私のまほろば

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 食事を終えると、晴田さんは「なごみちゃん、またな。里莉のこと、よろしく頼むで」と言って帰っていった。  「普通、逆じゃない? 私のこと、なんだと思ってるんだか」  ぶつぶつと文句を呟きながらも、やっぱりまったく嫌そうじゃない里莉ちゃんは残った料理をタッパーに詰め、冷蔵庫にしまう。聞けば、晴田さんは敢えていつもこうして多めにおかずを作っておいてくれるのだそうだ。会えない日にも、料理をしない里莉ちゃんがしっかり栄養を摂れるように。  先程の会話の通り、どうやら晴田さんは本当に甲斐甲斐しく里莉ちゃんの世話を焼いていて、里莉ちゃんもまた、そういう生活と晴田さんを気に入っているようだった。  代わりに残されたのは大量の大皿や小鉢で、ひとりで食器を洗おうと申し出たのだけれど。里莉ちゃんはさっさと流しに立って「二人でやった方が早いじゃん」と笑ってくれた。勢いよく蛇口から流れる水音に混じる、里莉ちゃんの鼻歌。緑茶の匂いの洗剤は時たまふわりと小さなシャボン玉みたいな泡が舞う。  夕飯が楽しかったせいか、今、この瞬間もふわふわと胸が躍るような心地が続いている。数日前まで私の世界にはなかった現象で、ちょっと現実感がない。それでも手にする食器の濡れた冷たさも、布巾で拭った時に鳴る小さな音も、全部、本当に起こっていることなのだと私に教えてくれた。  拭きあげた食器を仕舞おうと、壁に誂えてある茶箪笥を開けると二つ並んだマグカップが目に入った。それぞれに描かれているのは、可愛らしくデフォルメされた牛のキャラクター。一方はリボンを、もう一方はネクタイをつけているところを見るに、おそらくペアのものなのだろう。そういえば、今、流しの横の水切りラックの上で拭かれるのを待っている茶碗もピンクとブルーの同じデザインのものだし、洗面所にも里莉ちゃんのものの他に青い歯ブラシがあったはずだ。洗面台のラックには、T字の髭剃りも。  気に留めていなかったけれど、この家には晴田さんの生活の痕跡がいくつもあった。もしかすると、いつもは晴田さんもこの家に泊まってるんじゃないだろうか。 「晴田さん、よかったの?」 「んー? 何が?」 「帰しちゃって」  私の言葉に、里莉ちゃんの濃いまつ毛が瞬かれた。流しのなかで絶えず動いていた手が止まり、きょとんとした顔で「え、なんで?」と疑問符を返してくる。 「いや、だから、帰しちゃってよかったの? いつも泊まってるんじゃないのかなと思って」 「ああ、まあね。泊まることもあるよ。お互いに仕事の都合もあるし、毎回じゃないけど」  やっぱり。恋人同士ならどちらかの家に泊まったり、一緒に暮らすのはままあることだろう。それなのにさっき晴田さんは何も言わずに帰っていったし、里莉ちゃんも引き止めるようなことはしなかった。二人は私の前で、それについて何も話してはいなかったけれど、今夜、晴田さんが帰っていったのは私がこの家にいるせいだろうか。そう考えた途端、ふわふわ浮いていたような気持ちは皿の上で弾ける洗剤のあぶくのように、一瞬で弾けて消えてしまう。  お母さんは恋人ができると、いつだってすぐに家に連れてきた。泊まっていくこともあれば、常田さんのようにしばらく暮らすこともあったけれど。他人がそばにいる息苦しさや、お母さんたちの間で交わされる睦言には、いつまで経っても慣れることはなくて。気づけば逃げるように図書館に通うようになった。 「え、待って。なごちゃん、もしかして何か気を遣ってる?」 「いや、そういうわけじゃないけど……」言葉を探していると、里莉ちゃんがさも当然というように、さっぱりとした口調で言った。 「なごちゃんがうちにいる間は泊まらせないよ。それは迎えにいく前から、ハルくんと決めたこと」 「それって私のせい、でしょ? もしそうなら私は大丈夫だから。これからはいつも通り晴田さんに泊まってもらって」 『こぶつきじゃ、自由に再婚もできない』という言葉は耳にたこができるほど聞かされた。『ちょっと出かけてきなさい』と今とは反対にお金を渡されて外に出されたこともある。お母さんは私がいるせいで、独り身のように振る舞いきれない。その不自由さからくる憤りを、私はいつも肌で感じてきた。  里莉ちゃんも、私を預かったせいで晴田さんとの生活を変えざるを得なかったのだ。そう思うと、申し訳なくて胃のあたりがキュッと痛んだ。 「いやいや、違うよ。何言ってんの」私の気持ちに反して、里莉ちゃんはあっけらかんと笑う。「あのさ、よく知らない男が同じ屋根の下で寝泊まりするなんて、フツーに気持ち悪くない?」  返す言葉が、うまく見つからない。お母さんの彼氏や新しいお父さんがいることで、これまで言い知れない居心地の悪さは何度も感じてきた。お母さんが家に男の人をあげるのはいつものことだし、慣れなければいけないことのはずなのに。 「私なんてさ、なごちゃんくらいの年の頃にはお父さんのことだってキモかったよー。お父さんのパンツとか靴下とか、私の服と一緒に洗濯しないで! 汚いじゃん! って、よく騒いでた。すごくベタな反抗期で笑っちゃうよね」  今は、ちょっと可哀想なことしたな、申し訳ないなって思ってるけど、と続ける。今度は手は休めず、小鉢をざぶざぶと水で洗い流しながら。  私の記憶のなかでは、里莉ちゃんのお父さんは丸眼鏡の奥の瞳を糸のようにして、いつもニコニコ笑っている、穏やかさを絵に描いたような人だった。物知りで優しく、私を含む子供たちとよく遊んでくれたものだ。  雨上がりの庭で低木の葉に現れたアマガエルをそっと指先にのせ、その可愛さを教えてくれたのも里莉ちゃんのお父さんだった。お母さんが連れてくる男性たちとは、やっぱり違う。あんな人が相手でも、嫌悪感を抱くものなのかと不思議に思った。  それをそのまま言葉にしたら、里莉ちゃんは「人間って、そういう風にできてるんじゃない?」と肩をすくめる。本能的に身近な異性を嫌うようにできてるんだよ。あれ、でも、これとそれとは話が違うか。ごめん、私、なんかうまく説明できなくて。 「そ、そんなことない!」言いながら大きく首を横に振ると、苦笑していた里莉ちゃんが目を丸くした。布巾を握る手がぎゅっと強張る。  彼女の言わんとしていることは、十分に理解できる。血を分け、生まれた時からそばにいる、どんなに優しい父親でも本能で嫌ってしまうものなのだ。だから同じ家――自分の居場所に突然現れた見ず知ずの異性を不快に思うのは、当然のこと。きっとそう説いてくれようとしたのだろう。  頭の中でそれが明確化した途端、ずっと喉の奥に刺さった魚の小骨のような違和感が、抜け落ちてすとんと腑に落ちるような感覚に見舞われた。お母さんの恋人に抱いた気持ち。居心地の悪さ、緊張、恐怖、息苦しさ。あれらの感情の源流は、紛れもなく嫌悪感だった。里莉ちゃんの表現を借りるなら、『よく知らない男が同じ屋根の下で寝泊まりするなんて、気持ち悪い』。  ぐらりと足元が崩れるような、目眩がする。私はきっと、ずっと気づかないふりをしていたかっただけだ。一口に片付けてカテゴライズしても、それを言葉にすることはできない。はっきりと自覚して、お母さんに言葉にして伝えてしまったら、家を追い出されるのは私の方。お父さんによく似ているという私を、お母さんはきっと簡単に手放してしまう。そんな予感が、ずっとしていたから。  気づけば、里莉ちゃんの手のひらが背中をゆるゆると撫でていた。気遣わしげに向けられた眼差しにハッとして、いつの間にか詰めてしまっていた息を吐く。ついさっきまで強く流れていた水音は、蛇口がしめられて止んでいた。洗い物によって冷やされた体温をTシャツ越しに感じる。 「なごちゃん。あのさ、私たちに変な気を遣ったりしないでよ」 「でも……」 「これでも一応、私もハルくんも大人だよ? なごちゃんは子供扱いされたら嫌かもしれないけど、子供は大人に気なんて遣わなくていいんだよ」  そんなことを誰かに言われたのは初めてだった。お母さんにも、二人目のお父さんにも、三人目のお父さんにも、お母さんの恋人たちにも、一度だって言われたことはない。私の気持ちを慮って男の人を家に泊めないだけでも信じられないくらいなのに、心配までしてくれるなんて。俯けば、ステンレスの蛇口に映る自分が泣きそうな顔をしているのが目に入った。 「なごちゃんは、ずっとそうやって生きてきたの?」  里莉ちゃんは答えに困ることばかり言う。かろうじて小さく頷けば、背中を撫でる手の強さが増した。 「それなら今この瞬間から、そんな生き方はやめていいよ。すぐには無理って言うなら、少しずつでもいい。なごちゃん自身を真ん中に据えて考えるようにしてよ」あ、自分勝手になれってことじゃないよ。相手が大人だって子供だって動物だって、おもいやるのは大事だからね。おもいやりと気を遣うのは違うっていうか……って、いやだな、私いま、ものすごく説教くさくない? 偉そうなこと言ってごめんね。  私が口ごもっている間にも里莉ちゃんは一生懸命に言葉を紡いで、それから照れくさそうに笑った。胸の奥から大切な何かを取り出して差し出されたようで、躊躇いながらも私はそれを大事に受け取りたいと思う。 「ううん、ありがとう」  お母さんたちに気づかれないようにそっと開け閉めする扉。お母さんの恋人と鉢合わせないように急いで済ませるトイレやシャワー。漏れ聞こえる声に耳を塞ぐしかなかった真夜中。息苦しかった全ての自分を、抱きしめてもらったような、解き放ってもらったような不思議な気持ちだった。  里莉ちゃんは満足そうに頷いて、また皿洗いを再開する。ラメが煌めくピンクのリップを塗った唇から漏れ聞こえる鼻歌は、さっきよりも随分とアップテンポだ。世の中には、彼女や晴田さんのような大人もいる。もしかしたら私はひどく狭い世界で生きてきたのかもしれない。里莉ちゃんのくれた言葉が嬉しくて、心の柔らかい部分がじんわりと温かくなる。  本当に里莉ちゃんの言うように過ごしていいものか、きっとしばらくは悩むだろう。この性格にだって、数日でなったわけじゃない。枯れて降り積もる落葉のように何年もかけて蓄積していった感情の結果だ。だから、そう易々と馴染めるものではないはずだ。それでもせめて里莉ちゃんのそばで暮らせる間は、変わる努力をしてみたい。心の底から、そう思った。
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