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1.始まりの夜
空を見るよりも地面を見つめていた方がずっと落ち着く。それはどこまでも遠く、終わりの見えない景色に不安を抱くからだろう。少なくとも明は天を仰ぐ度に心を掠める自身の感情をそのように解釈していた。
明は花束とお菓子の入った紙袋をそっと地面に置き、赤錆の目立つ柵に少しだけ体重を預ける。
誰もいないアパートの屋上で一人、こうして夜の街をぼうっと眺めるのが明の習慣だった。
今から二十年以上前、まだ小学生だった頃の話だ。
明はこのアパートに母と二人で暮らしていた。住んでいたのはほんの三年ほどだが、ここでの生活は明の心に幸せな時間として刻まれている。
結婚して再びこの近くに引っ越して来たのが六年ほど前。そのときにはすでにこのアパートは空き家と化していた。
誰も住む気配はない。かと言って取り壊される様子もない。ただ朽ちていくだけのこの建物を明は大層気に入った。
それはここが思い出の場所だからだけではない。安心したのだ。何を成すわけでもなく、ただ年だけを重ね、毎日を同じように生きるのが自分だけではないことに明はホッとしたのである。
そう感じて以来、明は時折この廃アパートに忍び込んでは、屋上から夜の街を見下ろしていた。
無論、それが悪いことだという自覚はある。だが、やめられなかった。この廃墟だけがこの街で唯一、安心できる場所だったからだ。
明は柵へと寄りかかると、服が錆で汚れるのも厭わずに、不安定な金属の棒へ体を預けた。ギイ、ギイと金属の軋む嫌な音を聞きながら、少しだけ晴れやかな気分で街の灯りを見つめる。
もっとよく見てやろうと、体を乗り出すようにして下を覗き込めば、冬の始まりを思わせる冷たい風が半身を通り過ぎていく。寄りかかっていた柵はますます悲鳴を上げて、ついにはぐらぐらと揺れ始めたが、明にはどうでもよいことだった。
蛍光灯の光に吸い込まれる蛾のように、明は街々を彩る灯りに魅せられていた。ビルを煌々と照らす無機質な光も、小さな家に灯る暖かい光も、明が憧れてやまないものだ。
——ここから落ちれば、手に入るのかな。
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