私のまほろば

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 荷物の整理を終えると、里莉ちゃんは「買い出しに行くぞー!」と私を外へ連れ出した。アメリカンチェリーみたいな色のどっしりとしたバイクに跨って、後ろに乗るように促す。 「このフォルムのどっしり感と可愛い色のアンバランスさが良いんだよねぇ。さ、乗って乗って」 「バイクなんて乗ったことないよ。落ちたりしない?」 「平気、平気。女同士だし、遠慮なく腰に捕まってなさい」  恐る恐る里莉ちゃんの後ろに跨ってみる。重心の低さのせいか、思ったよりも頼りなげな感じはしなくて、私はおずおずと里莉ちゃんの腰に腕をまわした。彼女のグローブをした手が、それをぎゅっと抱き直させる。 「昼間はあっついけど、この時間なら山を抜ける道路を走るのは気持ちいいよ。しばらく一緒に暮らすんだ。なごちゃんもこの辺りのこと、よく見ておいてね」  その言葉を合図にバイクが走りだした。おじいちゃんの――今は里莉ちゃんの家をぐんぐん離れて、右へ左へ曲がりながら山道を下りていく。艶やかな緑の間から射し込む橙色の綺麗な夕日と、全身にあたる冷んやりとした風が気持ちいい。真夏だというのに、半袖Tシャツでは少し肌寒いくらいだ。あっという間に過ぎていく景色は自動車に乗っている時とは違うスピード感があって、お尻に伝わる振動さえも楽しい気分にさせてくれる。  家を出発してから二十分ほどが経ったところでバイクは小さなスーパーマーケットの駐車場に停まった。私の住んでいる埼玉では見たことも聞いたこともない『なかのや』という店名なうえ、褪せた看板を照らす電球もきれかけて明滅を繰り返していたけれど、予想に反して客入りは多い。  里莉ちゃんは勝手知ったる様子で店内を進み、大量の野菜と肉をカゴに入れていく。およそ二人では食べきれなさそうな量になり、私が止めようと声をかけても「なに言ってんの。なごちゃん、まだまだ成長期でしょ? たくさん食べないと」とニコニコするばかり。  他にもスナック菓子やチョコレート、ジュース、アイスクリームなども追加するので、私は徐々に心配になってきた。お母さんの置いていったお金と、これまでの余剰金を合わせても手持ちは二万円ほどしかない。三日になるのか、一週間になるのか、もっと長くなってしまうのかは分からないけれど、お世話になる間、自分の食費はだすつもりでいた。けれどこのペースで買い物をしていたら、きっと数日しかもたない。  里莉ちゃんに所持金について説明すると、彼女は目をまん丸に見開いた。マスカラでみっしりとした目元から瞳がこぼれ落ちそうだ。そして「へえ」とも「はあ」ともつかない息を漏らす。 「なごちゃん、本当にしっかりしてるねえ。中学時代の私に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらい。お金のことなんて気にしないでいいのに」 「そういうわけにはいかないよ。ただでさえ迷惑かけてるんだから」 「迷惑なんかじゃないけどね。今朝も言ったけど、なごちゃんはまだ未成年なんだから。生活費のことになんて、頭を悩ませなくていいんだよ。ちょっと家事でもしてもらえたら、それで十分」  そのまま里莉ちゃんは山盛りのカゴから商品を減らすことなく、惣菜コーナーで私に弁当を選ばせて、あっという間にレジへ向かってしまった。店員が品物のバーコードを読み取る間には「あ、牧場にも遊びにおいでよ。納得いかないなら、牛のお世話も手伝ってもらうってことでどう?」とさえ言う。  彼女の言葉は、とてもありがたいものだ。世間的には、もしかしたら普通のことを言っているのかもしれない。それでも私は里莉ちゃんの優しい言葉が、恐かった。当たり前のことのように差し出されても、どう受け取ったらいいのか分からないのだ。  お母さんとは違う価値観をもっている大人の女性を、私は知らない。優しい言葉を素直に受け取ることができるのは、きっと優しくされるのに慣れている人間だけだ。だから私が里莉ちゃんに言葉を返せないでいるのも当然のことだと思う。お母さんの優しさなんて、お父さんがいた頃の遠い記憶のなかにしかないのだから。  それにしても里莉ちゃんはどうして従姉妹でしかない私に、こんなに親切にしようとするのだろう。しかも長らく疎遠になっていて、お互いの記憶だって保育園児の幼い私と、おしゃれ好きで面倒見の良いお姉さんの里莉ちゃんで止まっているのに。  現在の里莉ちゃんはというと、支払いの済んだ商品をサッカー台で持ってきた保冷バッグに詰め、更にそれを大きな筒型のリュックサックに入れて私に背負わせる。そして店の外のベンチに誘い、袋詰めのときに避けておいたアイスクリームを顔の前でかかげて見せた。水色のソーダ味と、クッキーアンドバニラ。どっちがいい? と訊かれても遠慮をする私に、彼女はクッキーアンドバニラを差し出してくれる。  おとなしく礼を言って受け取ると、ふたりで並んでベンチに腰かけた。ひとくち齧れば、甘さが柔らかく口のなかで溶けていく。バイクに乗っていたときとは違う体感温度に、アイスクリームの冷たさが心地良い。  駐車場に背を向けるように据えられたベンチからは、なかのやの出入り口の横、猫の額ほどの駐輪スペースと電話ボックス、三台の錆の浮いて古びたガチャポンマシンが見えた。そこを行き来する買い物客をなんとはなしに眺めながら、徐々に緩くなっていくアイスクリームを食む。  しばらくするとガチャポンマシンの前に父親を伴った兄弟と思しき幼児が二人やってきた。彼らは父親から受け取った小銭で、それぞれマシンのハンドルをまわす。取り出し口に出てきたカプセルをその場で開けると、二人は何やら言争いを始めた。目当ての景品が出なかったのかもしれない。弟らしき男の子は今にも泣き出しそうな顔で、兄の手の中を見つめている。  私の視線に気が付いたのか、兄弟の声が耳についたのか、里莉ちゃんが「ガチャねえ」と小さく呟いた。そしてまたアイスクリームをひと舐めして、そちらを見つめたまま口を開く。 「最近、親ガチャって、よく言うじゃない?」 「うん」クラスメイトもたまに口にする単語だ。お小遣いが少ない、門限が厳しすぎる、進路への口出しがひどい、料金の高い美容院に連れて行ってくれる、スマホゲームに課金するための軍資金を弾んでくれる――様々な理由で、うちはハズレだ、アタリだと両親を判定する。 「ね。あれってさあ、子どもが引くってことだよね? 親の入ったカプセルを、ああいうマシンの前でこう、ガチャって」 「なんか違う気がするけど……子どもがアタリハズレを判断するってことは、そうなんじゃない?」 「それなら子どもは、どうやって引くだろうね? 卵が先か、鶏が先かみたいな話?」 「えぇ」ぽかんと口を開けてしまうくらいには、里莉ちゃんの言葉はひどく的外れだ。 「だってガチャを引けるようなタイミングには、子どもは母親のお腹の中にすらいないじゃん。それともあれか。親を選んで生まれてくるってやつ? それがお空の上からこっちを見下ろして選んでいるわけじゃなくて、空の上に大きなガチャポンの機械があるとか」 「そういうことじゃないと思うけど……」  子どもは親を選べないから。生まれおちた場所で、既に存在している親と生きていくしかない。それをただ物の例えにしているだけだ。 「なごちゃんは、どう?」  つらつらと話し続けていた里莉ちゃんが、唐突に私に投げた問いかけ。文脈からして、親ガチャについての意見を訊かれているのかと思ったけれど、彼女の顔を見た瞬間、どう? の二文字が持つ意味に否が応でも察しがついてしまう。それは再会してから初めて見る、こちらの真意を探るような、気遣うような目だった。 「……分からない」  答えながら、喉の奥がキュッと詰まったような苦しさを覚える。きっと里莉ちゃんは私がお母さんのことをどう思っているのか、知りたいんだ。お母さんが私を置いていったから。  クラスメイトにお母さんが家を留守にする頻度を知られた時のように、居心地の悪い空気が里莉ちゃんとの間に流れている。こういう場合は分からないなんて曖昧な言葉じゃなく、はっきりとアタリハズレを答えた方がいいのかもしれない。でも本当に分からないのだ。  私にはお母さんを親ガチャなんてカジュアルな単語では選別できない。ニュースでみる痛ましい事件のようにひどい暴力をふるわれたり、炎天下の自動車に放置されたり、どこかに捨てられたりといったこともなければ、食料が尽きるまで放置されたこともない。ただ、私に対しては徹底的に無関心。それだけだ。  飢えも、肉体的な苦痛もなく、こうして育ててもらった。酔っ払ってうわ言のように、私の存在が再婚や恋愛の足枷になっていると言われたこともあったけれど、それでも二度は再婚したし、恋人だってほとんど途切れたことはない。他の家庭とは違う形でも、お母さんと私なりの生活を積み重ねてきた。  何も言えないでいるうちに、アイスクリームが溶け落ちてぼたりとアスファルトに染みを作った。どこからともなく、ぞろぞろと這い寄ってくる蟻の行列。それを合図にしたみたいに、里莉ちゃんがベンチから立ち上がった。 「ごめん、変なことをベラベラと。そろそろ帰ろっか。お腹すいたよね」  そう言うと彼女は、まるで何事もなかったかのように笑った。さっきまでの探るような眼差しが嘘だったみたいに。  私はそんな風にうまく気持ちを切り替えることができなかったのだけれど、またバイクに乗せられてビュンビュンと風を顔に受けるうち、少しずつ頭が冷えてきて、家に着く頃には何もなかったみたいに里莉ちゃんの顔を見ることができた。
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