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バチンッという音が未だに耳に残っている。 今朝、金具が弾け飛んでバレッタが壊れた。そして、私は思った以上にショックを受けているらしい。こうして使い物にならなくなった物を大学まで持って来て、ぼうっと授業中に眺めているくらいには。 大切で、特別な物だ。いや、『だった』か。このバレッタの土台はアイヌの木彫りだ。親指の腹で表面を横一線にそっと撫でる。黒茶色の木に金色の文様。後頭部に回していた手からこれが滑り落ちた時は呆然とした。けれど頭の片隅では、やっぱりな、とも思った。 大学進学のタイミングで母から譲り受けたから、もう一年と三ヶ月ほど経った。まあまあ持ち堪えたほうじゃないだろうか。代わりはそう易々とは手に入らない。アイヌの文様が刻まれている物はとても高価だ。 教室の片隅で、ひっそりため息をつく。一度、二度と繰り返し撫でる。 もしかしたら何かの知らせだったりして。 ふとそんな考えが湧いて出るものの、すぐに手放した。 いやいや、まさか。さすがにこじつけすぎだろう。 心中で呆れ混じりに首を振る。 こういう時はマイナスなほうにばかり考えてしまっていけない。だからといって、意のままに明るいほうへ急に思考を移せるほど器用にもできていないのだけれど。とにかく不毛だ。 またおもむろに吐いた息でかき消すのと同時に、チャイムが鳴る。 結局、講義はろくに聞いてなかった。 バレッタをハンカチに包む。 落とさないように肌で触れていようと、スカートのポケットに入れた。 人の流れに乗って教室に出ると、こちらに手を振る友達を見つける。 「凪、お疲れ~」 「優月」 人懐っこい笑顔に自然と足が引き寄せられる。 毎週同じ時間に別の授業を取っている優月とここで待ち合わせし、一緒に帰っていた。 明るく染められた髪に、ぱっちりとした二重。縁取るラメ入りのアイシャドウがそれをさらに引き立てる。高校からの付き合いだが、優月はうまく垢抜けた。友達も多い。やる気のない私はいつも感心している。 「帰ろっ」 「うん」 授業が早く終わったからか、今日はちょっとご機嫌だ。弾んだ声と共にポニーテールが揺れる。それをぼんやり目で追っていたことで、背後の人影に気づくのが遅れた。 「……っ!」 とん、と肩がぶつかる。反動で軽くよろけてしまい、私は半歩前に片足をついた。 相手をろくに確認しないまま、私はとっさに謝罪を口にする。 「すみません」 「……いや、こっちこそ」 見上げた先で黒髪が揺れる。素っ気ない返事に反して、その隙間から見えた瞳に怒りの色はなかった。 互いに短く会釈をすると、どちらからともなく視線を外す。彼は背筋を真っ直ぐ伸ばしてその場を去っていった。 「あれ、村雨くんだよね」 隣で見ていた優月が声を潜めて言う。 そう問われても、私にとっては一度も聞いたことのない名前だ。 「知ってるの?」 「うん。友達が同じ学部なんだけど、掴み所のない男子だって言ってた。ミステリアスっていうの?」 「何それ」 「必要なことくらいしか喋んないんだって。友達といるところもあんま見ないって」 「ふうん」 ミステリアス。言葉を舌の上で滑らせてはみるものの、微塵も馴染むことはなかった。なんなら知った今でも、『へー、そんな人いたんだ』程度の気持ちだ。 きっと向こうも一度軽くぶつかっただけの人間なんて、すでに忘れていることだろう。 適当に相槌を打ち、優月と連れ立ってエレベーターまで歩き出す。 電子表示板を見上げると、二基とも高層階にいた。五階にいる今を鑑みて、一瞬、階段を使うかどうか迷う。降りようと思えば降りられる階数だ。けれど、それを口にする前に優月が下階行きのボタンを押した。 苦笑する私を見て、優月はきょとんとする。私と優月は似ていない所ばかりだ。それなのに一緒にいても疲れない。うまく何かが噛み合っているのかもしれない。 少し待って、優月と到着したエレベーターに乗り込む。 この時間に乗るのはだいたい私と同じ授業を取っている人だ。実際、一階のボタン以外を押す学生はいない。おしゃべりな優月もこの時ばかりは黙る。それがちょっと面白い。 しかし、それにしても明朗快活な彼女はどこに行っても人気者だ。 現に、エレベーターを降りてそれほど歩かないうちに優月のことを呼ぶ声があった。私にとっては初めて顔を見る女子だ。聞けば、サークルの後輩らしい。 「ここらへんで待ってるね」 「うん、すぐ戻るから!」 邪魔にならないように端に退け、優月を見送る。 一人になった。待っている間にできることがいくつか浮かぶけれど、なんとなく気分じゃない。きっとすぐ戻ってくる。 いい天気だなあ、と私はただ外を眺める。 そんな時だった。 突然、近くからバコンッと大きな音が聞こえた。思わず肩が跳ねる。 音の根源を追って振り向くと、自販機の前にいる二人の男子が目に入った。片方の人物は手のひらを自販機に付いて体を支えたようだ。さっきの音はその際に出たものだろう。そばに立つもう一人は、彼の肩に手をかけたまま笑っている。 「え~、そんなに驚く?」 「……いや、ごめん。ぼーっとしてた」 「あー分かる。暑いもんなー」 ただの友達同士の悪ふざけのようだ。 いつもならすぐに興味を失うところだ。けれど、私はなぜか妙に目が離せなかった。 自販機に手をついている人物が、さっきぶつかったばかりの村雨くんだったからだ。 彼は体勢を立て直して振り返ると、淡々と話を受け止める。怒る素振りもない。一切変わらない顔色に思わず感心してしまう。何が面白いのか、相手は一人でけらけらと笑っている。 それから少し言葉を交わした後、口元にだけ微かな笑みを乗せ、彼は頷いた。 相手と別れて、自販機に向き直る。打って変わって、その顔は『無』だった。感情が一切読み取れない。特に驚かなかった。さっきの笑みも明らかに貼り付けたようなものだったからだ。からかった相手は最後まで気づいてなかったようだが。 彼は身をかがめ、取り出し口に手を入れる。そのままペットボトルを引き出したかと思えば、チッと舌を鳴らした。 「……お前のせいで押ささったんだろうが」 「えっ」 「ん?」 ぼそりと呟かれた言葉を私は聞き逃さなかった。というか、聞いてしまった。 ばっちり目が合う。 やばい。 脳から背中に嫌な予感が駆け抜ける。 一瞬、思考が飛んだ。焦りから、言葉をまとめる前に口が動き出す。 「す、すみません。でも『押ささった』なら仕方ないと思いますし、聞かなかったことにしますので」 その場から立ち去りたい一心で早口で言う。しかし、それが逆に足を引っ張った。彼が一歩こちらへ近づく。私が半歩下がる。 故意に盗み聞こうとしたわけではないのに、ものすごい罪悪感を覚えてならない。優月、早く帰って来て。 「今の、意味分かんの?」 「…………」 思わず唇を引き結んだ。 方言のことだと理解はしている。けれど遠回しに『馬鹿』と言われてるようにも聞こえて、なんだか複雑な気持ちにもなったのだ。 探るような視線が痛い。本当は今すぐ逃げ出したかったけれど、解放されるためには答えるしかないようだ。 「い、一応……」 警戒心を隠さず頷く。おそらく人見知りの念が全身から吹き出ていることだろう。 彼の言葉は北海道弁だった。標準語で言えば、『そのつもりはなかったけれど、間違って押してしまった』だ。 悪気はない。ついうっかり。 そんな類義語が連鎖し、ぐるぐると脳内を巡る。そうして次の言葉を探しあぐねていると、そっか、と低い呟きが降ってきた。 「俺、村雨っていうんだけど」 「はあ」 存じ上げてます、という言葉はどうにか呑み込んだ。 「名前、聞いてもいい?」 彼は固い声で言った。意図を測りかねて、ついじっと見つめてしまった。 深い色をした瞳が揺れている。不安が滲んでいるのに、相変わらず背筋はピンと伸びている。そのちぐはぐさが、とても印象的だった。 「……吉尾です」 私だけ名乗らないわけにはいかないので、とりあえず会釈を返す。妙に居心地の悪い。早く帰って来て、優月。 「さっきも言いましたけど、誰にも言いませんから安心してください」 「え? あっ、いや……そういうんじゃなくて」 口封じかと暗に投げた問いを彼は見事に察したらしい。意外にも、彼は首を振った。気まずそうに目を逸らすと、片手で襟足を掻く。 「こっちに来てから、こんなにすんなり通じたの初めてで。だから別に、そういうつもりじゃないというか。……まあ確かに、言い触らされるのは困るけど」 たどたどしく紡がれる言葉。 慎重に選ばれたものだけが口に出されていると分かった。彼が口数の少ない人だと思われているのも、恐らくこれに起因するんだろう。 「方言、隠してるんですか?」 「まあ……」 「どうしてですか?」 「ごめん、それはちょっと」 「あ、そうですよね。すみません」 不躾な態度を反省する。本人が隠したがっていることを軽々しく暴くような真似をしてしまった。方言『くらいで』なんて、私の主観にすぎない。 「ごめんなさい」 「いや、いいよ。敬語もいらない。それより、なんで俺の言葉分かんの?」 「それは――……」 言いかけた時、カツカツという音が耳の後ろを叩く。 優月が履いているパンプスのヒールだ。だんだんと近づいてくるそれに振り向けば、案の定、優月がこちらに向かって来ていた。目が合う。途端、ぽかんと口を半開きにした。視線は私を通り越していて、その驚きの理由は明白だった。当然の反応だと思う。 「友達?」 「うん」 「そっか。じゃ、俺帰るわ」 彼は肩にある鞄をかけ直す。しかし、彼が去るより優月が戻って来るほうが早かった。 「な、凪に何かご用ですかっ!?」 駆け寄って来て、私の肩を掴みながら叫ぶ。完全に喧嘩腰だ。優月のこういう所が好きだなあとつくづく思う。 彼は目を丸くした後、苦笑して言った。 「ごめん。授業で分かんなかったところ聞いてただけだから」 優月の威勢のよさに驚きはしたものの、怯む様子はない。それどころか、彼はうまく嘘をついた。 口数が少ないと言っても、誰も彼もを無視するとか、そういうことではないんだろう。 実際、さっきも自分をからかってきた相手に対して顔色を変えずに受け流していた。彼は北海道弁を話す自分を隠したがっている。だからこそ、波風を立てないような対応の仕方を知っているように見えた。 「優月、大丈夫だよ」 「ほんとに?」 「うん。この前、遅刻したんだって」 「そっか……」 優月を宥めるために、私もその嘘に乗っからせてもらう。 追及してくることなく、優月は私の肩からそっと手を離した。 「ごめん、助かった。ありがと」 「どういたしまして」 嘘に協力したことに対するお礼だと分かったうえで頷く。でも彼は、最後の最後で気が抜けたみたいだ。目元をわずかに緩め、踵を返す直前に軽く手を挙げて言った。 「そしたらね」 ああ、やらかした。私自身の失敗ではないのに、とっさにそう思った。 今のは『ばいばい』や『またね』といった意味の北海道弁である。すぐにでも追いかけて訂正したいけれど、そうするとせっかく優月に隠した話が露呈し、さっきの嘘も水の泡になる。 優月にどうごまかせばいいのか。 ひそかに頭を抱えていると、先に優月がぼんやりとした様子で言った。 「村雨くんも笑うんだね……」 ひどい言い様だ。 「まあ、人間だからね」 「もっと怖い人なのかと思ってた」 よほど彼の笑顔が印象的だったのか、優月は方言のほうには気を取られていないようだった。彼が別れ際に手を振ったことも大きかったのだろう。言葉の意味を仕草が補った。 安堵が広がる。次いで、どっと疲労が押し寄せた。 思わぬ面を知ってしまった。そして、彼とはこれきりで終わる気がしなかった。 ――何かの知らせだったりして ふいに、授業中に否定したばかりのこじつけがよぎった。ぞっと背筋が凍る。 思わずスカートの上からポケットの中にあるバレッタに触れる。 勘弁してほしい。けれど、どこか認めてしまっている自分もいて、私はただ呻くことしかできなかった。
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