こえてきた。  しかし、一週間経っても肝心要である沙玖良本人が支援室に来ることはなかった。 「ちょっと様子を見に行ってきてもいいですかね?」  来る者は受け入れるが、来ない者は敢えて促さない。それが「支援室」の基本的なスタンスだ。それを知りつつ、譜久村は山下室長に、沙玖良の家庭訪問を申し出た。  暇そうに新聞を読んでいた斎藤がじろりと睨み、昼食後のワイドショーを観ていた山下室長が曰くありげな笑みを浮かべた。その様相を譜久村は同意を得たものと勝手にみなし、車に乗り込んだ。  江端から聞いた住所によると、沙玖良の住む家は新十津川町の中心部から外れた場所にあった。水稲と玉ネギ畑が広がる農業地域であり、あの無人駅からもさほど遠くない。  ホームベースからライトポールまで真っ直ぐ引かれたラインのような農道を制限速度の五十キロをオーバーしながら車を走らせる。  譜久村は運転中の習性で煙草を咥えると、運転席側のウインドウを三分の一ほど下ろし、煙を揺らした。窓から吹き込む爽やかな風が目立ち始めた白髪を(なび)かせ、黄色く染まった菜の花畑からは鼻をつく匂いがする。  直線道路をしばらく走ったところで右折し、細い砂利道に入った。十六インチのタイヤが石ころを弾き飛ばし、ハンドルがとられそうになる。一キロほど進むと、木造の家が見えた。いかにも農家らしい家屋で、すぐ横には外壁を波トタンで覆った納屋が建てられていた。  譜久村は車を降り、玄関の前に立った。 『清野』と記された表札を確認し、引き戸に手をかける。この地域の農家は鍵などかけない。  建てつけの悪い戸を軋ませながら力づくで開け、「ごめんください」と呼んでみた。数度、呼びかけたが、家の中はひっそりとし、譜久村の声だけが残響した。 「どちらさん?」  背後から低い声がした。  振り返ると、どこから現れたのか、泥だらけのゴム長に青いつなぎを着た高齢の男が立っていた。 「支援室の譜久村と言います」  そう名乗ると、「ああ、支援室の先生ですか。江端先生から沙玖良が行くことになったと聞いてます」と男は慇懃に農協のマークがついた帽子を頭から取った。  へえ、あいつ、先生って呼ばれてるんだあ。噴き出しそうになる。 「沙玖良ぁ、さん、に会いに来たんですが」  不審に思われないよう、いつもなら生徒につけない敬称をつけて譜久村は沙玖良の名を呼んだ。 「わざわざ来てくださったんですか。すいませんね。今朝も行けって言ったんですが、あの子、まったく動かんのですわ。いつものことなんですけどね」  男は家へ入り、どうぞ、どうぞ、こちらに、と譜久村を居間に通した。 「あのぉ、沙玖良さんは、いますか?」 「二階の部屋にいます。でも、出てきませんよ。まあ、せっかく来たんですから、とりあえず座ってくださいな」  男は清野省吾(しょうご)という名で、自分は沙玖良の祖父であり、いまは保護者なのだと語った。 「保護者?」  譜久村が怪訝そうな顔をすると、省吾は、こんな年寄りがあの子の保護者になってるんですよ、と自嘲気味に笑いながら説明した。  沙玖良は省吾の孫。つまりは娘の子どもで、沙玖良が四歳のとき、母親である娘が連れて実家へ戻って来たらしい。  あいつはどうもならんアバズレでね。省吾は自分の娘をそう表現した。  一人っ子だった省吾の娘は高校に入ると、その夏に妊娠した。相手は誰だ? と訊いても、娘は口を噤むだけで答えなかった。妻は娘を庇ったが、省吾は怒り狂って病院へ引っ張って行き、堕胎させたのだという。 「まだ高校生なのに、子どもを育てられるわけがないじゃないですか」  省吾は寂しそうに皺を寄せながら、淹れた茶を座卓に置いた。  子どもを堕ろした娘は高校を中退し、遊び回ったそうである。次から次へとボーイフレンドをつくり、挙句の果てには妻子ある男と駆け落ち同然に家を出ていった。そして十年後、なんの前触れもなく沙玖良を連れて舞い戻ってきた。どこでなにをしていたのか知らないが、娘はやつれた姿で帰ってきた。「父さん、ごめんなさい」。その一言で、省吾は娘を許した。 「あまいねぇ。どうして親っつうもんは子どもにあまくなるんでしょう」  省吾は茶をずずっと啜り、喉仏を大きく動かしてから、「二週間後、あいつは沙玖良を置いて姿をくらましたんです」と言った。 「くらました? どこへ行ったかもわからないということですか」  譜久村は、たまらず身を乗り出して訊いた。 「わかってりゃ、苦労はしませんって」 「娘さんとの連絡は?」 「とれるはずがないでしょ。あいつは、わざとここに沙玖良を置いていったんだ。最初からそう考えて戻ってきたんですよ」  育て方が悪かったんです。うちのばあさんもそう言ってました、と省吾は遠い目をしながら奥の和室ある仏壇を眺めた。  仏壇には位牌とともに柔和に微笑む年輩の女性の写真があった。 「あのばあさんが、家内です。二年前に亡くしました」 「ということは、おじいさんだけで沙玖良さんの面倒を?」 「面倒をみるというほどのことはありません。ああ見えても、あの子は一人でなんでもできるんですよ。食事や洗濯も、マメにしてくれます。ほとんどしゃべりませんけどね」  話している最中に、ダダダと階段を駆け上る音がした。 「どうやら、沙玖良が聞いていたようですわ」  省吾は肩を竦めながら、はははと笑った。 「ちょっと、二階へ行ってもいいですか?」 「いいですよ。ただ、あの子は誰とも話はしませんよ」 「場面緘黙症の子って、家族とは普通に会話すると聞いたことがあるんですけど」 「うちのばあさんとは、よく話していました」 「おじいさんには?」 「全然だめですね。うんともすんとも言いませんわ。けど、筆談はできます」  そうですか、と言って、譜久村は省吾とともに二階へ上がった。  階段を上がると狭い廊下の両側に部屋があり、省吾は、ここです、と右手の部屋を指さした。  譜久村がトントンとドアをノックしてみるが、予想していた通り反応はない。 「沙玖良、入るよ。支援室の先生が会いたいってさ」  省吾がためらいもなくドアを開け、部屋に入る。  彼の後に続いて譜久村も足を踏み入れると、厚手のトレーナーに短いスカートを穿いた沙玖良がいた。こちらに背を向け、窓際に立っている。  譜久村は沙玖良に歩み寄りながら、さり気なく部屋の様子を窺った。  畳敷きの床や折りたたみテーブルの上に目をやり、菓子類の散乱状態やゲーム機の有無を確認する。引きこもったまま生活をしているのではないかと心配だったのだ。しかし思いの外、部屋の中は小奇麗に整頓されていた。  ベージュのカバーが掛かったベッド、書籍と参考書とCDが段ごとに並べられている本棚、余分な装備を排除したシンプルな木製の机。ベッドの横にギターケースとCDデッキが置いてある。昭和を感じさせる綿壁には、古臭さを隠すためだろうか、アニメのポスターや女性アイドルグループらしき写真が貼ってあった。  譜久村が傍に近づいても、沙玖良は下を向いたまま決して目を合わせようとしなかった。息をつめて、足元の畳を見ている。その目は、野生の仔鹿が得体のしれない人間を見たときに似ていた。 「元気かい?」と声をかけてみる。依然として返事はない。  窓からの光が沙玖良の顔を薄く照らした。これと言って特徴のない横顔が視界に入る。  離れた位置から無人駅を眺めていたので、譜久村はプラットホームの少女の顔をはっきり見てはいなかった。頭の中にある残像は、立ち尽くす少女と片足を軸にして回転した姿だけ。本当にあのときの子だろうか。少し不安になった。 「せっかく先生が来たんだから、支援室に行くのか、行かないのか、はっきりした方がいいんじゃないのかい?」  そう言って、省吾は机の上に置いてあったメモ用紙を沙玖良の手に握らせようとした。だが、沙玖良は両手をぐっと握りしめ、受け取ろうとしない。  それでも省吾はお構いなく、メモ用紙を五指の閉じた拳に押しつけた。  押しつければ押しつけるほど、沙玖良の腕に力が入っていくのがわかった。肘がぴんと伸び、それに合わせて身体も硬直した。  うん、間違いない。あの子だ。譜久村は確信した。  省吾は太い眉を上げ、これ以上は訊いても(らち)が明かないというふうに首を横に振る。  譜久村も無理はさせない方がいいと判断し、「来る気になったら、いつでもおいで」と言い残して、省吾と一緒に部屋の出口に向かった。  廊下に出た譜久村に、無駄足を踏ませて、すいませんね、と省吾が腰をかがめ、ドアを閉める。その隙間から後ろ姿の沙玖良が目に入った。  スカートから覗く少女の膝窩(しっか)が小刻みに揺れている。 ――十六ビート。  譜久村には、小さくて白い膝がリズムを刻んでいるように見えた。
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