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光に手を伸ばそうとしたその時、低く冷たい声が明を呼び止めた。
「何をしている」
突然聞こえた人の声に明は小さく悲鳴を上げると、跳ねるようにして柵から身を引き離した。背後を振り返れば、鉄扉の前に長身の男が立っている。
「その……」
明は咄嗟に口を開いたが、体のいい言い訳など思いつくはずもなかった。顔を強張らせる明をよそに、男はどんどんと近付いてくる。
暗がりから出てきた男を見て、明は思わず息を呑んだ。殺風景な廃屋には似つかわしくない美丈夫である。
陶器のようにしっとりとした白い肌は、月明かりに照らされてより一層その白さを増す。対照的に髪はこっくりとした濡羽色で、まるでヨーロッパの古城に眠る吸血鬼のようだ、と明は思った。
品のある顔立ちと所作をしているが、前髪から覗く切れ長の目は冷たさを湛えたまま明を捉えて離さない。その視線に明は居心地が悪くなって下を向いた。
「自殺なんて馬鹿な真似はよせ」
男は少し怒気を含んだ声で言い放つ。それを聞いて、明は一等不快な気分になった。
別に死のうと思っていたわけではない。ただ少し——楽になりたかっただけだ。第一、知らない人間に説教される謂れなどない。
明はすっかり自分の不法侵入を棚に上げて、この男に敵対心を抱いた。突然現れてこちらの事情も聞かずに説教してくるなど、不愉快極まりない。
「別に死のうとなんかしていません」
明はコンクリートの地面を睨め付けながら、ふてくされた子供のように呟いた。言い返されるかと身構えたものの男は何も言わない。二人の間に流れる沈黙に居心地が悪くなり、明はおそるおそる視線を上げる。
男は無表情で明を見つめていた。同情でも侮蔑でもない、奇妙なものを感じて明は男の顔から目を逸らす。
妙に身なりの良い男だ。全身黒づくめで怪しくはあるが、細身の体型に合った上等な服を着ている。身につけている腕時計も華美ではないが、安物といった雰囲気でもない。いずれも日本ではあまり見ない物であることを考えれば、海外ブランドを愛用しているのだろう。
明はますますこの男に反感を抱いた。自分が下に見られているような気がしてならなかったのだ。
「別に私がここで何をしようが、あなたには関係ないじゃないですか。放っておいてください」
「関係ある」
「何を根拠にそんな——」
「ここの所有者は俺だ。だから大いに関係がある」
男の信じられない言葉に、明は大きく瞬きをした。
「死のうとするのは君の勝手かもしれないが、俺の建物で、となれば話は別だ。悪いがよそを当たってくれ」
嘘だ、と言いかけて明は口を噤んだ。
身なりもきちんとしている。土地の一つや二つ、持っていてもおかしくはないだろう。しかしこの男が本当に所有者だというのならば、廃墟を放置しているのが些か引っかかる。
嘘とも本当とも思える男の発言に、明はとうとう考えるのも面倒になった。
「別に死にたいわけじゃないんです。もう少ししたら帰りますから、私に構わないでください」
明は男から離れようと一歩、また一歩と後ずさった。トン、と背中に柵が触れる。
長年放置されていたせいか、それとも先ほどまで寄りかかっていたのが仇となったのか。軽く背中が当たっただけのはずなのに、柵は断末魔のような音を立てて根元からボキリと折れた。
あ、と声を出す暇もなく、明の体が後ろへ倒れる。体が宙に投げ出されるのが、やけにゆっくりと感じられた。
三階建てとはいえ、ここから落ちれば無事では済まないだろう。当たりどころによっては死ぬかもしれない。
けれどもどこか安心感を覚えるのは何故だろう。ようやくゆっくり休めるような気がして、明は満足げに目を閉じた。
「おい!」
緩やかな静けさを破ったのは男の怒声で、明は冷たい風に全身を包まれるより先に、右腕に焼けつくような熱さを感じた。
男が自分の腕を掴んだのだと理解する間もなく、明は男の腕の中に引き戻される。そのまま強く抱きしめられて、明はどうすることもできなかった。
「こんな真似はよせ」
男の低く静かな声に、明は全身が熱くなるのを感じた。
「離して」
明は小さく呟く。
自分は今、何を思ったというのか。命を助けられたことよりも、この男に抱きしめられたことに高揚感を抱いてしまった自分が確かにいた。
「離して!」
明は男の胸を強く突く。思っていたよりもあっけなく男の体は明から離れた。
男は突き飛ばされたというのに、怒りとも悲しみともつかない表情で明を見ていた。
どうしようもない恥ずかしさに耐えられず、明はそばに置いていた紙袋を掴むと、扉に向かって一目散に走り出す。何か声をかけられるかと思ったが、男は何も言わなかった。追いかけてくる気配もない。
明は火照った顔を冷ますように、夜の街を駆け抜けた。
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