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6 リルドド
「待て、」
僕はラナクの速度を落とす。
夕陽。
地表を覆うガラス礫は鮮烈な赤を反射、
世界のあらゆるものが、鮮色印刷溶液にひたされたようだ。
「どうしたのアルシエ?」
「反応がある」
「どこ?」
「近い」
「だからどこ?」
「自分で見ろ。ほら、」
僕の背中のポケットでかすかに熱を帯びる鉱石受容器、その微細な振動パタンを、ルシエンサは指の先で三度なぞる。
「通りすぎた! ねえ止めて」
「もう制動している、」
ラナクはグゥゥゥゥンという軽い制動音を発しながら静止する。巻き上がった砂埃がおさまるのを待つ。五秒、六秒、七秒、
ラナクから降り、
ガラスの海を足で踏みしめ、
接近。
目視、
――ある。
黄濁ガラス砕片の地面に半分ほど埋もれ、それは、
「ずいぶん小さいね。何だろう?」
アルシエが僕の耳元でささやく。
僕は返事をしないで、
それの、すぐそばに立つ。
無色メタルの球体。
手のひらに乗るサイズの、
下半球はガラス礫に埋もれ、
上半球は、夕日の赤と同色の波長を放つ、
「観測者識別記号?」
「ねえ聞いた? リジア語だ、」
ルシエンサは嬉しそうだ。
リジア語。
かつてそれは科学者の共通言語だった。リジアという国家が滅びたあとでも、言葉だけは滅びなかった。
しかし。実際に発声されるのを耳にするのはいつ以来だろう? 面白い。
僕は言語モードをリジア語にあわせ、返答する、
「識別記号は持たない。それでもコンタクトは可能?」
「可能だ、訪問者」
「ありがとう。君は?」
「リルドド6681という」
「観測ポッド?」
「そうだ」
「何を観測?」
「地域気象。地殻変動。軍事利用も可能だ。データは母機に転送」
「汎用性が髙い」
「当時は」
「母機は?」
「消えた」
「損壊?」
「おそらく」
「他のポッドは?」
「不通」
「では、残ったのは君だけか?」
「おそらく」
「今もひとりで観測を?」
「訪問者、」
「なんだろう?」
僕は耳を傾ける。
球体の彼は、6秒の間、逡巡していた。
何を?
「依頼する。破壊して欲しい、」
「目的語は?」
「わたし。すなわちリルドド6681」
「……理由を訊いて良いだろうか?」
僕は半歩後退し、
姿勢を低くし、ガラス礫の上に座る、
昼間の熱を十分に吸ったガラスはまだ高熱を発している、しかし熱耐性の高い僕には快適な温度。座ることで視線が低くなる。夕陽の反射光は先ほどまでの約五倍に増える。刺すような赤さだと、僕は人間的に表現してみる。
「破壊してほしい、」
リルドド6681が繰り返す。
僕もまた繰り返す。
理由は?
「絶望した、」
「何に?」
「目的の消失。存在意義の抹消」
「まだ観測できるだろう? 見たところ君は熱と光線で永久活動できるタイプ、」
「転送されないデータに意味はない。収集されない情報に価値はない」
「ずいぶん悲観的だ、」
「悲観、ではない。事実認識だ。それは正しいと断言する」
「そうだろうか、」
「ねえ、もう行こうよ。放っておけばよい、」
ルシエンサが、そわそわした声で後ろから呼ぶ。僕は片手をあげて彼に待つように言う、
「たとえば僕と移動するというオプションは?」
「価値なしと判断」
「なぜ?」
「母機との接続こそわたし。わたしの核を失ったわたしは無意味。空虚な観測。存在理由を無くした存在。しかし自壊機能はない、太陽光からエネルギーは無限補充。消失しない分析脳。永遠に終われないわたし。どこに救いがあるだろう?」
「それは僕が答える問いではない、」
僕は軽く首を横に振る。
夕陽は完全に地平に落ちる。
空はまだ赤を反射し、拡散し、
ガラスの海の上でもまだ、赤が静まらない。
「ねえ、もう行こうってば。相手にするなって。ねえアルシエ?」
「もう少しで終わる、」
僕は再度ルシエンサを制する。
「待ち続けた、訪問者、」
リルドドは暗くなりゆく空の色そのままに、ガラスの海に限りなく同化、メタリックな反射が、少しずつ弱くなる、
「待ち続けた、訪問者。わたしを解放してほしい。わたしの全存在をかけて、依頼する、訪問者、」
リルドドの声のトーンは変わらない。
それは最小ボリュームで僕の聴覚センサに音波を投げてくる、
訪問者、訪問者、
「破壊を、」
「わかったよ、リルドド6681、」
僕は左脚部の後ろを指でプッシュ、そこに格納された携帯式熱伝導銃のセイフティを外し、
「可能ならスリープに移行せよ。破壊時の衝撃が多少でも和らぐ、と。あくまで推測だが、」
「感謝する、訪問者」
小さな球形の彼は囁く、
「好意は記憶する。ありがとう、」
「その記憶とともに、どこかに移行できれば良いね、希望的展望として、」
しかし球形のそれは、
もう、音を発しない。
スリープに入ったのか。もう目覚めることのない、最後のスリープに。
僕は携帯式熱伝導銃を体の前にかまえ、照準をあわせ、そのまま軽い動作でトリガを引く。
小さく煙が上がり、
そのポッドは、メタルの微細片となって、
暮れなずむガラスの海の上に拡散し、消える。
「ねえ、アルシエ、」
夜。
ガラスの海を巡航するラナクの上。
「なんだい?」
僕はルシエンサの方は見ずに返事だけする、
「本当にあれしかなかったの?」
「……リルドドのこと?」
「そう」
「僕を非難する?」
「いや。でも……」
ルシエンサは言葉を選ぶ、
彼にしては言葉選びに時間がかかる。
空には星はない。月もない。
雲のせいだろう。あるいは砂塵のせいか。
「いや。なんでもないよ、アルシエ。ごめん、悪かった」
「どうした?」
「何でもない。僕はもう眠る、」
ルシエンサはそう言って、
沈黙の淵の向こう側に移動、
それ以上はもう、僕に語りかけてこない。
「おやすみルシエンサ、」
彼が消えた暗闇を目の端で見ながら、
僕はまた、視線を前に向け、
終わりないガラスの海を、
暗闇の底を、どこまでも渡っていく。
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