中編

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中編

 山へ行く準備は人目を盗んで行ったので、丸一日掛かってしまった。夜中にこっそり出掛けようかとも考えたが、明かりを点ければ直に見付かってしまうだろうし、近場とは言え灯を持たずに夜の山道を進むことが危険であるのは子供のミヨにでも分かる。結局、計画を実行に移したのは更に翌日の昼頃となってしまった。  目的地迄の道はなだらかで、普段から野山を走り回っているミヨには大して苦にはならなかった。距離も然程ない。過去にミヨも何度か行ったことのある場所だ。だがそれにしても、と彼女は首を傾げる。あの場所は小さな社が一つあるだけだった様に思うが、老婆の言っていた「社の裏にある洞穴」とは一体何なのだろう。他にも変わった所があっただろうか。記憶を必死に辿りながら、彼女は山道を進んだ。  やがて社の手前まで辿り着くと、ミヨはその周辺の様子が何時もと違うことに気が付き、傍らの木々の中に身を潜めた。 「おった、おった。今から出すぞ」 「時間が掛かったな」 「中は暗いし、前の子は小さかったからな。見付けにくかったのよ」 「ほれ、喋ってないでそこ退いて」 「出たぞお」  間の悪いことに、集落の大人が十人前後集まっていた。彼等の内の一人は神職が着る様な立派な着物を纏っており、今正にこの場所で何かしらの儀式が行われていることを示していた。社の方を見ると、背後にある小さな崖の元々少し窪んでいた部分が、更に深くまで刳り貫かれている。どうやら穴の中に入って作業をしている者も居る様で、入り切れなかった残りが外で待機しながら中の様子を窺っているという状況らしかった。  程なくして、中に居た者達が繭の様に丸まった布を抱えて出て来た。布は新しく見えるので、穴の中にあった物ではなく今回の作業の為に麓から持って来たのだろう。布包みを広い場所へ置いた人々は、丁寧にそれを広げた。 「この子かあ」 「長い間、よう頑張ったな。ご苦労様」  ミヨが隠れている場所からは布の上にある物は見えない。だが、大人達の会話から大体想像は付いた。死体だ。やはりあの子は殺されたのだ。そう彼女は結論付けた。  心の奥底では疑いつつも兄や隣人達を信じたかった。信じようとしていた。でも、悪い予想は当たってしまった。ならば、次にやることは決まっている。ミヨは漸く覚悟を決めた。死体が見えなかったのは幸いだった。きっとその様子は惨たらしくて、実物を見ていたら彼女は腰を抜かして動けなかったに違いない。  ミヨは立ち上がった。しかし、駆け出そうとした瞬間、背後から両肩を掴まれた。 「ミヨ」 「お兄」  ミヨを捉えたのは兄の太助であった。先日の寄合で彼女の理不尽な死を「名誉なこと」と言って退けた冷酷な兄だ。 「知ってしまったんだな」  今迄共に暮らしてきて一度も聞いたことがない低い声を漏らした太助の表情を彼女は想像することが出来なかった。    ◇◇◇  暴れる妹を小脇に抱えたまま山を下りた太助は、自宅へ帰るや否や彼女を納屋に放り込んだ。身体を強く打ったミヨは「痛い」と叫んだが、兄の目付きは険しい。太助はミヨが家に置いて行った木の人形を投げて寄越し、痛む場所を擦りながらゆっくりと体を起こす彼女を置き去りにして自分だけ納屋を出た。そして、外から戸に閂を掛けた。 「お兄。お兄、出して。お兄はミヨが死んでしまっても良いの」  しかしながら、返事はない。ただ立ち去っていく足音だけが戸の向こう側から聞こえてきた。 「お兄」  あの気弱で家族に甘かった兄は何処へ行ってしまったのだろうか。今の太助はまるで別人の様ではないか。それとも今の有り様こそが彼の本性であったのだろうか。ミヨは暫し打ちひしがれ、戸に張り付いて涙を流した。  だが、ずっと感傷に浸ってったままではいられない。事態は急を要する。彼女が自身に迫る危機に気付いていることが、相手方に知られてしまったのだ。家や集落に見張りを置かれたり、祭りの日を早められたら一貫の終わりだ。旅の準備について悩んでいる余裕はない。早急に脱出しなければ。  ミヨは納屋の中を見回した。手際の良いことに、武器として使えそうな農具は全て片付けられている。恐らく太助はミヨが逃走を図った可能性と彼女を捕らえた時のことを考えて、その様にしたのだろう。改めて兄の非情さに寒気を覚えたが、ここで諦める訳にはいかない。定期的に修理されてはいるが、祖父母の代から存在していたという古い納屋だ。何度か体当たりすれば、戸なり壁なり壊れてくれるかもしれない。  彼女はまず戸に狙いを定めた。数歩下がった後に思いっ切り駆け出して体当たりをする。木製の戸は僅かに揺れて粉を吹いたが、壊れる気配はない。想定通りの結果である。ミヨは諦めずに何度も体当たりを繰り返した。しかし、何時まで経っても戸は壊れない。彼女の体が軽過ぎるのだ。それでも、ミヨが我武者羅に体当たりを続けていると。 「ちょっと、何をしてるの」  聞き覚えのある声がした。ミヨの姉で太助のもう一人の妹でもあるつぐみだ。ミヨは今にも泣き出しそうな声色で「お姉」と呟いた。  事情をよく知らないつぐみは、諫める様な口調でミヨに尋ねた。 「ミヨ、あんた今度は何をやったの。兄さん、凄く怒ってるみたいだったわよ」 「何もやってない。悪いのはお兄の方だ」 「あんたね」  つぐみは呆れる。悪いのはミヨに違いないと思い込んでいる。当然だ。ミヨは非常識で何時も問題ばかり起こす。温厚な兄が怒る時は、決まって末っ子の彼女が悪さをした時だった。  だが、今回ばかりは違う。ミヨは常に自分は悪くないと思っているが、今回は何時も以上に正しいと思っている。故に、兄を妄信する姿勢を見せたつぐみを警戒した。警戒しつつも、突破口に成り得るのは彼女だけかもしれないとも思った。 「ねえ、お姉はミヨの味方なの、それとも敵」  恐る恐るミヨは尋ねた。彼女の常とは違う様子に気付かず、つぐみは大袈裟だと感じてまた妹を責めた。 「敵って。何を言ってるの、この子は」 「ミヨ、人柱にされるんだって。前の子から人形を貰ったから。このままじゃ、ミヨ、殺されちゃう」 「人柱って、雨乞いの」 「うん」  ミヨの言葉は要領を得なかったが、つぐみは直に妹の言いたかったことを理解した。太助からは今のところ何の話もないが、集落の他の住人の間で雨乞いの儀式に関する話題が上っているのを耳にしたことはある。もしかしたら、後は人柱の人選のみという所まで話は進んでいたのかもしれない。 「兄さんがそう言ったのね」  問い掛ける声に茶化す気配はない。ミヨは、小さく安堵の息を漏らした。 「お兄と集落の大人達が話してるのをこっそり聞いたの。何日か前に寄合があったでしょ。そこで皆がそんな話を」 「あんた、また盗み聞きしたのね」 「うん。でもね」  つぐみは唸りながら暫く考え込んだ。その時間は長くはなかったが、ミヨはじれったく感じた。だが、大人しく待った甲斐はあった。 「正直信じられないけど、一応詳しく聞かせて頂戴」  ミヨは、ぱっと表情を明るくした。気が強く頭が回る姉に請われて、ミヨは必死に自分の置かれている状況を説明する。文字通り命懸けの説得だった。  聞き終わった後、つぐみは黙り込んで再び考え事を始めたが、やがて戸の向こうに居る妹にこう指示を出した。 「分かった。今、ここを開けるわ。兄さんの目は私が何とか誤魔化しておく。だから、一刻も早くこの集落から逃げなさい」 「良いの」 「私は妹の死を望む非情な姉ではないわ」  そう言ってつぐみは閂を引き、戸を開く。全身土塗れで髪も着物も乱した妹を見て、思わず目を潤ませたつぐみは彼女を抱き締めた。どれだけ怒っていても、過去に太助がミヨをここまで酷く扱ったことはない。今の彼は明らかに異常だ。ミヨの言ったことはやはり真実なのだとつぐみは理解した。  腕の中からミヨを解放し、つぐみは彼女と見詰め合う。すると、ミヨは珍しく弱気な表情をして視線を伏せた。 「でも、お姉や皆が」 「やり残したことを終えたら、私も直にこの土地から離れるわ。あんたが居なくなったら、私が身代わりにされるかもしれないし。それから集落のこと、いいえ、自分を殺そうとした人間のことなんて考えなくても良いから。命を捧げる程の恩を受けた覚えもないでしょ、あの人達には」  少なくともつぐみはそう考えていた。親を亡くした子供達に対し、非人間的な行いをしてきた者達だと。一番年上の太助が働ける年齢だったから辛うじて集落の一員として扱ってはもらえたが、酷い悪口を投げ掛けられることは度々あった。しかも、誰一人としてそれを止めようとはしないのだ。つぐみに限って言えば、割に合わない縁談を強要されたこともある。受け身な性格の太助は常々「ここに置いてもらえるだけでも感謝するべき」などと言っているし、未だ幼いミヨは平気な顔で集落の子供達と遊んでいるけれども、つぐみはそんな風には振舞えなかった。人柱の件も、また集落の人間がはぐれ者の自分達に厄介事を押し付けようとしているのだろうと彼女は考えていた。  意外なことに、今迄他の子供達と仲良くしてきた筈のミヨも「うん」と頷いてつぐみの言葉を肯定した。 「ミヨ、社のある方に逃げなさい。きっと集落の人達は、人柱が怖くて逃げた子供が元凶のある方へ向かうとは思いも寄らないだろうから。その後は山を抜けて街の方へ。行商人や旅行者が良く使う道だから、誰かが見付けて拾ってくれるかもしれない」 「分かった」 「元気でね。頑張りなさい」 「うん。ありがとう、お姉」  声を潜めて別れを告げたミヨは、まず他人に見られても違和感を持たれないよう、乱れた髪や着物を手早く整えた。そして周囲の様子を窺った後、木や建物を利用して身を隠しながら去って行った。何時も彼女が悪戯をする時の様に。つぐみはその様子を胸を痛めながら見守っていた。運が悪ければ、永久の別れとなるであろう。後で合流できれば最良だが、再会の為の策を練っている余裕は今はない。最後の時間が実にあっさりと終わってしまったことを、彼女は残念に思った。  ミヨの姿が見えなくなったのを見届けると、つぐみは表情を改めて母屋を睨んだ。中には血を分けた実の妹を死に追いやろうと目論む非道な兄、太助がいる。 「さて、どうやって兄さんを足止めしたものか」  つぐみは口元で両手を組み、考えを巡らせた。ミヨが納屋に閉じ込められてから、兄は母屋の外には出ていない。人柱の件がミヨに漏れてしまったことを集落の他の住人はまだ知らない可能性が高い。ミヨを連れ帰る際に他の者と話す時間はあっただろうが、日和見主義の太助はきっと自分に不利になることは言わなかっただろう。ならば、このまま太助を家の中に留めておけば、他の住人達が追手を出すのも防げ、逃走の為の時間をある程度は稼げる筈だ。だが、どの様にしてそれを行おうか。  ふと、つぐみは納屋の中へ視線を移した。灯りがなく昼間でも薄暗い室内に見慣れない物が落ちている。その物体を見て、つぐみは目を見開いた。
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