ガラスの海のアルシエ

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3 ルビスと呼ばれたもの  ラナクの上で、僕は少し眠っただろうか。  気がつくと、北西の地平に月がある。  蒼い微光に染色された衛星。  は、はじめて飛ぶことを覚えた太古の生物のように、愚鈍に重鈍に、じりじりと天空へ、にじりあがる。長い交渉の末にようやく空との契約をとりつけた、飛べる者たちの最下層に位置する存在。   、  。  でも今はそうではない。  いびつな、。  大星震(マゲド)の期間中、  月の上でも、戦いの火は交わされ、  衛星は大きく傷つき、  母星をめぐる均等な軌道も、ゆがめられた。  おそらく地軸も壊れたのだろう、  月はいま、  ねじれながら、のたうちながら、  日々、予想もつかぬ方角から現れ、また誰も知らぬ間に、予想もしない方位へと退いていく。  規則性がある、と主張するのは僕。  まるで規則はない、と主張するのはルシエンサ。  より正確に言うなら、僕自身は、「何らかの規律があるはずだ、どれだけカオスで無秩序に見えるいかなる事象にも」に一票だ。僕自身、そのいびつな衛星の満ち欠けと運行についての納得のいく計算結果を得ているわけじゃない。  また、大きさで言えば、  は、かつての七倍の面積で空を占める。  年を追うごとに母星寄りの軌道を取り続ける、  やがては母星と衝突するだろう。  その事実だけは、確実。  それがいつになるのか。僕にも誰にもわからないけれど。  でもそれは遠い未来だ。僕たちにはあまり、関わりのある話じゃない。  話を少し戻す。  かつて――もちろん大星震の前のこと――  衛星(そこ)には、  二千万を超える植民人口が張り付いていた。  科学と生活の水準は、むしろ母星(ここ)よりも上と言われた、  けれど今、  そこに誰かが、まだ、残っているのか。  あるいは母星(ここ)と同じく、  ガラスの海が広がるのか。  最大フォーカスの目視でも、  その、不定型のクレータに覆われた岩石面の上、人類都市(まち)の名残は、どこにも見出せない。かつては母星のどこからでも見えた衛星植民都市(ルビソサット)の灯も、今はもう、絶えて久しい、 「誰にむけて話しているの?」  ルシエンサが夜の沈黙を破る、 「記録していた、」 「また記録? 何のために?」 「さあね、」 「誰にむけて?」 「誰だろう?」  僕は唇を左右に広げ、完結した微笑の形をつくる、 「どうしてかな。ときどきふと、記録がとりたくなる。月が蒼いからだろうか」 「あれは蒼ではないよ。緑系統、ティジ規格の3441」 「無意味だ。その規格を作った人間(ルン)はもういない」 「でも蒼ではない、」 「こだわるね、」  僕は声に出して笑う。 「いいよ、認める。あれは緑だ」 「嫌な色」 「そう?」 「不吉なカラーだ」 「君にしてはプリミティブな発言、あ、」  見てごらん、と、僕の唇が言葉をつむぐ。  瞬いている。  緑の月の表面。  左上方の目立つクレータの底、白青色のフラッシュ。そこから遠くない、三つの地点でも。 「……戦いは続いているの?」  ルシエンサが、神妙な顔で、  その無音の青い閃きを見つめる。 「どうだろう? 僕には自然現象と思えるけどね、」 「確かめてみる?」 「え?」 「いつかあそこに行く?」 「どうかな、」  僕は首を左に二度ほど傾ける。僕らの足の下で、ラナクは細かい白砂の上を軽快に進み続ける。砂丘をひとつ越え、下り、また次の砂丘の尾根に向け、ゆるやかに、 「技術的に渡航が可能になったと仮定して、」  僕は言葉を吟味する、  時間をかけて。時間をかけて。  今夜は何かを急ぐ必要は、髪の毛一本分ほども見当たらない。やがて見つかる言葉、 「どれだけ遠くへ行っても、とくに面白いことは何もないかもしれないよ?」 「でも、惑星上(ここ)よりは面白いかも?」 「この惑星(ほし)は退屈?」 「限りなくイエスに近い保留」 「なんだいそれは?」  僕は軽く笑い流し、  それから沈黙、  二人でじっと、その、武骨な衛星を見続けている。今では視界の正面に入った。  かつては聖母星(ルビス)の名で呼ばれた。  今では誰も、名を呼ぶ者はない。  名前を失った衛星。破壊と喪失の形。  全部で13回、月は瞬いた。  それから月はまた、もともとの孤独な沈黙を取り戻す。  そのあとも夜は続く。  月は長く空にとどまっている。  最後には茶色と緑の混合色に偏光し、  腐敗した西洋柑橘(リモナ)のような形態で、  南の砂丘の上に、崩れるように消えていく。  ルシエンサは、また眠りについたらしい。  僕はまだ眠らない。  ラナクは走り続ける。  いくつもの砂丘を越え、薄明の、夜明け前の砂の上を、無音で、北へ。薄い砂煙の軌跡を残して。
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