ガラスの海のアルシエ

6/10
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
6 リルドド 「待て、」  僕はラナクの速度を落とす。  夕陽。  地表を覆うガラス礫は鮮烈な赤を反射、  世界のあらゆるものが、鮮色印刷溶液(ガミエルビジュア)にひたされたようだ。 「どうしたのアルシエ?」 「反応がある」 「どこ?」 「近い」 「だからどこ?」 「自分で見ろ。ほら、」  僕の背中のポケットでかすかに熱を帯びる鉱石受容器(リピカレジィ)、その微細な振動パタンを、ルシエンサは指の先で三度なぞる。 「通りすぎた! ねえ止めて」 「もう制動している、」  ラナクはグゥゥゥゥンという軽い制動音を発しながら静止する。巻き上がった砂埃がおさまるのを待つ。五秒、六秒、七秒、  ラナクから降り、  ガラスの海を足で踏みしめ、  接近。  目視、 ――ある。  黄濁ガラス砕片の地面に半分ほど埋もれ、は、  「ずいぶん小さいね。何だろう?」  アルシエが僕の耳元でささやく。  僕は返事をしないで、  の、すぐそばに立つ。  無色メタルの球体。  手のひらに乗るサイズの、  下半球はガラス礫に埋もれ、  上半球は、夕日の赤と同色の波長を放つ、 「観測者識別記号(オピタルリンカ)?」 「ねえ聞いた? リジア語だ、」  ルシエンサは嬉しそうだ。  リジア語。  かつてそれは科学者の共通言語だった。リジアという国家が滅びたあとでも、言葉だけは滅びなかった。  しかし。実際に発声されるのを耳にするのはいつ以来だろう? 面白い。   僕は言語モードをリジア語にあわせ、返答する、 「識別記号(リンカ)は持たない。それでもコンタクトは可能?」  「可能だ、訪問者(レギンジャ)」 「ありがとう。君は?」 「リルドド6681という」 「観測ポッド?」 「そうだ」 「何を観測?」 「地域気象。地殻変動。軍事利用も可能だ。データは母機に転送」 「汎用性が髙い」 「当時は」 「母機は?」 「消えた」 「損壊?」 「おそらく」 「他のポッドは?」 「不通」 「では、残ったのは君だけか?」 「おそらく」 「今もひとりで観測を?」 「訪問者(レギンジャ)、」 「なんだろう?」  僕は耳を傾ける。  球体の彼は、6秒の間、逡巡していた。  何を? 「依頼する。破壊して欲しい、」 「目的語は?」 「わたし。すなわちリルドド6681」 「……理由を訊いて良いだろうか?」  僕は半歩後退し、  姿勢を低くし、ガラス礫の上に座る、  昼間の熱を十分に吸ったガラスはまだ高熱を発している、しかし熱耐性の高い僕には快適な温度。座ることで視線が低くなる。夕陽の反射光は先ほどまでの約五倍に増える。刺すような赤さだと、僕は人間的に表現してみる。 「破壊してほしい、」  リルドド6681が繰り返す。  僕もまた繰り返す。  理由は? 「絶望した、」 「何に?」 「目的の消失。存在意義の抹消」 「まだ観測できるだろう? 見たところ君は熱と光線で永久活動できるタイプ、」 「転送されないデータに意味はない。収集されない情報に価値はない」 「ずいぶん悲観的だ、」 「悲観、ではない。事実認識だ。それは正しいと断言する」 「そうだろうか、」 「ねえ、もう行こうよ。放っておけばよい、」  ルシエンサが、そわそわした声で後ろから呼ぶ。僕は片手をあげて彼に待つように言う、 「たとえば僕と移動するというオプションは?」 「価値なしと判断」 「なぜ?」 「母機との接続こそわたし。わたしの核を失ったわたしは無意味。空虚な観測。存在理由を無くした存在。しかし自壊機能はない、太陽光からエネルギーは無限補充。消失しない分析脳。永遠に終われないわたし。どこに救いがあるだろう?」 「それは僕が答える問いではない、」  僕は軽く首を横に振る。  夕陽は完全に地平に落ちる。  空はまだ赤を反射し、拡散し、  ガラスの海の上でもまだ、赤が静まらない。 「ねえ、もう行こうってば。相手にするなって。ねえアルシエ?」 「もう少しで終わる、」  僕は再度ルシエンサを制する。 「待ち続けた、訪問者(レギンジャ)、」  リルドドは暗くなりゆく空の色そのままに、ガラスの海に限りなく同化、メタリックな反射が、少しずつ弱くなる、 「待ち続けた、訪問者(レギンジャ)。わたしを解放してほしい。わたしの全存在をかけて、依頼する、訪問者(レギンジャ)、」  リルドドの声のトーンは変わらない。  は最小ボリュームで僕の聴覚センサに音波を投げてくる、  訪問者(レギンジャ)訪問者(レギンジャ)、 「破壊を、」 「わかったよ、リルドド6681、」  僕は左脚部の後ろを指でプッシュ、そこに格納された携帯式熱伝導銃(ジャイ・ギキット)のセイフティを外し、 「可能ならスリープに移行せよ。破壊時の衝撃が多少でも和らぐ、と。あくまで推測だが、」 「感謝する、訪問者(レギンジャ)」  小さな球形の彼は囁く、 「好意は記憶する。ありがとう、」 「その記憶とともに、移行できれば良いね、、」  しかし球形のは、  もう、音を発しない。  スリープに入ったのか。もう目覚めることのない、最後のスリープに。  僕は携帯式熱伝導銃(ジャイ・ギキット)を体の前にかまえ、照準をあわせ、そのまま軽い動作でトリガを引く。  小さく煙が上がり、  そのポッドは、メタルの微細片となって、  暮れなずむガラスの海の上に拡散し、消える。 「ねえ、アルシエ、」  夜。  ガラスの海を巡航するラナクの上。 「なんだい?」  僕はルシエンサの方は見ずに返事だけする、 「本当にあれしかなかったの?」 「……リルドドのこと?」 「そう」 「僕を非難する?」 「いや。でも……」  ルシエンサは言葉を選ぶ、  彼にしては言葉選びに時間がかかる。  空には星はない。月もない。  雲のせいだろう。あるいは砂塵のせいか。 「いや。なんでもないよ、アルシエ。ごめん、悪かった」 「どうした?」 「何でもない。僕はもう眠る、」  ルシエンサはそう言って、  沈黙の淵の向こう側に移動、  それ以上はもう、僕に語りかけてこない。 「おやすみルシエンサ、」  彼が消えた暗闇を目の端で見ながら、  僕はまた、視線を前に向け、  終わりないガラスの海を、  暗闇の底を、どこまでも渡っていく。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!