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前編
ある所に背が低く面積の広い山が幾つも連なる土地があった。人の少ない集落が点在する片田舎だ。その南端にある山の中腹に、由来の分からない小さな社が木々の中に隠れるように建っていた。社の裏手にあるのは土の壁で、人の手で掘られた洞穴が空いている。今はその洞穴の前に麓の集落の住人の一部が集まっていた。
時刻は空が紺色に変わった宵の口だ。暗い壁面が松明の光が赤く染まっている。灯火は一つ。十名弱居る男達の内の一人が掲げていた。山中である為か、空気は微かに湿っている様に感じられたが、普段程じめじめとしてはいない。その原因は間違いなく最近の天候であるのだろうと集まった者達は考えていた。
人々は一様に同じ方向を見る。彼等の視線の先、洞窟の少し奥まった場所には真新しい木製の扉があった。今日の為に用意された物だ。
「すまないなあ。幼いお前にこんな役割を押し付けてしまって」
先頭に立っていた男が無理矢理絞り出した様な声で言うと、扉の向こうから「うん」とか細い返事が返ってきた。子供の声だ。先程声を掛けたのは父親で、返事をしたのは彼の子供であった。
「恨まんでくれよ。儂等にもどうしようもないんだ」
「うん」
「じゃあな、もう行くよ」
「うん」
不安気ながらも気丈に振る舞って子供が最後の返事をしたのを合図に、男達は扉の前へ集まり土を盛り始めた。子供は扉の向こうで微かに響いてくる音を聞いていた。
「大丈夫、ちゃんとお役目は果たすよ。私は皆のことが大好きだもの」
子供は座ったまま背中を丸める。震える両手で小さな木の人形を握り締めながら、彼女は遠くへ行ってしまった父親に消え入りそうな声で告げたのであった。
◇◇◇
六十年後――。
「ふんふ、ふんふ、ふうん」
嘗て悲劇が起こった山の麓から少し離れた場所にある道を年の離れた兄妹が歩いていた。先頭を歩くのは妹の方で、大人用の綺麗な櫛を掲げながら鼻歌を歌っている。その櫛は、押しに弱い兄がしつこくせがむ末の妹に負けて行商人から買った物であった。遠方から渡って来た品だそうでそこそこ値は張ったが、たまには贅沢しても良いだろうと兄は自分に言い聞かせた。
「気に入ったか」
「うん。行商の人、次は何時来るかなあ」
「さあな、聞き忘れてしまったよ。でも今迄は二、三ヶ月に一回くらい誰かが訪ねて来ているよ」
「つまんない」
妹のミヨは俯いて、ぷくりと頬を膨らませた。体は小さく素振りも幼子の様だが、ミヨの歳は既に十四である。古い時代ならばそろそろ成人を迎えている頃だろう。実際ミヨの精神年齢は見た目よりも高く、幼く見せているのは態とであった。彼女はそうすれば、周りが自分を甘やかしてくれることを知っていたのだ。
「ミヨは本当に行商が好きだな」
「うん、好き。だって、いつもミヨの見たことのない物、いっぱい持ってきてくれるもの」
ミヨの表情が明るいものへと戻ったのを見て、兄の太助はほっと息を吐いた。
「あの人達は沢山の街や村を渡り歩いているからな」
「集落の外?」
「そうだよ」
「外には『雨』もある?」
「降る所には降るのだろうなあ」
太助は空を見上げる。今日も雲一つない晴天だ。彼等が住む地域には、もう一月余り雨が降っていない。梅雨の時期であるにも拘らずだ。集落の長老達は、今年は旱になるかもしれないと言っていた。そのことを太助はミヨに話さなかったが、誰かしらから伝え聞いたのかもしれない。
「ミヨ、外に出たい」
再び暗い顔をしてミヨは呟く。
「外には危険な物も沢山あるからなあ。少なくともミヨが大人になってからだな」
「つまんなあい」
拗ねた様子でミヨが愚痴を言った時だった。
――ミヨ。
聞き覚えのない声が彼女の足を止めた。ミヨは「あっ」と口を開き、声のした方へと振り向く。
声の主は畦道の端、彼等の側面方向に立っていた。見た目の年齢はミヨと然程変わらないので、恐らくは彼女よりも一、二歳幼いくらいの子供だ。木製の朽ちかけた人形を右手に持っていた。
「知らない子がいる。外から来たのかな」
「ミヨ」
太助が制止するのも聞かず、自分でもどういう理由でなのか分からないが、ミヨは吸い寄せられる様に見知らぬ子供へと近寄った。
「ミヨのこと呼んだ」
そう尋ねると、子供は「うん」と返した。好奇心旺盛で不躾なミヨは質問を続ける。
「あなたは集落の外の子なの」
「ううん」
ミヨは首を傾げた。彼等の集落はとても小さく、住人は皆顔見知りだ。ミヨは物覚えが良い方ではないが、同じ集落の人間の顔はほぼ全員思い出せる。大して歳が違わない子供の顔ともなれば尚のことだ。だが、ミヨはこの子供の顔を集落の中で見た記憶がない。来ている着物も変わっている。雪の様に真っ白で陽光を受けた時の加減から上質な布を使っている様に見えるのに、装飾が全くないのだ。
何だか気味が悪くなってきたミヨは、後ろへ身を引こうとした。しかし、それを止める様に子供は唐突に右手をミヨの前へ付き出した。
「あげる」
「えっと、あの」
困惑し返答内容に苦慮していたが、子供はお構いなしに手に持った人形をぐいぐいとミヨの胸元へ押し付けてきた。仕方なく彼女は今まで手に持っていた櫛を懐へ収め、手を受け皿の形にして差し出す。すると、子供は手の上に人形を置いた。
ミヨは己が手に握られた人形を見詰めた。遠目にも異様な気配を放っていた人形であったが、近くで見ると一層不気味だ。
文句を言いたくなったミヨは顔を上げる。だが、子供は既に立ち去った後であった。呆気に取られて立ち尽くしていると、太助が近寄ってきて彼女の肩を掴んだ。
「おいミヨ、さっきから何をやっているんだ。ずっと独り言を言って」
「お兄、あのね」
ミヨは太助の方へと振り返る。彼女が手に持っていた物を差し出す前に、太助の視線が先程までミヨの手の中には無かった人形を捕らえた。
「どうしたんだ、それ」
「知らない子から貰ったの。人形だよね。どういうことなんだろう」
自分よりもずっと物知りで大人の兄に尋ねるも返事はない。太助は人形を凝視し、ただ大きく目を見開いているだけだった。ミヨが「お兄」と呼びかけるも、やはり暫く返事はなかった。
◇◇◇
翌日の夜半頃、集落の中央近くにある建物で寄合が行われた。参加者は集落の長老と重役、そして本来はこうした会合に顔を出す資格のない太助であった。
上座近くにちょこんと座っている老人の手には、昨日ミヨが見知らぬ子供から受け取った人形が握られている。太助が適当な言い訳をしてミヨから取り上げ、比較的声を掛けやすかった重役の一人に渡したのだ。ミヨは人形を不快に思いつつも何故か手放せずにいたので、太助に渡した時はほっとした表情を浮かべていた。
「間違いない。前の子に持たせた物じゃ」
老人は、ぼろぼろになった人形を指の腹で撫でながら感慨深げに言った。人々は顔を見合わせる。ややあって別の者が太助に尋ねた。
「ミヨは何と」
「知らない子供に貰ったと。しかし、その時ミヨと一緒に居た俺には子供の姿が確認できませんでした」
「ミヨはその子に選ばれたのだな」
別の重役がそう言うと、太助は苦悶に満ちた面持ちで俯いた。太助の心情を慮ったつもりなのか、人形を握る長老は努めて優し気な調子で語った。
「前の子は出来た娘だった。この地を愛し、幼いながらに自分の定めをちゃんと受け入れ、お役目を全うした。その娘が選んだ跡継ぎならば、きっとミヨも立派にお役目を務めよう」
「そうでしょうか。ミヨは常々集落の外に出たがっていました。あの子にこの土地に対する愛着があるとは思えません」
膝の上で拳を作り、太助は否定する。そんな彼に対し言葉を返したのは、長老ではなく彼よりも数十歳若い集落の取り纏め役であった。若いと言っても五十半ばの歳であるが、少なくとも長老達よりは体力や覇気がある。
「愛着はなくとも役目は熟せる。兄としては何としても拒否したいところであろうが」
「いえ、不満がある訳ではありません。幼い頃に親を無くした俺達に良くして下さった集落の方々には感謝していますし、俺もこの土地を愛しています。だから、妹がお役目を頂いたのは、とても名誉なことだと俺自身は思っています」
「うむ、立派な心構えよな」
「有難うございます。ただ、ミヨはそういう子ではありません。悪さをしてお仕置きの為に閉じ込めても、直に抜け道を作って外に出るし、今回もむずがって逃げ出すかもしれない。だから、ミヨには今回の件について言わないでおいてもらいたいのです」
「ふむ」
再び寄合に集まった者達が顔を見合わせる。却って哀れでは、という声もあった。しかし、最後には皆が太助の意見に同意した。
「仕方あるまい。儀式は何としても執り行わねばならんのだからな」
「姉にも言わん方がええかの?」
「お願いします」
「では、今回の祭りの主役はミヨということで」
取り纏め役がそう結論付けた所で、彼等は次の話題に移った。緊急に開かれる「祭り」の準備や手順、前回の祭りの後始末について、といった内容だ。太助も関係者の一人ということで引き続き残らされた。
故に彼は気付かなかった。今、自宅にミヨが居ないことに。彼女は太助の言い付けを破って家の外に出ていた。そして、寄合の開かれていた建物に忍び込み、聞き耳を立てていたのだ。
ミヨは大人達の話を聞きながら、昨年亡くなった近所の老婆から聞いた話を思い出す。そして、悲鳴を上げたがっている口を必死に抑え付けた。
――この土地はなあ、何十年かに一度雨が全く降らなくなることがあるのよ。そうなると、集落の子の誰かに神様の子供になってもらって、山のお社の裏にある洞穴の中に籠ってお祈りをしてもらう。すると不思議なことにな、また雨が降るようになるのよ。その後も神様の子供等は次の旱が来るまでそこに居続けて、旱になると外に出て次の子を探す。子供等は籠る前に集落の人達から沢山の贈り物を貰って中に入るんだけども、その内の一つを次の子に渡してな。贈り物を受け取った子が次の神様の子供となって、役割の終わった前の子は漸くちゃんと山から出してもらえるようになる訳だ。
自分には関係がないと思い込んで適当に聞き流していた話だ。自覚できる程度に記憶力が悪い筈なのに、老婆の言葉が語り口まではっきりと思い起こされた。
次に、脳裏に浮かんだのは昨日ミヨに人形を手渡した子供の姿である。事情を話した後の太助の様子が余りに異様であったので此方もうっかり聞き流してしまっていたが、直前の彼から出た「独り言を言って」という言葉も思い出した。つまり、ミヨには見えた子供の姿が、太助には見えていなかったのだ。だとしたら、あの子供の正体は一体何であったのだろうか。
短い間首を捻ったが、直にミヨは子供の正体に見当を付けた。あの子供が「前の子」であったのだと。前回の旱の際、雨乞いの為に殺された子供の霊が、化けて出て来たのだと。老婆が語った「神様の子供」とは、きっと人柱のことに違いないのだから。
普段は歳より幼い頭が、命の危機に直面した生物の本能か、急に年齢以上に引き上がる。けれども情緒は未だ幼子同然だ。ミヨはがたがたと体を震わせた。怖気が極まり、振動の音が離れた所に座っている大人達に届くのではないかとさえ思えた。
いっそのこと、集落から逃げようかとも考えた。だが、もし勘違いだったならどうしようか、という思いが同時に湧いてくる。確信を得られる言い方は誰もしなかった。隠語の様なものを使って寄合の参加者達は詳細を隠した。もし、ミヨが雨乞いの人柱として選ばれたという予想が外れていたならば、姿を消したミヨはただの行方不明者となる。それは困る。殺されかけたら止む無く逃げるが、そうでないなら生活の為に残らなければならない。集落の外への憧れが強く行商人が来る度に彼等を羨んだミヨであっても、子供が一人で、しかも何の準備も無く外へ飛び出しても、真面に生きては行けないのだということは理解出来ていた。
ミヨが頭を悩ませていると、丁度良い頃合いに長老が雨乞いの儀式の会場について話しているのが聞こえてきた。彼等が暮らす集落は三方を幾つかの山に囲まれており、中央にある山の更に真ん中辺りに小さな社が建っていた。何の神を祀っているのかはミヨは忘れてしまったが、その社が儀式の中心なのだという。そうであるならば、社の周辺には前回の儀式に関する痕跡が残っているかもしれない。
確認しよう。ミヨはそう決心して準備の為に一旦自宅へと戻った。しかし、困ったことに戻って間もなく太助も帰って来てしまう。結局、その日彼女は何も出来ずに胸をどきどきとさせながら床に就くこととなったのである。
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