私のまほろば

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 階下から聞こえる物音と、食べ物の焼ける香ばしい薫り。翌朝、目覚めた私は自分がどこにいるのか一瞬、分からなくなった。それでも腰窓から見える朝日で艶々とした新緑の世界に、どうにか昨日のことを思い出すことができた。  急いで布団を畳んで押入れにしまう。うちでは布団は敷きっぱなしにしていたけれど、昨夜、里莉ちゃんが布団を敷きながら、そうするように教えてくれたのだ。  数少ない荷物からTシャツとデニムをとって着替えてから、急勾配な階段を降りる。廊下を抜けて台所へ行くと、まだパジャマのままの里莉ちゃんがガスコンロの前でこちらを振り返った。ピンク地の背中に踊るのは、魔法少女のキャラのイラスト。 「おはよー。早いね。もうできるから居間で待ってて」そう言って、フライ返し片手にまた前に向き直る。 「お、おはよう」  お母さんとは交わすことのない朝一番の挨拶を、ちょっとドギマギしながら返せば里莉ちゃんはにっこり笑った。手元のフライパンからパチっと油の弾ける音がする。  何か手伝おうかと声をかけても、いい、いいと返されるばかりなので、おとなしく居間へ向かった。  民宿時代にはおじいちゃん家族の寝室だった部屋を通り過ぎ、庭に面した広間へでる。ここはかつては食堂兼、家族の居間として使われていたところで、泊まりにきた時にはこの広間でおじいちゃんや里莉ちゃんたちと一緒に食事をした。あの頃は大きな座卓が四つ置いてあったけれど、今は一つだけ、縁側に寄せるようにして置いてある。  昨夜はここで電子レンジで温めた弁当を二人で食べた。私がなかのやで選んだのは白身魚のフライがのったノリ弁で、里莉ちゃんは牛カルビ焼肉弁当。お金のことを気にしないでいいと言ってもらえたけれど、それでいいわけがない。だけど里莉ちゃんは意地でも許す気はないようだ。  何気なく私に食の好みを訊きだし、脂っこいのが平気と分かるや否や、頑なに自分がノリ弁を食べると言いだす。しばらくは押し問答を繰り返していたけれど「うちにいる限りは私のルールに従ってもらうよ。遠慮は禁止」という言葉で決着がついた。  お母さんと一緒に食事をした記憶もほとんどなく、他人と食事をするのが学校の給食くらいの私は、里莉ちゃんの向かいに座るだけでも緊張してしまう。それでも里莉ちゃんが尽きることなく学校のことや自分の仕事のことなど、話題を提供してくれるので弁当が半分ほどになる頃には幾分、気持ちが落ち着いていた。  しばらく待っていると、里莉ちゃんが大きなトレーを持って現れた。 「はい、お待たせー」  そう言って、座卓の上にどんぶりと牛乳の波打つグラスを二組ずつ置く。どんぶりのなか、白ご飯の上で焼き目がついて皮の弾けたウィンナーと柔らかそうな目玉焼きが、ゆらゆらと湯気をたてていた。輝きながら、半熟に色づく黄身と脂の溶け出すウィンナー。起き抜けの身体に、食欲をそそる匂いが染みわたる。 「ごめんね、私、マジで料理できないの。もういい大人なのに恥ずかしいんだけどさ」  里莉ちゃんは照れくさそうに笑うと頬に手をあてた。鼻の奥がツンとして、その姿が潤んでしまうのを私は止められない。気付かれないようにどんぶりに目を逸らすけど、まったくの逆効果だった。  これは私に用意された、私のために里莉ちゃんが作ってくれたご飯だ。  昨夜は一緒に食事をするといっても、なかのやで買った弁当を食べただけだから大丈夫だったのに。  里莉ちゃんが朝ごはんを用意してくれたこと。私のために不慣れな料理をしてくれたこと。その事実が胸をきつく締め付ける。 「いつもはお茶漬けとか、シリアルで済ませることも多いのよ。でもなごちゃんは成長期じゃない? さすがに何か栄養のとれるものを出してあげなきゃと思ったんだけどね。こんなのしかできなくて」なごちゃんくらいの歳の頃、どんなものを朝に食べてたかなあって考えてみても、トーストと目玉焼きにコーンスープとか、そんな凝ったもの食べてなかったような気がするんだけどね。  そう話し続ける里莉ちゃんを見つめながら瞬きをすれば、ぽろりと生ぬるい雫が頬を滑り落ちていった。 「……ありがとう」  声を絞り出すと、苦笑していた里莉ちゃんが目を見張った。 「え、え、なに。どうしたの。ウィンナー、苦手だった? えー、卵アレルギーとかあった? ごめん。グラノーラとか、あとお茶漬けくらいならあるけど持ってくる?」慌ててティッシュを取って手渡してくれる。  勢いよく首を横に振ってウィンナーを箸で口に運べば、燻された独特の風味が熱い油とともに口腔内で溶けていく。  それは学校の給食とも、コンビニの弁当とも違っていた。朝、お母さんを起こさないように薄暗いキッチンでかじる菓子パンとも、音をたてないようにすするカップラーメンとも違う。誰かが私のために出してくれるご飯。それは温かで、噛むほどに心の内側を優しく撫でるような感覚をもたらす。 「嫌いなんかじゃないよ。嬉しい。美味しいよ」  唇がしょっぱいのはきっと涙のせいだ。たとえ料理が苦手だとしても、こうして私のことを考えて作ってくれた。それは紛れもなく、私がお母さんから受け取ったことのない種類の優しさ。いや、受け取ったことがないわけじゃない。ほとんど覚えていないけれど、お父さんがいなくなるまでは普通に与えられていた、ずっとまた与えてくれると期待してやまなかった優しさだ。  温かで、人の手の入ったご飯は美味しいという感情以上の気持ちをこの胸にもたらした。  涙が出るほど、里莉ちゃんがご飯を作ってくれたことが嬉しい。  里莉ちゃんの顔から戸惑いが消えたかと思うと、私の頭をまるで犬かなにかを扱うように撫でまわした。今度は綺麗に並んだ歯を見せて笑っている。 「もう、そんなに喜んでくれるなんて作り甲斐があるったら。どんどん食べな。足りなかったら追加の目玉焼き、焼いてくる」  口いっぱいのご飯を飲みこんで「さ、さすがにもう十分だよ」と返せば、「ちょっと、また遠慮してるわけじゃないよね? いくらでもおかわりしていいんだから。よし、焼いてくる」と、本気でキッチンに向かおうとまでする。  それを止めようとするうちに勝手に涙が引っ込んで、気付けば私は笑っていた。里莉ちゃんはそれで何故だか満足そうに頷き、ようやく自分も食べ始める。細い身体のどこにそんなに入るのだろうと不思議になるくらいの良い食べっぷりで、見ていて気持ちがいい。  私は温かなご飯と里莉ちゃんの気遣いに、確かな喜びを感じながら一口一口をしっかりと噛み締めた。
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