私のまほろば

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 朝食のあと、自室に一度引っ込んだ里莉ちゃんはショッキングピンクに大小の花々の刺繍があしらわれたツナギに着替えて私の前に現れた。ツナギや作業着といえば、学校の用務員さんが着ていたようなグレーやカーキといった控えめな色のものしかイメージになかったので面食らってしまう。  里莉ちゃんは、そんな私に「可愛いものを着るとアガるよね」とにんまり笑った。  それからまたアメリカンチェリーみたいな例のバイクに私を乗せ、彼女の経営しているという牧場へ案内してくれた。  牛舎のなか、ずらりと並ぶ黒く大きな牛から漏れ出す、低くお腹に響くような鳴き声。畑のそばで嗅ぐ肥料にも似た、独特な獣くささと濃い草いきれが、蒸した空気に滲んで周囲に満ちている。  里莉ちゃんは先に牛舎に来ていた戸次さんというひとに私を紹介し、三人で一頭一頭を見てまわった。戸次さんは柔和な雰囲気を醸す年配の女性で、里莉ちゃんがここを受け継ぐずっと前から働いているという。 「牧場の朝は、まず牛が元気かどうかチェックすることから始まるのよ。分かりやすいのは糞の状態や餌への食いつき、食べ残しがないかどうかね。あとは息遣いとか。一通り確認できたら牛舎の中を掃除して、ウォーターカップや餌を入れる器を洗うの」  おっとりとした語り口調で一日の作業内容を説明しながら、戸次さんは牛のお腹を優しく撫でた。黒い短毛に覆われ、どっしりとした体が呼吸とともに上下している。「触ってみなよ」里莉ちゃんに言われて、おずおずと牛に手を伸ばす。自分より大きな生き物に触わった経験がないから、少し怖い。  できるだけやんわりと触れてみれば、思ったよりもしっかりとした毛の硬さと、熱い体温が手のひらを通して伝わってきた。私の動きに反応するように牛が長い唸り声をあげる。 「体温、高いみたいだけど、大丈夫なの?」 「うん。牛はね三十八度から三十九度五分くらいが平熱なんだ。これが病気になると四十度を超える時もあるからね」 「牛も人間と同じように風邪もひくし、胃腸炎や肺炎になることもあるのよ。咳も鼻水もでるしね」  そんなこと、まったく知らなかった。ここにいる牛はいずれ牛肉として全国に出荷される品種だと、牛舎に来る道すがら里莉ちゃんから聞いた。今、手のひらに感じる熱や振動を放つこの牛も、そのうち誰かに食べられる運命にあるのだ。  これまで生きてきて牛肉を口にする機会は数えきれないほどあったけれど、牛について知ろうとなんて一度も考えたことはない。昨夜だって牛カルビ弁当を食べたのに。ちょっと筋張りつつも、柔らかな食感や脂の甘みを感じはしても、その牛が生きていた時のことなど考えもしなかった。  もしかしたら私はすごく世間知らずなのかもしれない。牛のこともそうだけれど、きっと学校や家の外に広がる世界には私が思ってもみないような物事がたくさんあるのだろう。  衝撃を受けている間にも、里莉ちゃんと戸次さんは給水器のカップや餌の入れ物を各々ブラシで手際よく清掃していく。もくもくと動きまわる二人を眺めるうち、疑問がわいた。 「ねえ、里莉ちゃんはどうしてこの仕事をすることにしたの?」  面倒見がよくてお洒落で、テキパキ働く彼女のことだ。生きていく選択肢はきっといくらでもあっただろうに。  汗で濡れたポニーテールの後毛を耳にかけながら里莉ちゃんが顔をあげる。目が合うと、ちょっと恥ずかしそうに鼻の上に皺を寄せた。 「うーん、話すとまあまあ長いからなあ。それにちょっとヘビーだし」 「ヘビー?」 「うん。や、でもどうだろう。他の人が聞いたら、そうでもないのかなあ」そのままちょっと思い悩むような様子を見せた後、「とりあえず、その辺りのことはすっ飛ばして結論だけ言えばね。私の手で育てた牛が、食べた誰かの心を癒せたりするんじゃないかなって思ったんだよね」と笑う。 「可愛いものとか、美味しいものって、潤うじゃん。心が。みんな、そういうので自分の機嫌をとって生きてる。だからこの子たちが、食べた人の健康はもちろんだけどさ、明日を生きる糧になってくれたらいいなって。いつもね、屠殺場に送る時は『いってらっしゃい』って笑顔で見送るんだよ」  誰かの心を癒やすという言葉がなんだかとても規模の大きなことのように感じて、思わず目を見張った。個人面談をすっぽかしたお母さんが、電話口で担任の上野にはっきりと『なごみには進学は必要ありません。どこか就職先でも紹介していただければ結構ですので』ときっぱり告げた日のことが脳裏をよぎる。翌日、上野は気遣わしげにスーパーや町工場、パン屋などが卒業生の就職先として実績があることを教えてくれた。  お母さんはやっぱり早く私を手放したかったのだろう。そうなれば一人で生きていくために、働くしかない。クラスメイトたちが当たり前のように進学していくのだ。そんななかで、私なんかに仕事を選ぶ自由はないだろう。  ときがきたら、学校やハローワークに紹介してもらえる仕事や、街頭で配られる求人誌のバイトの中で勤め先を決める。里莉ちゃんのように選択肢も、話せば長い事情なんて持てるほどの自由もない。ましてや誰かを癒すため、だなんて。彼女の言葉は私にとってふわふわした綿あめみたいな、現実味のない話だった。 「それにこの子たち、可愛いでしょ? まあ、割愛した部分は、また近いうちに話すから」  そう言って里莉ちゃんは、またブラシで給水器のカップをこすり始める。時折、首にかけたタオルで額を拭っても、ブラシにこめる力に比例するように汗の玉が浮かんでは、細い顎の先を滑り落ちていく。そんな里莉ちゃんの様子を、牛の黒く濡れた瞳がじっと見つめているような気がした。
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