ガラスの海のアルシエ

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9 オルン 「暗いね、」  ルシエンサが低い天井を見上げる。 「十七回目、」 「え?」 「同じ言葉。同じ感想、」 「だって本当に暗いんだもの、」  右手に持った携帯灯(トート)が少し先の足元を照らす、  ひとつ角を曲がると急に天井が高くなる、それと同時に通路の暗さは少しやわらぐ。天井のどこかが崩落しているのだ。わずかに差し込む斜めの光が、地下の空洞をぼんやりと浮かび上がらせる。 「ねえ、戻った方がいいよ?」 「なぜ?」 「理由は、うーんと、わからないけど」 「怖い?」 「……少しね」 「危険はない」 「だけど、」 「しかし広いね、」  都市遺構(サデーィン)。   この規模のものに出会うのは、何年ぶりだろう。当時の居住人口は、推定で80万。  地表の街区は例外なく破壊されている、  しかし、  その地下に存在する、長大な迷宮的通路網(ラーン)。街が生きていた当時は、壮麗な地下街(ルゾン)だったのだろう。今は完全に、瓦礫と沈黙が支配する闇の領域だが。  最初に入り口を見つけたのはルシエンサ。  ちょっとだけ探検を。  そのつもりだった。  が、かなり深部まで来ている。  途中で見つけたからだ。  鉱石受容器(リピカレジィ)に反応する、何か。 「もう一層下。かなり近い、」 「ねえ、もう帰ろうってば」 「キミだけ帰れ」 「できたらとっくにそうしてるよ、」  そして、最下層。 「人工照明(ルフレ)、」 「まさか」 「見てあれ。ほら」 「信じられない、まだ生きた区画が?」  明かりのさす通路の最深部、  ひとつの扉をくぐると、  光が、  光――  四秒後、  僕の視野はその場所の光度にようやく順応する。 「円盤(マヤヴィ)?」 「なんだろう?」  直径二十メルの、正円形の部屋、  ともされた天井灯が暖かな光を床に落とす、  部屋の床には、数多くの円形の構造物、  ひとつひとつのサイズは、直径1メル程度、透明の蓋部と、それを支える基部、  そのひとつに歩み寄り、中をのぞく、 「まさか、」  ルシエンサが深く息を吐く、  信じられない、と僕は言う。  緑の。  コロニー。  植物体。数多くの。  円形の容器の内部を、すっかり覆いつくして。生存する有機体(エス)? 「……ほんとに本物?」 「ねえアルシエ、あれを、」  そのとき視野に飛び込んでくる、  キューブ、正六面体、金属質の、  片手の上に乗る大きさ、  は、無音無振動で中空を浮遊し、  なめらかな動きで、僕たちの視点の中央で静止、 「ヨウコソ、オクサマノニワ、エ」 「……君は?」 「ワタクシハ、オルン、ト、モウシマス」 「守護天使(オルン)?」 「ずいぶんな名前をつけたね、」  ルシエンサが笑ってつぶやく。 「これは実物か?この植物体?」  僕はあらためて部屋をぐるりと見回す、  数にして24基。円形の、植物育成槽(シルフェマニア)―― 「スベテ、ジツブツデゴザイマス。スベテ、オクサマガ、オソダテニ、ナラレマシタ。トテモ、タイセツ二」 「奥様?」 「オクサマハ、オナクナリニナリマシタ」 「え?」 「オクサマハ、ナクナラレマシタ、」  オルンは繰り返す、  あくまで無機質な合成音声(ヴォカシ)。 「イマカラ、ニヒャク、ニジュウロクネン、マエデ、ゴザイマス。オヒトリデ、シズカニ、イキヲ、オヒキトリニナリマシタ、ココデ、」 「そう――」 「イゴ、ワタクシガ、セキニンヲモチ、オクサマノシゴト、ヲ、ケイゾク、シテオリマス」 「仕事?」 「ハイ。ミドリヲ、マモルコト。ヒキツグコト。コノホシノイサン、ヲ、ツギノセダイ、エ」 「そうか、」  僕は腕を組み、  その女性の姿を想像する。  ここでひとりで、植物を育て。  ここでひとりで、植物を守り。  引き継ぐために。  彼女の世代が手にしたものを、  手にしていたはずのものを、  次の世代へ。  次の―― 「ここが彼女の庭だったんだね。あるいはここが、世界で最後の本当の庭――」 「綺麗だ、」  僕は植物育成槽(シルフェマニア)のひとつに顔をよせる、  羊歯植物(シルト)の何かだ、  種類は僕には同定できない、  濃い緑の葉を茂らせ、  その隣にはまた別のコロニー。  蘭毛植物(ワンアン)、  花と呼ぶにはあまりにも地味な、  淡い金色の綿毛を、  透明樹脂の天井の内側で、  しずかに、集めている。  それは極小の花畑。  暗き迷宮(イド)の最下層にひっそりと息づく、この惑星(ほし)で最後の楽園、 「オクサマハ、ミドリガ、オスキデシタ、」  オルンが僕の肩の上方で静止する。  は無音で水平方向に位置回転し、  それからまた静止、 「デスカラ、ワタクシモ、ミドリヲアイシマス。ワタクシガ、セキニンヲモチ、オクサマノシゴト、ヲ、ケイゾクシ、」  暗い地下街(ルゾン)から地上に出る。  地上は光で溢れている、  すでに夕方が来ている。  巨大な夕陽が、ひとつ、  滅び去った八十万都市の上で、  鈍色(にびいろ)の残照を落としていく、 「ねえアルシエ?」 「何?」 「えっとね、」 「だから何?」  ルシエンサは、まだ言葉をみつけられない。  まだ探している。  まだ探して。  歩きながら僕は、  やがて彼が見つける言葉を、根気強く待つ。  夕陽が崖の上にかかり、まもなくそれは、崖の向こうに消えて、夜を呼ぶだろう。 「僕たちは天国を見たのかもしれないね、」  ようやく言葉を見つけたルシエンサ、  それはだいたい、僕の感想と一致している。 「もちろん小さな天国だ、は、」  僕はうなずく、 「けれど天国に変わりはない。この惑星(ほし)の上に、あの場所がある限り、」  僕はそこから遠景を見る、  崖の向こう、  夕陽はまだ、かろうじて消えずにそこにある、 「僕らもまだ、行く価値がある。歩く価値はある。そうじゃないか?」 「そう思う、」  ルシエンサが僕の手を握る、  僕はそれを、軽く、握り返す。 「もう少し先まで行こう、」  残照の地表に長くのびた、自分の影を僕は見る、  むやみに長く引き伸ばされた、僕であって僕ではない、その虚ろな残像(タウド)、 「そして見よう。何かを。それが何かは知らないけれど、」 「知らないけれど、」  ルシエンサがあとを引き継ぐ。  そう、 彼もまた、その言葉を知っているのだ、 「でも、そこには多分、良いものもある。そうでしょアルシエ?」 「そうだ。ただひとつでもそれがあれば、行く意味はある。あるだろう。そう希望するよ」 「ぼくもだ、」  そして。  僕らは肩をならべ、  光の失われた世界の上を、  語る者の絶えた、滅びの惑星の上を、  歩いてゆく。  歩く。  僕らのラナクがそこにある。  僕らはまたそれに乗り、  もう少し先まで行くだろう。  行こう。  僕らが行けるところまで。  その、まだ神々も知らぬ、どこかの場所まで。僕らは。
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