私のまほろば

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 里莉ちゃんの淡いピンクの軽自動車に乗ってから三時間。高速道路を降りて真夏の日差しを眩いほどに反射する海沿いを走っていたかと思ったら、いつの間にかしばらく曲くねった山道を上り、また下りる。  民家が増えてきて小さな商店街といくつかの背の低いビルのある街が見え、車は気付けばまた緑の鮮やかな山道を走った。  そうして私たちは里莉ちゃんが三年ほど前から住んでいるという家に到着した。 「どう? 覚えてる?」  後部座席のドアを開けて私の荷物を取り出しながら、里莉ちゃんがいたずらっぽく笑う。 『静岡で食肉になる肉牛を育ててるんだ。実家はマンションで手狭だし、ママはパパばあちゃんの介護があるから、私の家に来てもらった方がいいと思って』。  ここに来るまでの間、里莉ちゃんは私にそう説明した。彼女に差し出されたたくさんのお菓子やジュースを抱えながら、それ以上の疑問を抱くことなく聞いていたのだけれど。今、目の前にある景色に、私は一瞬で心を奪われていた。  咲き乱れる花壇の花々で色彩豊かな広い庭と、大きな日本家屋。庭に接する飴色の縁側が窓硝子越しでもつるりと日差しを反射している。豊かな山の緑に抱かれるように建つ姿に、懐かしさで胸が震えた。 「ここって、おじいちゃんの……」 「そう。じいちゃんが亡くなってしばらくはそのままになってて、たまにお父さんたちと一緒に草むしりとか片付けには来てたんだけどさ。近くの牧場経営者が譲り先を探してるって聞いてね。それならいっそここで暮らしながら働こうって三年くらい前に越してきたの。懐かしいでしょ?」  こくこく頷けば、里莉ちゃんは満足したように息をついて玄関の引き戸をあけ、屋内へ入っていった。  この家はおじいちゃんが暮らし、営んでいた民宿だった。お母さんが親族と絶縁するまでは、私も毎年、ゴールデンウィークやお盆になると遊びにきたものだ。  最後にきたのはまだ保育園に通っていた、五歳くらいだったと思う。近くの川で泳いだり、裏の山中で虫取りをしたり、この庭で親戚や宿泊客の子どもたちと駆けまわった。そのなかには当時、中学生だった里莉ちゃんもいて、ずいぶん遊んでもらったっけ。 『いってらっしゃい』  おじいちゃんは帰っていく私たちや宿泊客を、いつもそう言って見送ってくれた。  名前を呼ばれて、私も家の中へ入る。造りからしてかなり古い建物なはずなのに、中は明るく清潔なかんじがする。私の考えに気が付いたのか、里莉ちゃんが荷物を奥へと運びながら微笑んだ。 「大学時代のバイト代、全部はたいてリノベしちゃった。砂壁も真っ白の壁紙に変えて、水まわりも新品だよ」  黙って彼女のあとについていくと、廊下の先のトイレを指しながら「古い家だからってボットン便所じゃないから安心して」と続ける。 「今は壁を取ったり梁を敢えて出しちゃったりとか、おしゃれにするのも流行ってるらしいんだけど。じいちゃんの家の思い出も壊したくないからさ。最低限のことだけ、やったつもり」  里莉ちゃんは階段を上り、もとは客室として使われていた八畳間に案内してくれた。当面の私の部屋、ということらしい。畳敷のこの部屋はアパートの自室よりよっぽど広く、他の場所と同様に清掃がいき届いていて、新しい井草の匂いに溢れていた。 「しばらく、お世話になります」  我ながら、ぎこちない。けれど他に言葉も見つからず、こんなときにとるべき正しい態度も分からない。  襖の前で手持ち無沙汰に佇む私の髪を、里莉ちゃんがぐしゃぐしゃとかきまわした。 「やー、さすが中学生。しっかりしてる!」  およそ中学生を扱うものではなさそうな手つきで、ひとしきり私を撫でまわしてから、彼女は柔らかく口角をあげた。 「そんな堅苦しいかんじはやめよ。しばらく会ってなかったっていったって、同じ血の流れる従姉妹じゃん。それに私、なごちゃんのことをお世話する気はないからね。できることは自分でやってもらうし、家事も分担ね」あ、料理はほとんどできないんだけど、なごちゃんはどう? できる? と続ける。 「少しだけなら……」  ふと、小学五年生のときに初めて家で味噌汁を作ったときのことが頭をよぎった。調理実習で習ったばかりの料理をし、お母さんを喜ばせようと思ったのだ。  期待するだけ、無駄なのに。夕方になってのそのそと布団から起きたお母さんは、私の差し出した味噌汁のお椀に一瞥をくれると、口をつけないもしないで家を出ていった。  長らく使われていなかった炊飯器の使い方を、勝手に棚から引っ張りだした説明書で覚えたのもこの頃。しばらくはめげずに白米を炊き、味噌汁を作り続けた。  幸い、お母さんが留守にする時にくれるお金があったから、材料費には困らなかった。調理実習で習うたび、味噌汁は玉子焼きや魚のソテーに変わったけれど結局食べてもらえたことはない。  日に日に、料理をすることが虚しくなった。いつしか視界に入れてももらえなくなった料理を、たった一人で食べるのはあまりにも味気なく、いつまでも残り続けたままの料理を食べてお腹を壊しても、胸の痛みの方が強くて涙が溢れた。お母さんに少しでも期待した自分が、馬鹿馬鹿しい。 「助かるー! 今日は疲れちゃったし、スーパーの惣菜で済ませる予定だから料理の腕は必要ないけどさ。これからよろしくね」  里莉ちゃんの陽気な声に、意識が急浮上する。そうか、今日から私は里莉ちゃんと一緒に食事をするんだ。  誰かと同じテーブルを囲んでご飯を食べること。そんな当たり前のことが、どうしても私の胸をざわめかせた。
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