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3
俺は開け放たれた和室で立ち尽くしていた。
布団に横たわる祖父の遺体の傍。
ああ夢だな。それも、じいちゃんが死んだ日の夢だ。
目につくもの、まとわりつく湿っぽい空気感がまるきり同じである。他人の姿は見えないのに、すすり泣く声だけが聞こえる。
じいちゃんが死んだのは冬だった。実際、この瞬間も窓の外では雪が静かに降り続けている。けれど、どうも今の俺には部屋の温度が感じられなかった。
何をするでもなく、じいちゃんの寝顔を黙って見つめる。
当時を思う。
取り乱しはしなかったが、だからといってすんなり受け入れられたわけでもない。今と同じように、ただぼうっとしていた。
慌ただしく通夜と葬儀を終えてやっと現実味が増してきたけど、息子である父さんが泣かなかったから、なんとなく俺も泣いちゃだめだと思った。変な意地だ。
そうやってじいちゃんのことを考えながらしばらくここにいるものの、一向に夢から覚める気配がない。これはやばいなと考え始めた時、ふと空気が揺れた。
気配を感じて首を回せば、すぐ隣に吉尾が立っていた。
自分でも不思議なことに、大して驚きもしなかった。
眠っている時に見る夢は脳が記憶を整理している時に起こるノイズなのだと、どこかで聞いたことがある。彼女が突然現れたのも、きっとそれに当たるのだろう。
手の甲が触れる。言葉はない。俺は引き寄せられるように、けれど心の片隅ではなんとなく躊躇いを感じて指先だけ握った。
やはり握り返した彼女の手からも温度は感じられなかった。
「――……ぇ、っくしょん!」
自分のくしゃみで目が覚めた。
すんっと鼻を鳴らす。そして見慣れぬ天井を前に、自分が今いる場所をすぐさま掴めなかった。
そのまま深く息を吸い込んで頭を回す。そうして、やっと散らかった意識が繋がった。
そうか、ばあちゃんの家か。
昨日は新千歳空港から実家ではなくこの家に直行したのだった。実家が嫌いなわけではない。長らく一人で暮らしているばあちゃんを心配した両親からの頼みもあって、ここに泊まると決めた。
寒気を感じて目を落とせば、きちんと掛けて寝たはずのタオルケットは足元でくちゃくちゃに丸まっていて、Tシャツの裾はめくれ上がっている。こんなに寝相が悪いのはいつぶりか。久々の地元で気が緩んでいるのかもしれない。まあ良質な睡眠だったことは否定しない。昨夜は吸い込まれるように眠ってから、一度も起きなかった。
背を浮かせ、仰け反って頭上を見た。タイミングよく厚いカーテンが柔らかく揺れる。窓を少し開けたまま眠ってしまったようだ。そんな気がしていた。確か、ちょっと蒸し暑かったから風を通そうと思ったのだ。
冷たい空気が細く吹き込んでくる。寒い。俺は足先でタオルケットをつかんで拾うと、片手で肩まで引き上げた。
俺が使わせてもらっているこの二階の部屋は元々父さんの部屋だった。生活自体は一階で全て完結する。数十年前から時が止まっていたままのこの部屋には当然クーラーなんて素敵な物はないし、そもそも必要ない。
窓を閉めにいくのが億劫で、俺はしばらく布団にくるまっていた。結局、起き出したのは十分後だった。
窓を閉めて、次に億劫なのは一階に行くことだった。古くに建てられたからかは知らないが、この家の階段はなぜかとても急だ。幼い頃、朝一番で足を滑らせて転げ落ち、痛い思いをした。
家の中でも安心できないとはどういうことだと思いながらも、まだ緩慢な脳を叩き起こしてなんとか集中力をかき集め、恐る恐る階段を下る。
ようやく階下に降りると、ばあちゃんはいなかった。「おはよう」が宙に消え、片眉を跳ね上げた。
ポリポリと片手でうなじを掻きながら、寝起きの頭を回して理由を探る。
「……ああ」
吐息とも取れるほど掠れた声が出た。
そういえば昨日、友達のナントカさんと出かけると言っていた。佐藤さんだったか、鈴木さんだったか。とにかく、そんなよくある名字の人だった。案の定、ダイニングテーブルに書き置きがあった。
『夕方までには帰ります。冷蔵庫の物は好きに食べていいからね』
相変わらずの達筆だ。加えて、隣にお年玉用のポチ袋があった。頬を膨らませた愛らしいウサギと目が合う。中を覗くと一万円札が綺麗に折られて入っていた。
たかだか一日のためだけに、こんなに必要ない。それとなんかこう、もう少し違う袋はなかったのか。いや、銀行の素っ気ない封筒よりはいいけれども。一人で苦笑する。
孫にあたるのは、俺と従兄弟合わせて三人だ。しかも使うのは年一回。きっとそれなりに余っているのだろう。
俺は十分すぎる金が入った袋をそっと戻し、食器棚に歩み寄る。
コップを取り出して蛇口をひねると、コップを満たした水を一気に喉に流し込んだ。次の瞬間、キィンとこめかみに痺れが走る。北海道の水道水はおいしいと以前、吉尾が言っていた。夏でも生温くないし、もやっとしてないからと。
俺は頷いた。彼女の言う『もやっ』を本州に行って初めて体感した。舌に残る違和感。水もどこか重い。筆舌し難い引っかかりに思わず眉が寄った。
思い出した時、俺はよっぽど変な顔をしていたのだろう。珍しく吉尾が声を立てて笑っていた。
一晩で放出した水分を取り戻すとテレビをつける。昼のワイドショーが流れた。
「お次はスポーツのコーナーです!」
HBCの女性アナウンサーが声を張る。寝起きの俺にはその笑顔が少し眩しい。
冒頭を飾るのはやっぱり野球だ。前日の試合では選手が活躍した場面が切り取られている映像だが、試合自体は負けた。
こう言っては何だが、やっぱりなという気持ちのほうが強い。若手が多いチームだからまだまだ伸びしろのほうが大きいのだ。
そういうのを道民全体で見守り、成長を喜ぶ感じがいいんだろう。毎回リーグ戦上位に入るチームのように即戦力揃いではないからこそ、応援したくなるのかもしれない。
冷静に分析しながら、適当に焼いた食パンをもそもそ咀嚼する。分析したところで、特に身にはならないが。
くあ、と大きな欠伸を一つ。
当然食パン一枚では足りなさすぎて他に食べる物を求めてまた立ち上がる。
取っ手を引く間際、俺はちらりと傍の壁を見た。イケメンと称されたピッチャーと目が合う。やっぱりどうしても気になる、このポスター。
「メジャーに行ったの何年前だよ……」
ばあちゃん、もう剥がしたほうがいいって。なんて思っても、わざわざ球場まで足を運んでもらいに行ったと聞かされてしまえば言い出せるわけがない。
日本にいても時々ニュースでその名前を聞く。月並みな言葉だが、優秀な選手だ。加えて、メガネ取ったらイケメンならぬ、帽子取ったらイケメン。おば様たちにも大人気だ。
北海道から世界へと旅立って行ったから、その活躍を聞く度に熱狂的なファンでない俺もちょっと誇らしい。身内びいきなのかもしれない。結局、俺も道産子ということだ。
そんなことを考えながら、冷蔵庫を漁る。だが、手頃な物が何もない。もうこのハムそのまま食うか。四パックで一セットになったそれを持ち、思案する。こういうどうでもいいことに限って優柔不断になるのはなんでなんだろうか。
決断するより先に冷蔵庫に怒られた。さすがに侘しすぎると一旦戻し、扉を閉める。そしてふと、コンロに置かれた鍋が目に入った。
ふらふらと近づいて蓋を開ける。微かに湯気が立った。
「お、とうきび」
ぎっしりと詰まった黄金色の実がつやつやと輝いている。一本を半分に折って茹でられたものが四つ入っていた。二つ取って、テレビの前に戻る。黄金色をした大きな粒がぎっしり詰まったそれにためらいなくかぶりつく。歯で身が弾けた途端、口に広がる甘さに頬が緩む。これは当たりを引いた。
あの名店が夏限定スイーツを発売しただとか、観光地のキャンペーンだとか。
目の前で踊るポップな文字を見ながら、実の間から生えたヒゲが歯に引っかかることも構わず、俺はとうきびの咀嚼に勤しんだ。
一人きりの部屋では、当然俺が立てる音だけが響く。さっきまで見ていた映像がよぎった。変な夢だった。
目覚めた後も脳に残っている夢は懐かしく、不思議なものだった。それに引っ張られるようにして、俺はじいちゃんのことを思い出し始める。
時間が遡行する。窓の外には雪景色が広がった。
つなぎを着てニット帽を被り、手袋を履いた(吉尾によれば、これも方言らしい)五歳の俺はせっせこバケツに雪を詰めていた。
スコップでぎゅうぎゅうに押し込めて、重いそれをひっくり返す。そっとバケツを引き上げる。そこまでしないと固まらないのだ。かき集めて握ったところで、漫画のように丸くはなってくれない。雪がサラサラすぎて、遊ぶのも一苦労なのである。
『陸久』
少し掠れた声に呼ばれて振り返る。じいちゃんは雪がこんもり積まれたソリの綱を握っていた。それから、口の端を吊り上げる。これはろくでもない事を考えている時の顔だ。
『ほら、乗れや』
どこに。乗れる所なんてないだろうと、俺は眉をひそめる。するとそんな様子に焦れたのか、じいちゃんは突如俺を抱き上げたかと思えば、雪の山の上に乗せた。そうして一人で満足げに頷いた後、ソリを引き始める。
微塵も乗客に配慮がない乗り物だった。ぐらつく視界に恐怖を覚え、俺は必死に目の前の綱に捕まった。連れて行かれた先はこれまた雪の山。近所からの人と共に作り上げられた収集場所のようなものだ。
そこに、なんとじいちゃんはソリごと俺を投げた。
ぼふん、と背で受ける衝撃。ニット帽越しに冷たさを感じ、それがじわじわと広がっていく。痛くはない。だからこそ、何が起こったか分からなかった。気づいたら雪に埋もれていた。
じいちゃんはけらけら笑うと、呆然としたままの俺を抱き上げてまたソリに乗せる。
『陸久はめんこいなぁ』
手袋を履いた手にくしゃくしゃと頭を撫でられた。また進み始めたガラゴロ言う空のソリもやっぱり乗り心地は最悪だった。
北海道では雪かきのことを雪投げと言う。つまり俺はあの瞬間、雪山に捨てられたわけで。字面にした途端に物騒になり、いつも笑ってしまう。
途切れず、記憶の中の季節は進んでいく。
本州のように湿気はないものの、日差しが照りつける夏。
じいちゃんはママチャリの後ろに俺を乗せて近所のセイコーマートまで走らせると、アイスの冷凍ショーケースまで促した。好きな物を選んでいいと言うので、毎回ソフトクリームをねだった。
本州でも色々食べ比べたが、俺は今でもコンビニのソフトクリームの中ではセイコーマートの物が一番おいしいと思っている。
あと、せっかちだった。
小学校高学年くらいだったか。従兄弟たちと夜に花火をやることになった。しかし子ども達よりも誰よりも、あの人は声を上げた。
『おう、お前ら。花火やるべ』
まだ午後五時である。陽も落ちきっていないし、夕飯さえまだ済ませていない。部屋から出てきて一番に言うじいちゃんに大人達は笑ったり宥めたりしていたが、俺にはそれがうざったく思う時もあった。
そんなじいちゃんは、俺が高校二年生の時に亡くなった。
初めて知ったことはいくつもあった。まず、感触と体温。触ってあげてちょうだい、とばあちゃんに頼まれて握った手は驚くほど冷たかった。
それから、死化粧の仕方や、じいちゃん自身について。
葬儀が終わると、遺族は相続人の調査をする。例えば隠し子がいないかなど、戸籍謄本を集めて確認するのだ。すると、じいちゃんの先祖が本州の人である可能性が浮上した。
はっきりしたことは分からない。だが妙に納得できた。もし事実ならば、その先祖は屯田兵だろう。色々な場所から来た人間が集ってできた土地。そんな北海道の歴史を肌で感じた瞬間だった。
『いっそどっかに頼んで家系図作ってもらえば?』
必要な手続きなど諸々が落ち着いた頃、その話を酒の肴にして笑う父さんに聞くと、
『……だめだ』
『なんでさ』
『ならず者がいるかもしれないべさ。いや、いるに決まってる』
『いねえって』
酔っ払いは真顔で冗談を言う。
そろそろ止め時だろうと察した俺は、顔が赤い父さんに水割りだと嘘を言ってただの水を飲ませ、寝室に追い立てた。ふらふらとおぼつかない足で消えて行った背中を見送ったところで、この話はおしまい。
好奇心も期待もみるみるうちに萎んでいった。
万が一、本当にならず者がいたら嫌だし。いつか自腹で頼んでみようかとまだ微かに思いが残っていることも否定できない。けれど、きっと時間と共に擦り切れていくだろう。根拠など何もないけれど、なんとなくそんな気がした。
じいちゃんがいなくなっても、確かにいた証はあちこちに存在し続けている。
ひとしきり過去を回想し、思考の時間軸が現在に戻ってくる。
地元を出て上京したはいいものの、最初は戸惑うことばかりだった。
信号機は縦じゃないし、玄関フードもない。何より、地下鉄の乗り換えが複雑すぎて訳が分からない。ずっとテレビの向こうにあった景色を前に、ただただ圧巻された。
大学に入ってからもそうだ。新しい環境に揉まれて、ついていくのがやっとだった。
北海道弁は比較的、標準語に近い。基本的な会話は、素の俺でも難なくできた。でも当然、仲が良くなるほど会話も増える。
単語一つ、方言になるだけで意味が通じなくなる。いちいち会話を止めてしまう。友達には直接責められたわけじゃないけれど、困らせているとすぐに察した。
罪悪感は積りに積もっていく。そして、俺は自ずと聞き役に徹するようになった。
たかが数ヶ月で話し方を変えられるわけもなく、俺は人前で長く話すことを慎んだ。
虚しさはあった。でも、どうやったってどこかでボロは出る。
そんな感じで一年を終え、特に変化のない二年目を過ごし始めた時に吉尾と出会った。
吉尾凪は、俺にとってあまり馴染みのないタイプの人間だった。ぼんやりしているようでいて案外周囲をよく見ていて、たまに辛辣なことを言ったりする。だいたい決まって折野優月の隣にいるが、正反対な彼女と無理に付き合っているようではない。
マイペース。そんな言葉で片付けていいのかは分からないが、最も近しい表現はそれだと思う。
彼女が頷く度に、顎あたりで切り揃えられた黒髪のショートカットが揺れる。とりあえず、で打つ相槌じゃない。本当に意味が通じている時の声だった。
彼女の隣にいると気が緩む。他の人と違い、接する時に緊張を張らずに済んだ。馬鹿にするように、俺の訛りを繰り返すこともない。居心地がよかった。
『あの、やっぱり無理しなくていいと思うよ』
ふいに彼女の言葉を思い出す。優しく、宥めるような声だった。
『方言も個性だと思うし』
恥じるものではないと、彼女は言った。
確かに、そういう捉え方もあると知っている。頭では十分理解している。けれど単にそれは理解にすぎず、じゃあ俺が実際にできるかと言えば、また別な問題なわけで。
一言で表わすならば、怖い。吉尾相手でも、まだ言葉を発する直前にためらってしまうことがある。無意識にブレーキがかかる。代わりに、頭は共通言語を弾き出そうと必死に高速回転する。
「同じ日本人なんだけどなあ……」
伝わらないことが怖くて、辛い。そして結局、自分が今の状況をどうしたいのかもいまいちよく分からない。重い荷物を持って、迷路の中でずっとぐるぐる回っている感覚だ。
今日もため息で思考を断つ。食べ終わったとうきびの芯を持って立ち上がり、投げた。一拍遅れて、これも方言だったと改めて気づいて落ち込む。まさに堂々巡りだ。
「あーあ、わやだねえ」
片手で髪の毛を掻き回して、俺は扉に向かう。
腹も満たされたことで、とりあえず二度寝することにした。咎める人もいないし。
急な階段を上るのは億劫だが、それ以上にこの負のループを続ける思考から解放されたかった。
無事に二階に辿り着くと、敷きっぱなしにしていた布団にすぐさま潜り込む。目を閉じて意識が落ちる前、また吉尾の言葉がよぎった。
『わや、も北海道弁だよ』
まったく、ひどいものだ。
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