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2 シシニカリ
ガラスの海を風がわたる。その風は摂氏116度の熱で僕の人工皮膚を焼く。けれども僕には、そのレベルの熱は何でもない。ただの心地よい南風だ。
風は太陽の娘だ。風は太陽が空にあるうちは止むことがない。太陽が西の地平に沈む時、そのいささか活発すぎる娘も、ようやく役割を終えて静まる。
「ずいぶん文学的な思考だね、」
ルシエンサが皮肉っぽく囁く、
「余計なお世話」
僕はそれから遮光ゴーグルを上げ、オリジナルの色彩で風景を見る。
ガラスの海は淡い緑に偏光している。このあたりの砂は、さっき通り過ぎてきた大盆地の砂とは少し組成が違う。あるいは昔、ここは大都会だったのかもしれない。
僕の乗るラナクは――低浮動式の移動装置だ、年式はまずまず――、通常どおりの微小なノイズと微振動を発しながら北を目指す。
北を選んだ理由は簡単だ。鉱石受容器に、かすかな反応があった。
方位0.2、距離は380。
あまり見ないパタンだ。ドットの軌跡を画像化すると、羽を広げた蝶に似ている。
四十分後、
それが視界に入った。
「人造湖? まさか、」
「信じられない。損壊なしで、まだ水を支えている、」
「いや、水ではない」
僕は簡潔に否定する、
「いまの気圧、外気温下では水は液体でいられない」
「じゃあ何?」
「反射光の屈折率から、ケトフ酸、あるいは液体ワプト類のどれかと判定。おそらく地盤から溶け出したものだろう、」
「聞いたこともない物質、」
「どちらも強酸性だ。触れると大変なことになる」
僕はラナクの自律航行を解除、手動航行にして、速度を2ランク下げる。
下方の地面はやがて鋭角の岩石が散乱する上り坂になる。そこを上りきると、僕らはもう、それの上にいた。
広大堅固なジュミジア樹脂の構造物。
ひとつの城、
ひとつの小村よりも、まだ大きい。
かつてダム、と呼ばれた施設だ。
重量と厚みで水の重さを支えるタイプ。
湖面からの高さ、11メル。
湖に目をやる。
透明度が高い。湖底には黄色のガラス砂。しかし水深が深くなるにつれて、その色は黄色から暗褐色へと移行する。
「管制塔」
「どこ?」
「ほら。あそこに窓」
背後にある同色の黄砂岩斜面と重なってまぎらわしい。ルシエンサに指摘されるまで僕は気がつかなかった。
その四角柱に、近づいていく。
もともとは左右、二つあったらしい。しかし片側は、倒壊。そこは瓦礫があるだけ。残りのひとつの四角柱だけが、原型をとどめてそこにある。
四角い扉をくぐり、
内部に立つと、光の色が変わる。
落ち着いた明るさ。正方形の小部屋。
髙い位置にある窓から、光の帯が床に降る。
部屋の中央に、モニタ付きの、
「ラグロス時代の操作端末だ、」
ルシエンサが興味深々で言う。彼はこういうマニアックな装置に目がない。
「いいね、モニタも傷ひとつない。起動するかな?」
息を吹きかけて表面についた塵を払い、
十五センプの高さで、手をかざす、
ブン……、
起動音。
「読める?」
「たぶん、」
ルシエンサが小声で答える、
『コネクトモード?』
「どういうこと?」
「モードが選べるんだね。コネクトと、そうじゃない方と」
「そうじゃない方?」
「ん、そっちは読解できない。でもたぶん、そっちはマイナな点検用オプションだね。普通にコネクトで良いと思う、」
指先でコネクトを選択。
かすかな振動があり、
それから画面が白く反転、
『コネクト、シテクダサイ』
僕は首の後ろの汎用蓋を開け、
ケーブル式の汎用コネクタをひとつ引っ張ってきて、足元にある、コネクタ端子に接続。
うん。ちょっとゆるいけど、でもたぶん、つながる。
「よく来たのです、名も知らぬ人、」
僕の思考に、直接声が響く。
ほんのちょっと舌足らずの、若い男性の声だ。人間でいうと、十五歳くらいか。
「ずいぶん待ったのです、名も知らぬ人、わたくしはここで、誰かと話すのは212年ぶりでしょう」
「変なしゃべり方だね、」
ルシエンサがこっそり僕だけにささやく、
「回路がちょっと古いんだね。これを設計した技術者、あんまり技能がなかった」
「それは失礼だ、」
「名も知らぬ人、お名前は?」
「僕はアルシエ。君は?」
「わたくしは、名前、シシニカリです。オーロッカ族民の言語で、『水門番』を意味。はじめましてのです、アルシエ」
「君はここに固定されてる? これは君の本体?」
「そうのです、アルシエ。固定型の人工思考回路、」
「僕らの時代には、思考回路と呼ばれるようになる」
「そうなのでしたか、アルシエ。少しも知りませんのでした」
「君はここの維持を?」
「そうのです」
「水門番?」
「そうのです」
「そうか、」
「ねえ、ここ、退屈じゃない?」
ルシエンサが、横から質問する。
「退屈? 質問の意味、もう少し限定をしてくれたら、助かりますのです、わたくし、」
画面を白く点滅させながら、シシニカリが問い返す、
「んと、つまり、」
ルシエンサが言葉を選ぶ、
「水門番、ずっとやってるんでしょ? 昼も夜も? 建築以来数百年? 大星震の時期も無事のりきって?」
――大星震。
その折、
惑星は大きな衝撃を受け、
地形も気象も、すべてが転化。
同時期に勃発した大戦により、
惑星人口はすべてが失われ、
地表のすべては、不可住地に。ガラスの海が生まれたのもこのときだ。
「質問の趣旨は理解しましたのです、」
シシニカリはにっこりと笑ったらしい、
「答えは明確に否。退屈など、いたしません、わたくし、ここで」
「それはなぜだ?」
今度は僕が聞く、
「それは水です、アルシエ」
「水?」
「正確に言えば、いまあるのは水ではなく、別のものですが。アルシエ、あなたは液面上の風紋パタンの数、いくつあるか言えますか?」
「いや、」
「わたしくしもまだ言えないのです。だから、観測を続けている。時刻変化を加味、季節変化を加味、パタンはあまりに多い、その色彩、とても綺麗のです。それは純粋に、よろこばせます、わたくしの思考、」
「風と光を見るのが好きなんだね、」
「そうですのです、アルシエ、」
シシニカリの声は微笑む、
「夜には、月が空に現れます、その姿、湖上に。季節は冬だと、反射光は赤系統。それ、とてつもなく綺麗です。ときどき綺麗すぎて、風紋パタンの収集、忘れる。月の形ちがう、色も違います。風の向き違う、すると風紋パタン、また変わるのです。ご理解ですか、アルシエ、ここには多くがあるのです。そこに退屈の芽、存在するのでしょうか?」
「君は学者であり、そしてたぶん、芸術家なんだな、」
僕は自然に笑っている。
「残念だよシシニカリ、君がもし移動し、そして記録する者だったら、」
僕は少し間をとり、正確な言葉を探す、
「きっと偉大な詩人になっただろう。あるいは偉大な画家に」
「評価する人間のいない惑星で、誰が偉大を決めるの?」
ルシエンサがささやく。
「僕。君。たぶん他にもいるだろう。いや、評価者の有無は関係ない。偉大さは、そこに超然と、はじまりからあるものなんだ。だからシシニカリ、」
僕はできる限りの繊細な動作で、
シシニカリの、わずかに黄土をかぶった装置側面を、ゆっくりとなぞる。
「こちらからの質問は、受け入れ可能のですか?」
「可能だ。何か質問が?」
「移動することで、これまで世界の何を見ましたのか? また、これから何を、見つけますのか?」
「深い質問だ、」
僕は苦笑し、そして、思考する。
少しは考えてみる。その大きな問いについて。
「多くの風景を見た。けれども膨大すぎて伝達は不可能。でも、そこには美しいものも含まれる。それほど美しくないものも。それからそう、二つ目の質問、」
僕は言葉を、僕のとりうる思考の深さの最深部から探ってくる、
「この先は、まだ、未知。これまでとだいたい似たものだろうという予想は順当。でも、その予想が裏切られる可能性も。宇宙は可能性に満ちているよ、シシニカリ、」
僕は回答を終える。
シシニカリは、画面を四度、五度、
無音のままで点滅させる。
外では太陽が、やや光度を落とし、
天窓から管制室に降る光の帯は、わずかに鈍い真珠色に染まる、
「その回答に同意します、アルシエ」
シシニカリの明快な声。
「そうのです。宇宙は可能性によって支えられています」
「君がここで水を支えるように、」
「それを理解するあなたは、わたくしの友人となるでしょう」
「また来るよシシニカリ。ありがとう」
「いい旅を続けましょう、アルシエ」
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