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夏休みを前にして、残り数回の授業は隣同士に座るようになった。 いつもの通り、今日も教室の隅で方言混じりにぽそぽそと話す。 必要以上に周囲を気にする彼につられ、私の声の大きさも自然と抑えたものになる。 弱みにもなり得る秘密を握って握られ。 意図せずそんな関係になってしまった私たちだったけれど、存外にも起こった変化は緩やかなものだった。 というかそもそも、私にはこの秘密をどうこうするつもりはない。 あの後初めてあった授業で正直にそう告げると、彼はあからさまにホッとした顔を見せた。 なぜそんなに方言を隠したがっているのかは分からない。私も無理に踏み込むつもりはない。 一方で、それ以外のことは少しずつ教えてくれるようになった。 今している話も、彼の実家の近所にいたという猫のことだった。 「んで、その猫がもちょこくて」 「もちょこい?」 ――とは、一体。首を傾げながら繰り返すと、彼ははっとした顔をする。次いで、ちょっと眉が下がった。「これも伝わらないのか」と顔が言っている。 関わって初めて知ったが、彼は意外と感情表現が豊かな人だ。腕を組んで、訳を探して唸る。しかし最後には諦めたようで、ポケットからスマホを取り出した。 ちらりと見えた検索結果の画面に『かわいい北海道弁十選!』という名のリンクを認める。一気に気持ちが萎えた。あほらしい。何を根拠に言っているのやら。 内心毒づいていれば、ふと画面の上を滑る彼の指が止まる。 「あぁ、『くすぐったい』?」 「なるほど」 そう言われれば分かる。 「こちょばしいは使うけど、もちょこいは聞いたことなかったな」 私は所詮、関東で生まれ育った人間だ。北海道弁も親が喋る範囲のものしか知らない。 本州の人は札幌と聞くと、人が多く行き交う街並みを想像するかもしれない。しかし、あれはほんの中心部。 両親が育ったのもあくまで札幌近郊だ。住宅街の近くにコンビニとスーパー、チェーンの居酒屋があるくらい。あと、個人経営のラーメン屋。若者向けの娯楽は一切ない。 足繁く通った古本屋が潰れた時は泣いた。漫画の品揃えが素晴らしかったのに、私のオアシスは消えてしまった。のどかと言えば聞こえがいいけれど、要は田舎である。 愚痴混じりな話も彼はきちんと聞いてくれる。次いで、小声の北海道弁が返って来る。そんなことを繰り返す中で、つい言ってしまった。 「あの、やっぱり無理しなくていいと思うよ」 彼は口を開いてから、声を発するまで一拍の間が生まれる。吐息だけが零れることもあれば、呑み込むように喉仏が上下することもある。言うなればこれは『変換』の時間だ。北海道弁が標準語に変わるタイミング。 どうしても北海道弁を話すことに対しての引け目だったり、羞恥を感じる。 「方言も個性だと思うし」 別に恥じるものではないと思う。そう伝えても、彼はただ曖昧に笑うだけだった。 「ん、どうもね」 全然響いてない。気を遣わせたとしか思われてなさそうなところを見るに、かなりこじらせているのが分かる。もはや他人がどうこうして直る域ではないんだろう。 察して口を閉ざす。話に区切りがつき、沈黙が落ちた。 これ以上話を続ける気もなく、かといって代わりの話題もなく。沈黙が平気な私はそのままぼんやり手元を見ていた。しかし、彼はそうではなかったみたいだ。 「……なんか、ごめん」 「えっ、何が?」 顔を上げれば、なぜか気まずそうな彼がいた。 突然の謝罪。しかし、私には謝られる理由がさっぱり分からない。 首を傾げながら、まじまじと見つめていると、 「せっかく励ましてくれたのに、気分悪くしたべさ」 「ああ、そういう……。別に気にしてないよ」 つまり私が黙ったのを見て、傷つけてしまったと捉えたんだろう。 なんというか、素直で繊細な人だなあと思った。人の目を気にすることは、逆にそれだけ周囲に気を配れるということだ。でもそんな彼の魅力も、間にある言葉の壁が厚くて伝わっていない。 北海道弁は標準語に最も近い方言だとどこかで聞いた。基本的には『べさ』『だべさ』を覚えてればいいんじゃないかなと思う。どちらも『~でしょ』という意味で、クエスチョンマークがつけば疑問形になる。投げる、は捨てる。しばれる、は寒い。このくらいは有名なはず。 たかが方言、されど方言。 少しずつ彼を知りながら、横たわる価値観の差にもどかしさも感じた時だった。 突然、机に置いていたスマホがメッセージを受信してパッと明るくなる。差出人はお母さんだった。目は自ずと途中まで文章を追う。もちろん冒頭だけでは何も分からない。 ただ、変な予感が走った。 * * * * 手荷物検査を終え、私は頭上の案内板を見ながら搭乗口を探す。手の内には新千歳空港行きのチケット。同伴者はいない。私一人だ。 お母さんのメッセージ一つによって、私の夏休みの一週間は勝手に予定を埋められた。 我が家は、夏休みには家族全員で必ず北海道に行く。旅行というよりは、両親の帰省について行くと言ったほうが正しい。しかしながら、今年は二人とも仕事の都合で休日が合わせられなかったそうな。 残念だけど今年は行けない。お母さんがそうメッセージを送ると、穏やかな性格のおばあちゃんにしては珍しく食い下がったらしい。 『でも凪ちゃんは来られるべさ』 今思い返しても圧を感じるのは気のせいだろうか。 しかし気軽に行ける距離じゃないし、考えたくはないけれど、あと何度会えるか分からない。 おじいちゃんを亡くしてから、おばあちゃんはすっと一人暮らしだ。 断る理由は当然なく、私は頷いた。一人旅は初めてだけどもう大学生だし、スマホという心強くて便利な味方もいる。 そういえば、いつだったか彼も似たようなことを言っていた。 私と同じく、彼の祖父はもういない。それもあって、長期休みはなるべく北海道に帰るようにしているらしい。会えるうちに会わないと、と言っていた。 ふとそんなことを思い出しながら、私は頭上の案内板に沿ってひたすら端へ端へと歩く。するとその途中、幼い子がぴょんぴょん跳ねていた。滑走路に面した大きな窓に張り付くと、きゃっきゃっと無邪気な笑顔を咲かせている。また、近くでは若い女性二人が同じ方向にスマホを向けていた。 なんだろうと引き寄せられるように目をやると、真っ先に黄色が飛びこんでくる。人気キャラクターがプリントされたジャンボジェット機がそこにあった。 なるほど、確かにこれは相当ラッキーだ。残念なことに、私の今日の搭乗便はこれじゃないけれど。 結局、手荷物検査を終えた場所からかなり歩いて搭乗口を見つけた。大手航空会社より安く行ける分、扱いの差も感じてしまう。席に座っている人もまばらだ。ついさっきのことを思い出して、私はどうせならと離陸の様子がよく見える席に座った。 眼前では飛行機が滑走路へと向かって行く。それをしばし見つめた後、私はあらかじめ空港内のコンビニで買っておいたメロンパンと紙パックのジュースを取り出した。もそもそと食べ進める。 すると、ふいに左から話しかけられた。 「お嬢ちゃん、一人旅かい?」 お嬢ちゃん。今時聞き慣れない呼び方だ。緊張で体がこわばるのが分かる。 そろそろと目をやれば、いつの間にか一つ席を挟んだ向こうに男性が座っていた。六十代前半くらいだろうか。目尻にしわを刻んで優しげに微笑んでいた。 「はい。旅というか、祖母に会いに」 「そうかいそうかい。そりゃ喜ぶべさ」 目尻にしわを刻んで優しげに微笑んで、数回頷く。手を止めた私に「食べていいよ」と促してくれる。これ以上距離を詰めてくる様子もない。 少しずつ警戒心が解けていく。密かに胸を撫で下ろしたところで、はたと気づいた。流れで返してしまったが、彼もまた北海道弁で話していた。行くというよりは、帰ると言ったほうが正しい人なのだろう。 「こっちの人はせかせかしてるね。もうこわくてさ」 「まあ、そうかもしれないですね」 駅の構内を行き交う人の波の速さに驚いたそうだ。あと察するに、彼の言う『こわい』はきっと『疲れた』という意味だ。確かに、笑顔に少し疲れが滲んで見える。 メロンパンの最後の一口を飲みこんで、今度は私が聞いた。 「おじさんはどこに帰るんですか?」 「小樽だよ」 「いいですね」 「来たことあるかい?」 「はい。小学生の頃に、観光程度ですけど」 思い出すのは傾斜のついた広い道路と観光客の多さ、アスファルトから上る陽炎。何より、真夏の陽光を受けて煌めく小樽運河がずっと目に焼きついている。ねだって買ってもらったアイスもおいしかった。ああ、あとオルゴールも作った。好きな曲を選んで自由に飾り付けるのだけれど、欲張ってビーズやラインストーンをいっぱいつけてギラギラにした気がする。 「そういうお嬢ちゃんの行き先は?」 「えっと、恵庭――……って言って分かりますかね? 札幌から車で一時間くらいの場所なんですけど」 「ああ。自衛隊さんのとこかね」 「そっ……そう、そこです」 すんなり通じたことに驚いて、思わず語頭が裏返ってしまった。 自衛隊基地があることで教科書にチラッと出てくる場所だ。ほんとにチラッとだけど。でももちろん、本州ではほとんどの人に伝わらない。そして私も、うまい説明の仕方を見つけられていない。 札幌駅から千歳線に乗って十駅。恵庭よりは聞きなじみがあるであろう北広島駅から四駅先の場所。 色々と表現を変えてみてもやはり伝わる気がせず、そのうちめんどくさくなって次第に「札幌です」と嘘をつくようになった。 いいところかい、とおじさんが聞いてくる。 返しに悩んだのはほんの一時。はい、と気づけば口にしていた。 「田舎だけど、いいところです」  のんびりと時間が流れている感じがして、行くとほっとする。 ただ若い人が珍しいからって、泊まっている間におばあちゃんの友人がひっきりなしに訪ねてくるのはちょっと勘弁してほしい。 それでも素直に言い出せないのは、手土産がお高いケーキやお菓子の詰め合わせだったりするからだ。 何百回聞かされた幼少期の思い出に付き合うにふさわしい報酬なのである。 きっと今年も例に漏れず、襲われるに違いない。  そうして、その後もおじさんとは搭乗のアナウンスがあるまでぽつぽつと話し続けた。 小樽の方言は札幌のものとはまた違うし、年代にも差があるから所々分からない言葉もあったけれど、おじさんは怒らず全部教えてくれた。最初から最後まで優しい人だった。多分もう会うことはないんだろう。最初は不審者かと疑ってごめんなさいと心の中で謝って別れた。  その後、飛行機に乗り込んで窓際の席に座る。隣二つの席はまだ空だった。 青空が広がり、遠くまで見渡せるいい天気だ。これならきっと問題なく向こうに着くだろう。 景色を眺めながらそんなことを考えていると、やがて幼稚園生くらいの男の子とそのお母さんがやって来た。私の隣には男の子が座る。しかし、なぜか落ち着かない様子で私のほうをちらちら見てくる。 疑問に思って視線を追うと、見ているのは私ではなく窓の向こうだと気づいた。 「こっち座る?」  努めて優しく声をかける。途端、男の子は目を瞬かせ、その向こうで代わりに彼のお母さんが口を開いた。 「いいんですか?」 「はい、どうぞ」  私はそのうち寝るだろうし、持て余すだけだ。 素早く交換して座り直すと、お母さんには大げさなほどペコペコと頭を下げられた。同じ数だけ私は首を横に振る。終わりが見えない。 さてどうしたもんかと次の言葉を探していると、 「あの、ありがとうございます」 窓の外を熱心に眺めていた男の子がふと振り返ってお礼を言う。どこか恥じらいが混じりつつも、力強い声だった。無邪気な笑顔につられるように私の頬も綻ぶ。 「どういたしまして」  天気に恵まれ、人に恵まれ。 私の一人旅はなかなかにいい出だしを迎えたのだった。
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