私のまほろば

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 中学二年の夏休み最初の日、お母さんがいなくなった。彼氏としばらく旅にでる──そんな書き置きと、よれよれの一万円札を残して。「なごみはしっかりしてるから、ひとりで大丈夫でしょ。お父さんにそっくりだもんね」というのがお母さんの口癖で、家をあけるのは決して珍しいことじゃない。  それに先月からうちで寝泊まりしている常田さんも一緒に出かけてくれたことを思うと、ホッとしている自分がいた。  お母さんは彼氏ができるといつもすぐに家に連れてくるのだけれど、赤の他人が同じ屋根の下にいることの息苦しさにはいつまで経っても慣れることができない。  その日、私はアパートの自室で宿題をしたり図書館で借りた本を読んで過ごした。昼食は家にあった菓子パンで済ませ、夜になったら近所のコンビニへ弁当を買いに行く。  私にとってはいつも通りの、ままある日常だった。  そういえば以前この暮らしのことを学校のクラスメイトに話したことがある。  いつも門限が厳しいとか親がうるさいとか嘆く彼女たちは、口々に「いいなぁ、羨ましい」と繰り返した。でも、お母さんが家をあける頻度を知るにつれ、だんだん何も言わなくなったっけ。  それでなんとなく私も、これは他人には言わない方がいい話なのだと理解した。他の子たちの家庭とは違うことは薄々感じていたけれど、友人たちの間を流れた微妙な空気をまざまざと肌で感じたのだ。  翌朝、けたたましい呼び鈴の音とともに私のもとにやってきたのは九年ぶりに会う従姉妹の里莉ちゃんだった。玄関のドアを開いた瞬間、部屋へ飛び込んできた彼女は私をぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。 「なごちゃん、なごちゃん、ああ、なごちゃんだ。遅くなってごめんね。ずっとどうしてるのかなって思ってたのに、こうなるまで私ちゃんと知らなくて」  汗ばんだ腕の力強さと、一方的にまくしたてられる言葉に目を白黒させてしまう。 「え、ちょ、ちょっと、なんなんですか」 「もう、敬語なんてやめてよ。寂しいじゃん。なごちゃん、ショートカットにしたんだね。昔はよくふたつ結びにしてたのに」  鼻腔をくすぐる甘い香水のにおいにクラクラしながら、思わずその腕を引き剥がすと「わ、ごめん。そっかあ。そうだよね。なごちゃんももう小さな子どもじゃないんだもんね」と里莉ちゃんが慌てたように両手を合わせて勢いよく頭を下げる。  潤んだ大きな瞳の下に、黒く滲んだマスカラのシミ。幼い頃の朧げな記憶のなかでは、彼女は黒髪をポニーテールにした親切で利発な中学生のお姉さんだった。それが今、目の前にいるのはピンクがかった茶色いロングヘアと密度の濃いメイクをした大人の女性だ。  お母さんが何日も家をあけるのはいつものことだけれど、こんな風に誰かがうちに来るなんて初めてのことで頭が混乱した。開けっぱなしになっていたドアのむこうから蝉の鳴き声がわんわん響いて、余計に頭のなかが痺れてしまう。 「本当に大きくなったねぇ。前にじいちゃんちで会ったときは、こーんなに小さかったのに」  そう言いながら、里莉ちゃんが今度は満面の笑みで三和土にくっつくくらい手のひらを下げて見せる。そんなに小さいわけがない。十センチにも満たないなんて、それこそ蝉か何かだ。  いまいちどう返していいか分からずにいると、「って、これ笑うとこ。いくら四、五歳でももっと身長あったし! ってツッコんでくれていいから」なんて舌を出す。  まるで離れていた時間や物理的な距離を、一足飛びに越えようとしているみたいに。  里莉ちゃんはウェッジソールの分厚いサンダルを脱ぎ捨て、さっさと部屋にあがると私に荷物をまとめるよう指示した。  挙げ句の果てにはなかなか動けずにいる私にはおかまいなしで、勝手に部屋の隅に転がっていたスーパーのビニール袋を手にとって荷造りをしようとまでする。  理由を訊けば、彼女はあっけらかんと「なごちゃんを迎えにきたからだよ。今日からしばらくうちにおいで」と言った。 「どういうこと? お母さんは何日かしたら戻ってくるよ。いつもどおり、ここで留守番してる」 「何日かしたらって」  里莉ちゃんが呆れたような、悲しんでいるような、いろんな感情がないまぜになったみたいな複雑な顔で私を見つめた。 「そもそも、そんなのおかしいよ。なごちゃん、まだ子供なのに」 「でも、もっと小さい頃から留守番してるよ」 「数時間の留守番とは訳が違うでしょ。それに今回はうちのママのところに連絡があったんだよね」  私が里莉ちゃんとずっと会っていなかったように、お母さんも彼女の母親とはまったく連絡をとっていなかったらしい。お父さんと別れて一人目の彼氏と再婚する時に親族とは縁を切った。深酒して帰った朝方などに、何度も何度もそれはお母さんの口から聞いていた。姉妹でも、アイツにはあたしの気持ちも苦労も分かりっこない。そう繰り返される恨み言。 「ママが連絡してもずっと着信拒否して、そのうち電話番号も住む家も変わっちゃったみたいなんだけどね。昨日、何年かぶり電話がきたの。それで」  里莉ちゃんは一瞬、口ごもって言葉を探すみたいに視線を泳がせたあと「なごちゃんのこと、頼まれたんだよね」と明るい調子で言った。  頼まれたといえば聞こえはいい。でもきっと本当のところは押し付けられたんだろう。  いつかこうなるような気がしてた。お母さんが家をあける時間も日数も、どんどん長くなっていたし。  どうにかして、それを中学生になったからだと思おうとしてきたけれど、お母さんはお父さんに似た私と距離をおきたいんじゃないか。いつかいなくなってしまうんじゃないか。お母さんの態度や言葉から、私はずっとそう感じてきた。 「現状を知った以上、まだ未成年のなごちゃんをひとりになんてしておけない。とりあえず今後どうするか決まるまでうちで面倒みるから」  今度はまっすぐ私を見つめながら、里莉ちゃんはよどみなく告げた。 「わかった」それだけ応えて、ナイロンの通学バッグやビニール袋に数日分の着替えと勉強道具をまとめる。  座卓のうえの、まだ一割ほどしか手をつけていない宿題の数学ドリル。これは必要だろうか。夏休みあけ、これまで通りに学校に通えるのかも分からないのに。  お母さんが帰ってこないだけで、私なんて宙ぶらりんになってしまう。中学生になって前よりちょっと大人に近づいていた気がしたのに、私はまだ間違いなく子どもで、子どもでいる限りは無力だ。  悲しくなんてない。ショックを受けてもいない。お母さんのことは、なかば覚悟はできていた。だから大丈夫。大丈夫。 「なごちゃん?」  背後から呼び掛けれて振り向くと、里莉ちゃんが気遣わしげに小首をかしげた。何かを言おうとして口をとざす。私はそんな彼女に背を向けて、荷造りを続けた。
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